金鈴塚古墳

金鈴塚古墳
Kinreizuka-1.jpg
金鈴塚古墳墳丘
現在も残っている後円部墳丘の一部
所在地 千葉県木更津市長須賀
位置 北緯35度23分14秒
東経139度55分58秒
形状 前方後円墳
規模 墳長約100メートル、二重の周濠を含めると全長約140メートル
埋葬施設 無袖式横穴式石室、緑泥片岩製石棺 木棺
出土品 純金製鈴5、飾大刀17、金銅製馬具、金銅製飾履、金銅製耳輪、琥珀製棗玉、メノウ製勾玉、水晶製切子玉、ガラス玉、鏡、銅鋺、鉄矛、鉄鏃、土師器須恵器
築造時期 6世紀末~7世紀初頭
被葬者 馬来田国造
史跡 県史跡
特記事項 出土品、石棺は重要文化財に指定
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金鈴塚古墳(きんれいづかこふん)は、祇園・長須賀古墳群[1]に属する千葉県木更津市にある前方後円墳である。金鈴塚古墳は1950年11月3日に千葉県の史跡に指定され、古墳から発掘された金鈴などの遺物は1959年6月27日、重要文化財に指定されている。

古墳の概要

金鈴塚古墳は明治末には古墳と見なされており、当時二子塚古墳と呼ばれており、時の地主の手によって墳丘上に古墳の主を祭る祠が建てられていた[2]。しかし1876年4月に作成された地籍図を見ると、金鈴塚古墳の一部は既に畑となっていて、明治初年には古墳の原形は崩され始めていたことがわかる[3]。その後も周辺の低地の埋め立てに古墳の盛り土が用いられていったため、墳丘の大部分が失われてしまい、1950年に行われた発掘当時、前方部がほとんど無くなっていてさながら円墳のようであり、当初どのような形の古墳であったのかがわからなくなっていた。

1946年に米軍が撮影した航空写真や、1950年に行われた発掘の結果、更には1998年から2003年にかけて、古墳近隣の建設工事などの際に行われた範囲確認調査の結果から、金鈴塚古墳は西に前方部、東に後円部がある墳丘長約100メートルの前方後円墳であることが明らかとなった。墳丘の周囲には二重の周濠があって、周濠まで含めた全長は約140メートルと推定されている[4]

後円部には入り口が南側を向いている、富津市付近で産出する砂岩で造られた横穴式石室がある。石室は羨道と石室の区別がない袖無し型で、1950年の発掘結果をもとに、1951年に復元された現在の石室の全長は約9.3メートル、最大幅は約2.2メートル、高さは約2メートルである。しかし発掘時には石室の入り口部分は1932年に行われた道路工事のために削られてしまった後であり、正確な石室の形態は不明である。石室は基本的には自然石を積み上げ造られているが、一部に加工された切石が用いられており、特に床には砂岩の切石が敷かれている。切石を石室築造に用いるのは7世紀以降盛んになる形式であり、築造の最終段階にあるとはいえ、前方後円墳である金鈴塚古墳の石室の一部に切石が用いられていることは、金鈴塚古墳の先進性を見ることができる[5]

石室内には埼玉県長瀞付近からもたらされたと見られる緑泥片岩で作られた組み合わせ式の石棺がある[6]

古墳の立地

金鈴塚古墳は小櫃川によって形成された沖積平野上にある。平野にはかつて砂丘であった微高地が何列か連なっており、金鈴塚古墳もそのようなかつては砂丘であった、周囲よりも高くなっている場所を選んで築造された[7]。そのため昔の砂丘から外れた古墳の周囲には低湿な土地が広がり、かつては主に水田や蓮田となっており、古墳の墳丘は低湿な土地の埋め立てに利用されてしまうこととなった[8]

1950年の発掘後も木更津市の都市化によって古墳の墳丘は崩されていき、わずかに残っていた前方部全てと後円部の一部が消失し、現在、金鈴塚古墳の墳丘は横穴式石室周辺である後円部の一部のみが残り、あとの部分は主に宅地となっている。

祇園・長須賀古墳群と金鈴塚古墳

金鈴塚古墳が所属する祇園・長須賀古墳群は、小櫃川下流域で5世紀前期から中頃から古墳の造営が始まったものとされる[9]。祇園・長須賀古墳群で最初に造営された古墳は 墳長約130メートルと推定される高柳銚子塚古墳であり、その後5世紀末から6世紀前半にかけて中断があったものの、7世紀半ばに至るまで古墳が造られた[10]。その中で金鈴塚古墳は6世紀末から7世紀初頭、祇園・長須賀古墳群の中で最後の前方後円墳として造営されたものと見られている。この頃、全国的に見ても前方後円墳の築造は終了の方向へ向かっており、金鈴塚古墳は最後の前方後円墳の一つとされる[11]

祇園・長須賀古墳群では、6世紀後半から7世紀初頭にかけて特に盛んに古墳が造られており、金鈴塚古墳のような墳丘長100メートル程度の古墳、そしてひと回り小さな前方後円墳、円墳といった古墳が同時期に造られている。つまり祇園・長須賀古墳群は古墳群の中に階層が見られ、金鈴塚古墳は古墳群内の盟主墳の一つであったとされる[12]

ちなみに金鈴塚古墳の後、祇園・長須賀古墳群では方墳である松面古墳が造営されたとみられている。前方後円墳の造営終了後に方墳の造営がなされる点は、祇園・長須賀古墳群に隣接する富津市小櫃川下流域にある内裏塚古墳群や、埼玉県埼玉古墳群などの関東地方の有力古墳群に見られる特徴である。

古墳発掘の経緯

金鈴塚古墳の石室

金鈴塚古墳は大正時代から発掘の計画がなされたこともあったが、まず1932年頃[13]、残存していた後円部を削るような形で道路が作られた、その際に横穴式石室の入り口部分も削られたために金銅製の飾履などが出土し、出土品の中で主なものは地主の寄贈により東京国立博物館に収蔵されたが、散逸してしまった資料もある。[14]

道路建設後も墳丘が削られ、石室の一部が露出して盗掘の危険が高まっているのを見た地元の考古学者から、1950年3月、古墳の保存と発掘を要望する声が上がった。そこで千葉県の史跡調査委員会と早稲田大学の考古学研究室によって、まず1950年4月15日から19日にかけて発掘が行われた。発掘を開始したところ、石室の天井石の消失や崩壊などによって石室内は完全に土砂に埋もれてしまっており、石室の入り口からではなく、石室の上部から掘り進める方式で発掘を行うことになった。しかし残存していた天井石は思いのほか大きく発掘作業は難航し、まず石室の中間部分の発掘と石室内に安置されていた石棺内部の発掘を行い、残りの部分は後日発掘を行うこととなった。そして1950年7月25日から31日にかけて、二度目の石室内の発掘調査が行われた。この時は石室入り口の羨道部、石室奥の部分の発掘が行われた[15]

2度にわたる発掘の結果、未盗掘であった金鈴塚古墳の石室内からはおびただしい副葬品が検出された。7月の発掘の際、石室内最奥部から純金製の鈴が5つ検出され、その金鈴にちなみ1950年11月3日、千葉県の史跡指定とともに二子塚古墳という名から金鈴塚古墳という名に改称された[16]

その後、1998年に古墳近隣で行われた建て替え工事に際して古墳の規模を調査するための範囲確認調査が行われ、2000年から2003年にかけても古墳周囲にトレンチを掘って古墳の範囲確認を行った。そして2003年7月28日から8月8日にかけて、残存していた後円部墳丘の測量、そして石室内の再発掘調査が行われた。その結果として金鈴塚古墳の規模は墳丘長約100メートル、二重の周濠を含めると140メートルという規模であったと考えられること、そして横穴式石室の一部には加工された切石が用いられており、特に床面には切石が敷かれているという、当時としては先進的な築造がなされていたことが判明した[17]

出土品

金鈴塚古墳からは埴輪は検出されておらず、埴輪は用いられなかったとされる。このことからも金鈴塚古墳は前方後円墳終末期の古墳であると見られている[18]

横穴式石室からはおびただしい量の遺物が出土した。1950年の発掘時、石室内に少なくとも3体の遺体が埋葬されていたことが確認された。石室中央部にある石棺内に1体、石棺の奥に1体、そして石棺の手前に1体である。出土品の内容から、石棺奥の遺体が最初の埋葬で、続いて石棺内の遺体、最後に石棺手前の遺体が埋葬されたものと判断される。

石棺奥の部分からは、古墳の名称にもなった金鈴を始め、琥珀製の棗玉やガラス玉などの装身具、金銅製の冠、鏡、銅鋺、金銅製馬具、鉄矛、鉄鏃、飾太刀、そしてこの部分からは大量の須恵器が出土した。石棺奥からは鉄釘が出土したため遺体は木棺に納められて埋葬されたと見られている。石棺内からは鏡、銅鋺、甲冑、鉄鏃、飾大刀、そして金銅製の耳輪やガラス玉などの装身具が出土した。石棺の脇からは金銅製馬具が出土しており、位置関係から見て石棺に葬られた人物の副葬品と考えられている。また石棺に葬られた人物は骨の特徴から青年期男性であることが判明している。そして石棺手前からは銅鋺、金銅製馬具、飾大刀、水晶製の切子玉やガラス玉などの装身具が出土した。また1932年の道路工事の際に出土した金銅製の飾靴も石棺手前の被葬者の副葬品と考えられている。石棺手前部分からも鉄釘が出土しているため、石棺手前の被葬者も奥の被葬者と同じく木棺に納められて埋葬されたことがわかる[19]

石室内から出土した須恵器と飾大刀の形式と、墳丘に埴輪が用いられていないこと、更には石室の一部に切石が用いられていることから、金鈴塚古墳の築造は6世紀末~7世紀初頭であると推定されている。

金鈴塚古墳の特徴

金鈴塚古墳の石棺

金鈴塚古墳の特徴としては、まずその名称の由来ともなった金鈴などの充実した出土品が挙げられる。横穴式石室内からは全部で21口と考えられる飾大刀が出土しており、これは日本の古墳の中でも有数の数である[20]

金鈴塚古墳の重要性はその規模にも現れている。6世紀後半になると前方後円墳の築造は終末期を迎え、全国的に前方後円墳の規模も衰退が著しく、関東地方を除くと100メートル台を越える前方後円墳は見瀬丸山古墳など、大王陵と見られる古墳以外は見られなくなる。6世紀後半、関東地方ではまだ各地で100メートル前後の前方後円墳は造られていたが、埴輪が消えた最終段階の前方後円墳としては、金鈴塚古墳は関東地方最大級の古墳の一つであると評価できる[21]

これら前方後円墳の築造状況や副葬品の内容から、当時のヤマト王権内で関東地方が占める役割が増大していたことと、その中でも小櫃川流域の首長と見られる金鈴塚古墳の被葬者が占める地位の重要性が伺える。これはヤマトタケルの伝承にも伺えるように、古代、三浦半島から房総半島へ向かう海上交通路があり、その房総半島側の上陸点近くにある小櫃川流域の首長は、交通の要衝を押さえることによって重要な地位を占めるようになったと考えられている[22]

その一方、金鈴塚古墳から関東地方各地の首長との結びつきがわかることも注目される。金鈴塚古墳の組み合わせ式の石室は、埼玉県の長瀞付近に産出する緑泥片岩を用いており、荒川東京湾の水運を用いて金鈴塚古墳まで運ばれたものと推定されている。その一方で、埼玉古墳群の後半期に造営されたとされる将軍山古墳からは、金鈴塚古墳の石室でも用いられた千葉県富津市で産出される石材を横穴式石室に用いている。これは金鈴塚古墳を造営した上総の首長と、将軍山古墳を造営した武蔵北部の首長との間に交流があったことを示しており、この交流はヤマト王権の関与が及ばない、独自の交流であった可能性が高く、6世紀後半から7世紀にかけての関東地方の有力首長は、ヤマト王権内で重要性を増すばかりではなく、独自の動きも見せていたことがわかる[23]

また房総地域は国造と古墳群との位置関係に対応関係が見られるとされ、金鈴塚古墳を始めとする祇園・長須賀古墳群は、その位置関係から馬来田国造との関連性が指摘されている。6世紀後半から7世紀にかけての祇園・長須賀古墳群は、墳長100メートルクラスの前方後円墳である盟主墳を筆頭に、中型の前方後円墳、それから円墳といった階層が見られるが、馬来田国造とも考えられる金鈴塚古墳の被葬者は小櫃川流域の頂点に立つ首長であり、その下に中堅クラスの首長、さらにはその下のクラスの首長を従え、ヤマト王権内での地位を高め、さらには北武蔵など関東の他の地域の首長との連携も進めている姿が見えてくる[24]

出土品の保存と公開

金鈴塚古墳の出土品はその学術的重要性が評価され、1959年6月27日、重要文化財に指定された。それに先立って1956年には木更津市内に金鈴塚遺物保存館が開館している。1961年から1963年にかけてと1989年から1991年には、出土品の保存修理事業が行われた[25]

その後、2005年度から膨大な出土遺物の再整理事業が進められており、大刀の再整理の結果、金鈴塚古墳に埋葬されていた太刀は21口程度と考えられ、うち羨道部から1933年の道路工事の際に発見された2口の大刀は、現在所在不明であることがわかった[26]

現在、金鈴塚古墳の出土品は2008年10月1日に開館した「木更津市郷土博物館金のすず」で保存、公開されている。

参考文献

  • 千葉県教育委員会『上総金鈴塚古墳』千葉県教育委員会、1951年
    • 千葉県社会教育課「発掘の経緯及び日誌」
    • 武田宗久「遺跡の概観」
  • 木更津市教育委員会『木更津市内遺跡発掘調査報告書、椿古墳群・菅生遺跡・金鈴塚古墳』、木更津市教育委員会、1998年
  • 杉山晋作「千葉県金鈴塚古墳」『季刊考古学第68号』、雄山閣、1999年 ISBN 4-639-01627-1
  • 木更津市教育委員会『金鈴塚古墳発掘50周年記念展 金鈴塚の輝き』、木更津市教育委員会、2000年
  • 広瀬和雄他『古墳時代の政治構造』、青木書店、2004年 ISBN 4-250-20410-3
    • 岸本道昭「後期前方後円墳の時代」
  • 木更津市教育委員会『平成14・15年度、木更津市内遺跡発掘調査報告書』木更津市教育委員会、2004年
  • 佐々木憲一編『考古学リーダー12 関東の後期古墳群』、六一書房、2007年 ISBN 978-4-947743-55-8
    • 和田晴吾「古墳群の分析視覚と群集墳」
    • 小沢洋「上総における古墳群構成の変化と群集墳」
    • 太田博之「北武蔵における後期古墳の動向」
  • 木更津市教育委員会『木更津市文化財調査集報12』、木更津市教育委員会、2007年
  • 白石太一郎『東国の古墳と古代史』、学生社、2007年 ISBN 978-4-311-20298-8
  • 木更津市教育委員会『木更津市文化財調査集報13』、木更津市教育委員会、2008年

関連項目

脚注

  1. ^ 古墳群の名称としては祇園古墳群、木更津古墳群と呼ばれることもある。ここでは白石(2007)、小沢(2007)が用いている祇園・長須賀古墳群を採用した。
  2. ^ 千葉県社会教育課(1951)p.3
  3. ^ 武田(1951)pp.16-17
  4. ^ 木更津市教育委員会(2000)p.2
  5. ^ 木更津市教育委員会(2004)pp34-35、41
  6. ^ 木更津市教育委員会(2000)p.3
  7. ^ 房総の古墳を歩く 馬来田国の古墳
  8. ^ 武田(1951)p.3、木更津市教育委員会(1998)、p14
  9. ^ 小沢(2007)p.141、白石(2007)pp.116-117
  10. ^ 小沢(2007)p.141
  11. ^ 白石(2007)p.141
  12. ^ 小沢(2007)p.148
  13. ^ 資料によっては1933年とするものもある。ここでは千葉県教育委員会(1951)pp.17-18に掲載されている、金鈴塚古墳の地主であった人物の報告文に従い1932年頃とする。
  14. ^ 千葉県社会教育課(1951)p.3、木更津市教育委員会(2007)pp.10-12
  15. ^ 千葉県社会教育課(1951)pp.3-7
  16. ^ 木更津市教育委員会(2000)p.4
  17. ^ 木更津市教育委員会(2004)pp.32-34、41
  18. ^ 白石(2007)p.143
  19. ^ 白石(2007)pp.122-127、杉山(1999)p.75
  20. ^ 白石(2007)p.150
  21. ^ 白石(2007)pp.145-151、岸本(2004)pp282-292
  22. ^ 白石(2007)pp.145-151
  23. ^ 和田(2007)pp.45-46、太田(2007)pp.97-101、木更津市教育委員会(2000)p.3
  24. ^ 小沢(2007)pp.140-141、147-149、太田(2007)pp.97-101、
  25. ^ 木更津市教育委員会(2000)pp.4、14-15
  26. ^ 木更津市教育委員会(2007)

外部リンク