自由海論

『自由海論』
Mare Liberum, sive de jure quod Batavis competit ad Indicana commercia dissertatio
『自由海論』初版の表紙。
『自由海論』初版の表紙。
著者 フーゴー・グロティウス
発行日 1609年
発行元 Ludovici Elzevirij
ジャンル 法学
ネーデルラント連邦共和国
言語 ラテン語
形態 文章芸術
コード OCLC 21552312
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グロティウスの名が記された1618年公刊の『自由海論』第2版(OCLC 820932174)の表紙。
『捕獲法論』(OCLC 6284745)の表紙。『自由海論』は『捕獲法論』第12章として書かれたものに修正を加えたものだった。

自由海論』または『海洋自由論』(ラテン語:Mare Liberum)とは、フーゴー・グロティウスによってラテン語で書かれ1609年に初版が刊行されたである[1]。正確な題名は『自由海論、インド貿易に関してオランダに帰属する権利について』(Mare Liberum, sive de jure quod Batavis competit ad Indicana commercia dissertatio)という[2]。『戦争と平和の法』(ラテン語:De jure belli ac pacis)と並び「国際法の父」といわれるグロティウスが著わした代表的な法学書のひとつであり[3]、母国オランダの立場を擁護する観点から海洋の自由を論じ[4][5]、それを論拠としてすべての人が東インドとの通商に参加する権利を有するとして、オランダは東インドとの通商を継続すべきであることを主張した[6][7]。初版は匿名で出版され、グロティウスの名が本書に記されるようになったのは1618年に第2版が発行されたときであった[1]。『捕獲法論』(ラテン語:De jure praedae)がグロティウスの死後の1864年に発見されたことにより、この『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものに修正を加えたものであったことが明らかになった[4][8]。現代の公海に関する制度にはこの『自由海論』で論じられた理論に起源をもつものもある[9]

出版の経緯

『捕獲法論』執筆

グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは1604年秋から1605年春の間、グロティウスが22歳のころだと推定されている[10][11]。執筆のきっかけは1603年にアムステルダムの船主組合で商船隊を指揮していたヘームスケルク提督がマラッカ海峡ポルトガルの商船カタリナ号を捕獲した事件であったといわれている[12][13]。この事件に関してオランダの海事裁判所で裁判が行われ、1604年に船主組合と合併した東インド会社に有利な判決が下され、捕獲によって得た品々を東インド会社が合法的に没収することができることが認められた[12]。しかし強力行使によって利益を受けることはキリスト教の教えに反するとして東インド会社の一部の者たちはこの捕獲によって利益を受けることを拒み、そのなかには会社を脱退したり新たに会社を立ち上げる計画を立てる者もあらわれるなど、このとき東インド会社は混乱に陥った[12][14]。現在では裁判の資料が焼失しているために確証はないが、当時グロティウスがアムステルダムで弁護士をしていたこと、グロティウス自身が東インド会社と密接な関係にあることを書簡の中で述べていたこと、執筆にあたってグロティウスが東インド会社の資料を利用していること、以上の理由から、グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは、こうした混乱の中で東インド会社からこのカタリナ号捕獲の正当性を論証し同社の立場を弁護することを要請されたためといわれている[12][15]

『自由海論』出版

グロティウスがこの『捕獲法論』第12章をもとにして『自由海論』を著わそうという考えに至ったのは1608年11月のことであったといわれる[16]オランダのスペインに対する独立戦争の和平交渉が1607年からはじめられ、スペインはオランダの独立については認めたものの東インドとの通商に関しては当時スペインと密接な関係にあったポルトガルの立場を支持してオランダが通商に参加することを拒否し、交渉は挫折するかとも言われたほどであった[16]。こうした情勢の中で東インド会社はオランダがスペインに譲歩することを嫌い、オランダ国内の世論に東インドとの交易の必要性を訴えるためにグロティウスに要請し、グロティウスが著わしたのが『自由海論』であったといわれる[16]。なぜグロティウスは『自由海論』のみを出版し『捕獲法論』を未刊のままとしたのかについては定かではなく様々な憶測があるが[17]九州大学法学部教授伊藤不二男は東インド会社の活動がオランダ国民に大きな利益をもたらすことが明らかとなって会社に対する批判が少なくなったために、もともと会社を擁護するために書かれた『捕獲法論』を刊行する必要がなくなったからではないかと指摘する[12]。『自由海論』の初版は匿名で出版され、ラテン語であらわされた改訂版にグロティウスの名が記されるようになったのは1618年に第2版が出版されたときのことであった[1]。なぜ初版では匿名であったのかに関しては正確な資料がない[1]。しかしそれよりも前の1614年にオランダ語の訳書が出版されており、その中のひとつにはすでにグロティウスの名が記されていた[18]

『捕獲法論』発見

グロティウス死後の1864年、グロティウスの子孫コロネー・ドゥ・フロート家においてグロティウスの原稿がみつかり、同家の依頼でこの原稿がオランダの書店マルティヌス・ナイホフで競売にかけられた[8][10]。このなかに「未刊の自筆の原稿。第12章の一部だけが、自由海論の表題で1609年に公刊された。」という目録が付された全280頁の原稿が発見された[19][8]。これが 『捕獲法論』である[19]。このときまで『自由海論』ははじめから独立した著書として書かれたものであると信じられていた[10]。この『捕獲法論』の原稿はライデン大学法学部が落札し1868年に公刊された[10]#『捕獲法論』第12章との比較も参照。

内容

『自由海論』は、初版においては全体で80頁弱[4]、序の章を除くと66頁程度、全13章からなる[20]。各章は以下の通り。

# 日本語訳[21] ラテン語原文 頁番号[注 1]
序文 キリスト教世界の諸君主と自由な諸国民に対して。 Ad principes popvlosqve liberos orbis christiani -
第1章 航行は、万民法によってなに人にも自由である。 Jure gentium quibusvis ad quosvis liberam esse navigationem 1-4
第2章 ポルトガル人は、オランダ入が航行する東インド諸島に対して、発見によっていかなる支配権をも有しない。 Lusitanos nullum habere ius dominii in eos Indos ad quos Batavi navigant titulo inventionis 4-7
第3章 ポルトガル人は、東インド諸島に対して、教皇の贈与によって支配権を有しない。 Lusitanos in Indos non habere ius dominii titulo donationis Pontificiae 7-9
第4章 ポルトガル人は、インド人に対して、戦争にもとづいて支配権を有しない。 Lusitanos in Indos non habere ius dominii titulo belli 9-13
第5章 インド人のところへ行くまでの海と、その海を航行する権利は、占有によってポルトガル人の独占とはならない。 Mare ad Indos aut ius eo navigandi non esse proprium Lusitanorum titulo occupationis 13-36
第6章 海と航行の権利は、教皇の贈与によってポルトガル人の独占とはならない。 Mare aut ius navigandi proprium non esse Lusitanorum titulo donationis Pontificiae 36-38
第7章 海と航行の権利は、時効や慣習によってポルトガル人の独占とはならない。 Mare aut ius navigandi proprium non esse Lusitanorum titulo praescriptionis aut consuetudinis 38-51
第8章 通商は、万民法によっていかなる人の閥においても臼由である。 Iure gentium inter quosvis liberam esse mercaturam 52-54
第9章 東インドとの通商は、先占によってポルトガル人の独占とはならない。 Mercaturam cum Indis propriam non esse Lusitanorum titulo occupationis 55
第10章 東インドとの通商は、教皇の贈与によってもポルトガル人の独占とはならない。 Mercaturam cum Indis propriam non esse Lusitanorum titulo donationis Pontificiae 55-56
第11章 インド人との通商は、時効や慣習によってもポルトガル人の独占とはならない。 Mercaturam cum Indis non esse Lusitanorum propriam iure praescriptionis aut consuetudinis 57-59
第12章 ポルトガル人が通商を禁止するのは、衡平にもとづいても、いかなる支持をもうけない。 Nulla aequitate niti Lusitanos in prohibendo commercio 59-62
第13章 オランダ人は、インド人との通商の権利を、平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも、維持しなければならない。 Batavis ius commercii Indicani qua pace, qua indutiis, qua bello retinendum 62-66[注 2]


構成

序文では、海洋に関する問題解決のため、普遍的人類社会の思想を説き、キリスト教世界に対し問題の審議を求めている[6][24]。この序文は『自由海論』のもととなった『捕獲法論』第12章にはなかったもので、『自由海論』に初めて書かれたものであった[25]。そして本文ではふたつの命題を示し、以下のように『自由海論』はこのふたつの命題を論証する内容構成となっている[6]

『自由海論』の構成[6]
命題 航行の自由。万民法により航行の自由はすべての人が有していて、そのためポルトガル人はオランダ人が東インドに航行し東インド住民と通商を行うことを妨げることはできない(1章)[26]
論証 支配権否認。ポルトガル人は東インドの支配者ではない(2-4章)[27] 海洋の自由。ポルトガル人は東インドへとつながる海の支配者ではない(5-7章)[28][29]
命題 通商の自由。万民法によりすべての人々の間で通商が自由であり、ポルトガル人が東インド人と通商を行う独占的な権利を有しているわけではない(8章)[30]
論証 先占によっても(9章)、教皇の贈与によっても(10章)、時効や慣習によっても(11章)、衡平上も(12章)、ポルトガル人は東インドとの通商権の独占を主張できない[30]
結論 オランダは平和条約が成立しても、休戦条約が結ばれるだけにとどまるのであっても、戦争が続行されることになったとしても、どのようなときであってもオランダ人は東インドとの通商の自由を維持しなければならない(13章)[31]


『自由海論』イタリア語訳1633年版(OCLC 29620739)の表紙。
『自由海論』オランダ語訳1636年版(OCLC 43395339)の表紙。

上記のように、この『自由海論』は"Mare Liberum"(これを日本語に正確に直訳すると「自由海」[1])という表題となっているにもかかわらず、主に説かれているのは通商の自由であり、海洋の自由については通商の自由を論証するための根拠として一部に述べられているにしか過ぎない[6][7]。つまり全体としては、万民法により東インドとの通商がすべての人に自由であるために、オランダ人もまたその通商に参加する権利を有している、という論旨である[7]

航行の自由

ひとつ目の命題である航行の自由は、支配権の否認、そして海洋の自由の2点にわけて論じられている[6]。ポルトガル人は発見によっても、教皇の贈与によっても、戦争によっても、東インドの支配権を取得したことはないし(支配権否認)、発見によっても、教皇の贈与によっても、時効慣習によっても、東インドへとつながる航路の独占を主張できない(海洋の自由)、という論旨である[6]

支配権否認

グロティウスは次のように述べて東インドに対するポルトガル人の支配権を否認した。支配するためには所有が必要であるが、ポルトガル人は東インドを所有領有したことはない[27]。発見によってポルトガル人が東インドを取得したと主張されることはあるが、ポルトガル人が東インドに初めて行ったときよりも以前から東インドという土地は知られていたしそこには住民もいた[27]教皇アレクサンデル6世による分割はスペインとポルトガルの2国間だけのことであって他国には関係のないことであり、また教皇は宗教上の管轄権を有しているだけで全世界の世俗的支配者ではなく、異教徒の土地である東インドを贈与する権限は教皇にはない[27]戦争によって支配権を確立することはできるがそれは占領の後のことであり、ポルトガル人は東インドを占領したことがないばかりか、東インドの住民は戦争もしていないし、ポルトガル人には戦争を行う正当な理由もなかった[27]。以上の理由からグロティウスは、東インドに対する支配権は東インド住民自身のものであって、東インドはポルトガルの支配に服するわけではない、と説いた[27]

海洋の自由

全体の構成からみれば海洋の自由については通商の自由の論拠の一部として述べられているにしか過ぎないが[6]、しかし『自由海論』のなかでは海洋の自由に関する記述も重要な部分を占めているといえる[7]。その理由として海洋の自由を解説した文章量が本書全体の中で占める割合が指摘される[7]。おもに海洋の自由を記述しているのは第5-7章であるが、第5章が23頁、第7章が13頁が費やされており、第5-7章だけで全66頁の本文の中の38頁半を占めているのである[7]。この海洋の自由について述べている5-7章の中でも、特に初版の第13頁中ほどから第36頁中ほどまでの、本文全体の3分の1である23頁を占める第5章が海洋の自由を述べた個所としては最も重要といえる[32]

グロティウスは人間による所有占有の対象となるものとならないものとを分け、そのような対象とならないものは自然法万民法によりすべての人が共通に使用することができるとした[28]。そして海はそのような所有や占有をすることができないものに該当するとし、その理由として2つの点を挙げた[33]。ひとつは自然的理由である[33]。これによると、物の私的所有は占有によって行われ、占有は明確な境界を定めることによって可能であるが、海は流動的であり広大であるためそのような境界の設定が不可能で、そのために海を占有することはできず私的所有の対象とはならないとしたのである[33][34]。そして占有できないもうひとつの理由として、道徳的理由を論じた[33]。つまり、占有することが不可能なものか、またはこれまでに一度も占有されたことがないものは誰の財産にもならず、もしそのようなものを誰かが使用したとしても、後にまた誰かが使用できるようなかたちで永久に存在し続けなければならない[33]。土地は私的所有によって分割されたが、交通の手段である海は他人に害することなく利用することが可能であるためすべての人による利用が可能な万民の共有物に該当し、海が私的所有の対象とはならないことは全人類の合意である[33][34]。ただしこの海洋の自由の例外として、杭を打って囲い込んだ魚の生洲のように、海の「狭い部分」については一時的に占有することもできるが[28]、問題とされているのはそのような海ではなく大洋であり、ヨーロッパと東インドをつなぐ広大な海からポルトガル人は他国人を排除することはできないと説いた[28]。このグロティウスが論じた海洋の自由に関する理論を発端として後に学術的な論争がおこり、近代的な海洋区分の成立を促す契機ともなった(#影響も参照)[34]

通商の自由

グロティウスは以上を論拠として、ふたつ目の命題である通商の自由を説いた[6][7][30]。グロティウスは資源や富が世界に偏在する状況を是正する必要から、通商権や交通権は普遍人類社会における基本的自然権であり、海はその権利実現のための重要な手段であると位置づけた[35][34]。つまり、すべての生活必需品が世界中で入手できるわけではない以上、さまざまな場所で異なる生活必需品が生産され、それが民族間で交換されることによって人類社会が成り立っている[33]。この相互依存関係を阻害することは人類社会を破壊するものであり、すべての民族は他の民族のところに行って通商を行うことが許されなければならない[35]。君主や国家は自国民のところに他国民がやってきて通商することを妨げてはならないし、他国民同士が通商することに対しても妨害は許されない、としたのである[35]。さらにもしも他国民同士が通商をすることを妨げるのならば、それは戦争の正当原因にもなるとした[35]。そしてグロティウスはこれら海洋の自由と通商の自由を論拠として、ポルトガルは東インドにつながる航路を独占したりそこから他国を排除することは許されないと主張したのである[28]

結論

『自由海論』全体の結論は第13章に述べられている[36]。その結論は、どのような状況であってもオランダ人は東インドとの通商を維持しなければならない、とするものである[36]。第13章の題名にもある「平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも」という点は、『自由海論』の初版が発行された1609年当時の事情を反映したものとされる[36]。つまり本書初版が発行された当時は、スペインに対するオランダの独立戦争の和平交渉が1607年から開始されていたがその交渉はうまく進展せず、1608年には交渉が挫折するかとも思われていた時期である(#経緯参照)[36]。できれば平和条約の締結が最も望ましいけれども、そうではなく休戦条約が締結されるだけかもしれないし、それにすら失敗し戦争が続行されることになるかもしれない、そのような状況においてグロティウスは、「平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも」オランダは東インドとの通商に関して、当時ポルトガルと密接な関係にありオランダの東インド通商に反対していたスペインに対し、譲歩すべきではないと主張したのである[36]

『捕獲法論』第12章との比較

グロティウスが書いた『捕獲法論』の原稿[37]。『自由海論』のもととなった第12章が始まる箇所。"CAPUT XII"と書かれている。

すでに述べたように『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものであったが、完全に同一というわけではない[13]。『捕獲法論』第12章では『捕獲法論』の他の章と関連して述べられていた部分が除かれ、分量としてはおよそ5分の7が『自由海論』としてまとめられた[38]。まず『自由海論』では『捕獲法論』第12章のまえがきに相当する最初の1頁程度が削除され、それに代わり序文「キリスト教世界の諸君主と自由な諸国民に対して」が加えられている[13][39]。また不当な通商の禁止が戦争の正当原因となることが述べられた『捕獲法論』第12章のおわり約18頁半程度が削除され、その一部が『自由海論』では全体の結論を述べた第13章として書きかえられているが、これは通商の自由を主題とした『自由海論』では不要であったためといわれる[13][38]。これらの修正によって論旨は大きく変化している[13]。また『自由海論』第1章の書き出し3行程度の文章と、『自由海論』第12章のおわりのところも『捕獲法論』の該当する個所をそのまま用いた文章ではなく、『捕獲法論』の他の個所にある記述をここに加えたり、『捕獲法論』にはあった記述を省いたりといった修正がみられる[13]。これら以外にも、用語が訂正されたり文章が省略されたところが確認される[13]。『捕獲法論』は前述のとおり1603年に東インド会社がポルトガルの商船カタリナ号を捕獲したことを弁護するために書かれたものであったが、その構成は大きく分けて3つにわけることができる[13]。第1はグロティウスの法律思想や正当戦争、捕獲権行使に関する基礎理論であり、第2がオランダ人に対するポルトガル人の通商妨害やカタリナ号捕獲事件に関する歴史的事実、そして第3が第1の部分(基礎理論)を第2の部分(歴史的事実)に当てはめカタリナ号捕獲の正当性を論証し、問題の解決を図ったものである[13]。『自由海論』のもととなった第12章はこのうちの捕獲の正当性を論証した第3の部分に当たるが、この第3の部分も3つに分けられる[13]。第1は法律的見地からの論証(第12-13章)、道徳的見地からみた論証(第14章)、有利、有益という見地からみた論証(第15章)である[13]。第12章は全体からみれば法律的見地からみた論証を行った個所の一部であり、具体的には私戦という観点からのみ論証した部分であった[13]。つまり『捕獲法論』第12章はもともと、東インド会社が行った戦争が仮に私戦に当たるのだとしても、それは正当なものであった、ということを論じていたのである[13]。このように『捕獲法論』第12章は全体的議論の中の一部を論じたものにしかすぎず、そのまま抜き出したとしてもまとまった著書とはなりえない[39]。前述のような修正はそのような必要からなされたものといえる[39]

思想的背景

グロティウスが海洋の自由や通商の自由を述べるにあたって論拠としたのは、 普遍的人類社会の思想である[7]。つまり、すべての人間は人間の本質に従い普遍的な社会を構成し、その社会ではすべての人に当てはまる共通の法(万民法)が存在し、その法によりすべての人に基本的な権利が保障される、という考え方である[7]。『自由海論』に示されたグロティウスのこうした思想に影響を与えた先駆者として、まずフランシスコ・デ・ビトリアが挙げられる[7][40]。ビトリアは著書『インディオについての特別講義』(Relectio de Indis)の中で、普遍的人類社会の思想を背景にすべての人は自由に交通して他の民族と交際する基本的な権利を有することを述べた[7][41]。ビトリアが主として説いたのは交通権の理論であって海洋の自由についてはそれほど詳しく述べていたわけではなかったが、グロティウスよりも以前に海洋の自由を説いた代表的な学者のひとりであり、実際に『自由海論』の各所でビトリアの説の引用がみられる[7]。また『自由海論』では、そのビトリアの影響を受けた学者フェルディナンド・バスケスの言葉も詳細に引用している[7][41]。特に第7章では、普遍的人類社会に共通の万民法についてバスケスの言葉をそのまま引用している[7]。ただしバスケスの思想はビトリアの思想をそのまま受け継いだものであり、基本的には同一のものである[7]。また『自由海論』はアルベリクス・ゲンティリスの影響も強く受けている[7][42]。例えば『自由海論』第1章は、ゲンティリスの著書『戦争の法』(De jure belli)の第1巻第19章についてほとんどそのまま述べたものともいわれる[7]。グロティウスがゲンティリスから受けた影響は『自由海論』だけでなく、グロティウスのもう一つの代表的著書『戦争と平和の法』(De jure belli ac pacis)にもみられる[7]

後世への影響

海洋論争

ジョン・セルデン著、『閉鎖海論』(OCLC 606535345)、122-123頁。イギリス近海の地図が描かれている。『自由海論』への反駁としては最も有名である。

『自由海論』が出版された当時、グロティウスが説いた海洋の自由の理論に対しては多くの学者が反論した[5]。例えばイギリスウィリアム・ウェルウッドは『海法要義』(1613年)[32]、『海洋領有論』(1615年)などを著わしグロティウスに反論した[5]。ウェルウッドの反論に対しグロティウスは『ウィリアム・ウェルウッドによって反論された自由海論第5章の弁明』(Defensio Capitis Quinti Maris Liberi Oppugnati a Guilielmo Welwod)を執筆し再度海洋の自由を主張しようとしたが、これは未完成でありグロティウスによって出版されることはなく1872年に他の学者によって公表された[43]。これはグロティウス自身が書いた唯一の反論であるといわれる[43]。イギリスのジョン・セルデンが著わした『閉鎖海論』(1635年)は『自由海論』に反駁した書籍のなかでも最も有名な著書である[44]。セルデンはこのなかで、海水は流動的であっても海そのものが変化するわけではないため海の物理的な支配が可能であるとし(グロティウスが説いた自然的理由の否定)[44][33]、海は無尽蔵ではなく航行・漁業・通商などによって海の利益は減少するため万民の共同使用に適しているという主張は事実に反する(グロティウスが説いた道徳的理由の否定)としたのである[33]。この時期イギリスは「イギリスの海」を主張し自国沿岸の漁業独占を目指していて、とくにイギリスの学者たちはイギリスのこうした立場を正当化するために『自由海論』に反論した[5]。つまりグロティウスはオランダの東インドへの航行の自由の論拠として海洋の自由を主張したのに対し、セルデンはイギリスによる近海漁業の支配の論拠として海が領有可能であることを主張したのである[33]。『閉鎖海論』の出版当時には『自由海論』よりも大きな支持を集め[44]、また『閉鎖海論』ほうがより当時の諸国の慣行に一致していたともいわれる[45]。こうして17世紀前半に展開された学術的論争は「海洋論争」といわれ、近代の海洋法形成の契機となった[34]

公海自由の確立

それにもかかわらずその後諸国は『自由海論』で説かれた理論を大筋で採用する方向へと向かっていく[45]。それは、公海を領有するのに必要な費用に比べ、領有した場合に得られる見返りの少なさからグロティウスの結論が支持されていったためであるといわれる[45]。例えばザミュエル・フォン・プーフェンドルフは、海の占有自体は陸地から管理したり軍艦による監視などで不可能ではない(グロティウスの自然的理由の否定)とはしたものの、実際にはこうした管理を行うのは非常に困難でそれに報いるだけの収益も期待できないとしたのである[33]。しかし同時にプーフェンドルフは、海の使用法の中には確かに航行のような他人に害を与えない活動もあるが、漁業のように資源が無尽蔵ではないものや、海岸に近接した外国軍艦の航行のように沿岸住民に脅威を与えるような使用法もある(グロティウスの道徳的理由の否定)とし、そのため沿岸の住民が自国沿岸の海を自国の海とすることには正当な理由があると説き、逆に沿岸に近接する海を超えて大洋の独占を主張し他国の平和的な航行までを禁じることは許されないとした[33]。つまりプーフェンドルフは沿岸海域と大洋とを区別して論じたのである[33]。「海洋論争」の時代には沿岸からの距離によって区分することなく海洋全般について論じられたが[33]、こうしてこの時代には沿岸から一定の幅の「狭い領海」とその外側の「広い公海」を認めるという、領有できる海とできない海とを分ける考え方が広まっていった[34][5][45]。18世紀中ごろには海を領海公海との二つの部分に分け、公海ではすべての国が領有が禁止され、すべての国による使用が認められるという考え方が学説上確立し[33]、19世紀はじめまでにこうした考えは当時の国際社会から受け入れられ慣習国際法として成立したのである[34]。現代ではこのような公海自由の原則が慣習国際法として確立しているだけでなく[46]、1958年の公海条約第1条や1982年の国連海洋法条約第86条、第89条では国家による公海の領有や排他的支配が禁止され、国連海洋法条約第87条第1項では公海使用の自由が認められる範囲が定められたが、こうした現代の公海自由に関する国際制度はグロティウスが『自由海論』で論じた理論に起源を持つとされている[9][47]

脚注

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注釈

  1. ^ 初版での頁番号を記した。序文を含め、本文ではない頁には頁番号が付されていない。序文は最初の頁にある目次の次の頁から全10頁にわたって書かれている。あとがきも2頁あるが、こちらにも頁番号は書かれていない[22]
  2. ^ 本文最後の66頁目には42の頁番号が誤って印刷されている[23]

出典

  1. ^ a b c d e 大澤(1941)、9-10頁。
  2. ^ 大澤(1941)、10-11頁。
  3. ^ 「グロティウス」、『国際法辞典』、74頁。
  4. ^ a b c 「自由海論」、『国際法辞典』、174頁。
  5. ^ a b c d e 杉原(2007)、121-123頁。
  6. ^ a b c d e f g h i 伊藤(1973)、348-350頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 伊藤(1973)、389-394頁。
  8. ^ a b c 大澤(1941)、11-12頁。
  9. ^ a b 「海洋の自由」、『国際法辞典』、47頁。
  10. ^ a b c d 伊藤(1970)、465-468頁。
  11. ^ 伊藤(1968)、239-241頁。
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  13. ^ a b c d e f g h i j k l m 伊藤(1970)、468-475頁。
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  15. ^ 水上(2004)、8頁。
  16. ^ a b c 伊藤(1963)、465-468頁。
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  18. ^ 伊藤(1963)、465-468頁、注釈1。
  19. ^ a b 伊藤(1963)、239-241頁、目録の日本語訳は同頁から引用。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "伊藤1963-239-241"が異なる内容で複数回定義されています
  20. ^ 大澤(1941)、8-9頁。
  21. ^ 伊藤(1973)、39-40頁より各章の題名日本語訳を引用。
  22. ^ Mare Liberum, Overzichtpagina”. Koninklijke Bibliotheek. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
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参考文献

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外部リンク