翔鳳丸

翔鳳丸

翔鳳丸(しょうほうまる)は、鉄道省青函航路車載客船。翔鳳丸型の第1船である。

日本で最初の車載客船であり、後の鉄道連絡船の原型となった船舶である。 翔鳳丸型は4隻建造された。翔鳳丸・飛鸞丸・津軽丸(初代)・松前丸(初代)であるが、翔鳳丸と飛鸞丸は浦賀船渠で、津軽丸と松前丸は三菱造船長崎造船所で建造された。浦賀船渠製と三菱造船製では仕様が異なった。 ここではこれら翔鳳丸型についても記述する。この翔鳳丸型は全て太平洋戦争で失われた。

概要

第1次世界大戦(1914~1918年)勃発は世界的な船腹不足を発生させ、日本においても海運貨物から鉄道への転移を招いた。従前より貨物輸送力の逼迫していた青函航路は混乱状態に陥った。更に1917年以降は急激な旅客増加もあり、当時の鉄道院運輸局船舶課は、北海道樺太方面の輸送力増強のため、輸送方式の抜本的改革を計画した。それは、1919年(大正8年)より、第一関門丸型の自航式車両渡船を投入して良好な成績を収めていた関森航路(下関-小森江)の貨車航送方式を青函航路にも採用し、加えて比羅夫丸型を上回る700名前後の旅客も積載できる3400総トン級の車載客船を建造する、というものであった[1]。しかし当時、日本には車載客船建造運航の経験がなかったため、鉄道省は1909年開設のバルト海を行くドイツ ザスニッツとスウェーデン トレレボリ間航路(58海里)の3000総トン級のDrottning Victoria号を手本として設計し[2]、1921年(大正10年)に浦賀船渠に2隻、翌年に三菱造船長崎造船所に2隻を建造を発注した。

翔鳳丸型の車両甲板には軌道が3線敷設され、左舷側から船1番線、船2番線、船3番線と称した。中央の船2番線は機関室囲壁で行き止まりのため短く、ワム型貨車5両または20m級荷物車2両、両側の2線にはワム型貨車を各10両ずつ積載でき、ワム換算で合計25両の貨車積載が可能であった[3]。積み込まれた車両は、軌道終端の車止めの連結器と連結された。 横揺れによる車両横転防止のため、“甲種緊締具”と称する一端がハサミ状、他端がフック付きのターンバックルを用い、ハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ、フックを斜め下側方の甲板面に設置した緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げて車両を固定した。また縦揺れに対する車両移動防止のため、“乙種緊締具”と称するターンバックル付きの二股の鎖を用い、鎖の一端を最後部連結器に巻きつけ、他の2端のフックを列車後方の甲板面の緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げ、列車を引き伸ばし固定した[4][5]。これらの緊締具は、その後も改良されながら1988年の青函連絡船の終航まで使用された。

可動橋の軌道の先端と車両甲板後端の軌道には特殊レールが設置され、隙間が生じないような構造が採用された。また、本船の船1番線と3番線は船体中心線から離れており、車両積み降ろしの際に船体が横傾斜するため、ボイラー室両舷に各143トン(三菱造船製は127トン)のヒーリングタンクを設置し、この両タンク間を大容量の汽動式遠心ポンプを用い、海水を迅速に移動させて横傾斜を抑制した。このヒーリング装置の操作は、車両積み降ろし作業を目視できる後部船橋で行われた[6][7]。 本船はバルト海航路の連絡船を見本としたため、かの地で行われているように港外で回頭し、後進で入港できるよう、船首舵も装備され、その操縦も後部船橋で行われた[8]。その後、青函航路では前進のまま入港し、桟橋直前で回頭する航法をとるようになり、船首舵は装備されなくなった。しかし、後部船橋はヒーリングポンプ操作のため“ポンプ操縦室”と名を変え、1977年建造の石狩丸(3代目)まで受け継がれた。

翔鳳丸型は1924年(大正13年)に就航したが、当時は北海道では自動連結器本州などではねじ式連結器だったため、全国一斉に自動連結器への交換、及び陸上設備が完成した1925年(大正14年)8月1日より車両航送が開始された。 船内の一般配置は、上から操舵室のある航海船橋、その下には、前方に甲板部士官居室と無線室、両舷に救命ボート、後部には後部船橋のある端艇甲板があった。 その下、車両甲板の天井にあたる上部遊歩甲板には、前方に2段寝台を備えた1等船室が8室あり、上段寝台は適宜折りたたみ可能であったが、その操作性は良くなかった。1等の定員は39名であった。続いてステンドグラス入りの天窓を有する立派な1、2等食堂があり、その後方には、大部屋に2段寝台を14組、定員28名の2等寝台室、さらに室外通路を隔てた後方には定員170名の畳敷きの2等雑居室が配置された[9][10]。甲板周囲はその名のとおり回廊状に暴露していた。 この下には、車両甲板両舷の中2階に相当する部分に下部遊歩甲板があったが、幅が狭く、一部が船員室や船員食堂に充てられ、客室はなかった。ここも船尾側3分の2は暴露していた。その下が車両甲板で、軌道が3線敷かれていた。

車両甲板の下の甲板を本船では主甲板と称し、中央部にボイラー室とタービン室があり、その前方と後方に畳敷きの3等雑居室が設けられた。浦賀船渠製の翔鳳丸・飛鸞丸ではボイラーに、舶用スコッチ型 6缶を採用したのに対し、三菱造船長崎造船所製の津軽丸・松前丸では軽量小型の、バブコック・アンド・ウィルコックス式水管型 6缶を採用し、ボイラー室を縮小して3等船室を広くし、浦賀製の定員658名に対し三菱長崎製は753名と100名近く増員できた[11]

比羅夫丸の蚕棚式船室に比べて居住性が大幅に向上した。

翔鳳丸・飛鸞丸

翔鳳丸は1922年(大正11年)8月10日起工、1924年(大正13年)4月19日に竣工。飛鸞丸は1922年(大正11年)8月10日起工、1924年(大正13年)4月19日に竣工した。1923年(大正13年)9月1日の関東大震災により建造が遅れ、第2船の飛鸞丸の竣工は翔鳳丸4隻の最後になった。

主な仕様

※括弧内は飛鸞丸

  • 総トン数: 3,461t (3,459.5t)
  • 旅客定員: 895名
  • 全長: 109.73m
  • 垂線間長:106.68m
  • 型幅: 15.85m
  • 満載喫水: 4.57m
  • 主缶: 舶用スコッチ型 6缶
  • 主機: ラトー式衝動タービン イギリスメトロポリタン=ヴィッカース社
  • 出力: 5,731馬力 (5,844馬力)
  • 最高速力: 16.96kt (17.02kt)
  • 航海速力: 15.5kt 

(出典:山本煕 車両航送 表-30 日本鉄道技術協会1960) 

沈没

翔鳳丸は、1945年(昭和20年)7月14日、青森港外で投錨中にアメリカ軍の空襲を受け15時55分沈没。47名が戦死した。飛鸞丸は同日、青森港で停泊中に空襲警報を受けて退避したが青森港内で空襲を受け、15時20分に沈没。17名が戦死した。

津軽丸・松前丸

津軽丸は1923年(大正12年)6月13日起工、1924年(大正13年)9月23日に竣工。松前丸は1923年(大正12年)6月13日起工、1924年(大正13年)10月24日に竣工した。

主な仕様

※括弧内は松前丸

  • 総トン数: 3,422t (3,485t)
  • 旅客定員: 990名
  • 全長: 109.73m
  • 垂線間長:106.68m
  • 型幅: 15.85m
  • 満載喫水: 4.57m
  • 主缶: バブコック・アンド・ウィルコックス式水管型 6缶
  • 主機: 三菱式衝動タービン
  • 出力: 5,424馬力(5,958馬力)
  • 最高速力: 16.88kt (17.38kt)
  • 航海速力: 15.5kt 

(出典:山本煕 車両航送 表-30 日本鉄道技術協会1960)

沈没

津軽丸は、1945年(昭和20年)7月14日、函館港へ向かう途中アメリカ軍の空襲を受け、15時10分狐越岬沖で沈没。127名が戦死した。松前丸は函館港から退避中、6時30分に七重浜海岸に擱座。7時20分に炎上。22名が戦死した。

その後

函館市青函連絡船記念館摩周丸に展示されている初代松前丸の号鐘

津軽丸を除き、残る3隻の船体は戦後引き揚げられるなどしてスクラップとなったが、松前丸で使用されていた号鐘は現在函館市青函連絡船記念館摩周丸で保存・展示されている。

脚注

  1. ^ 山本煕 車両航送p214 日本鉄道技術協会1960
  2. ^ 古川達郎 連絡船ドックp59 船舶技術協会1966
  3. ^ 山本煕 車両航送p220 日本鉄道技術協会1960
  4. ^ 山本煕 車両航送p223 日本鉄道技術協会1960
  5. ^ 古川達郎 連絡船ドックp106 船舶技術協会1966
  6. ^ 山本煕 車両航送p227 日本鉄道技術協会1960
  7. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p73 成山堂書店1988
  8. ^ 山本煕 車両航送p217 日本鉄道技術協会1960
  9. ^ 山本煕 車両航送p219 日本鉄道技術協会1960
  10. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p73~74 成山堂書店1988
  11. ^ 山本煕 車両航送p215 日本鉄道技術協会1960

参考文献

坂本幸四郎『青函連絡船』朝日イブニングニュース社、1985年)

関連項目