納銭方

納銭方(のうせんかた/なっせんかた)とは、室町幕府土倉役酒屋役を徴収するために土倉酒屋の有力者から任命した徴税機関。京都では鎌倉時代後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。延暦寺に代表される有力寺院や朝廷造酒正押小路家)などは、こうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた。

京都に成立した室町幕府は本来、御料所などからの収入に財政基盤を置いていたが、南北朝の戦いの中で南朝方によって占領されたり、自軍の武将への恩賞に宛てられるなどして次第に縮小していく傾向にあった。そこで幕府も土倉・酒屋からの徴税によって不足分を補う方針を採るようになり、軍事力による京都市中の掌握を背景に他の権門の影響力を排除しつつあった。3代将軍足利義満が在任していた応安4年(1371年)に後光厳天皇譲位のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土倉・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫を幕府に納税することとなった。

京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は当初は直接個々の業者より徴収を行おうとしたものの、徴収効率が悪かった。そこで、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって、数十軒単位で幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針に変更した。その責任者が納銭方である。納銭方には、土倉の担保用質物の員数に応じて土倉役を徴収する土倉の衆中と酒屋の醸造用酒壷の壷数に応じて酒屋役を徴収する酒屋の衆中が存在した。なお、記録上において納銭方の中に法体の姿を取って「○○坊」と名乗っている者と普通に俗名を名乗っている者が存在するが、これは土倉が本来は延暦寺などの支配下にあったため、その一員である証としてそれらの寺院に属する僧侶の体裁を取った名残であると考えられている。また、こうした納銭方であった土倉の中には公方御倉に任じられる者も存在した。本来、幕府の財貨や文書を管理する倉奉行という役職が存在していたが、運搬の手間や安全を考えて納銭方に徴税だけではなく、幕府財政の出納実務をも特定の納銭方に一任するようになり、倉奉行は幕府に直接納付を許された特定の業者からの納税(直進)や幕府の特別会計(内裏造営経費である「造内裏棟別」など)及び小口の出納のみを扱う限定的な職務に縮小されることとなった。

ところが、6代将軍足利義教以後になると状況が変わってくることになる。まず、土一揆などによって徳政令が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった。その場合、納銭方からの収入が滞り、将軍の日々の生活にも影響が出る恐れも生じた。そこで、「納銭所会所」と呼ばれる一種のを結成させて同業者間の協力組織を確立させるとともに幕府による保護・監督体制を強化して土倉や酒屋の自由な営業・廃業を規制した。また、分一徳政の導入による徳政令の手続に手数料を導入したり、新たに味噌屋風呂屋なども対象に含めた馬上役を設定、更に納銭方に対して予め予定税収額を納付させた上での請負制を導入するなどの財政安定策が採られた。これによって応仁の乱直前まで、幕府の権威低下にも関わらず幕府財政は比較的安定していたといわれている。

だが、応仁の乱後には京都の荒廃や納税拒否の動きによって請負額に徴税額が達せずに赤字となって納銭方を辞退する者が相次いだ。これに対して幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」と呼ばれる高利・日歩の新興金融業者に対しても課税を行うなどして税収低下を抑制しようとするが、 8年(1539年)に天文法華の乱の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として管領細川晴元が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉「正実坊」による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)要求するに至った。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年(1552年)には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたが、敗訴した。納銭方は天正元年(1573年)の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった正実坊掟運織田信長によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは織田政権によって吸収されていったと考えられている。

参考文献

  • 桑山浩然「室町幕府の政治と経済」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028528
  • 早島大祐「首都の経済と室町幕府」(2006年、吉川弘文館)ISBN 4642028587