第五青函丸

第五青函丸(だいごせいかんまる)は、運輸通信省青函航路鉄道連絡船車両渡船であった。

第四青函丸を原型として簡易化したW型戦時標準船(第五青函丸型)で、第五~第十二青函丸の8隻があった。

ここでは第五青函丸型について記述する。

W型戦時標準船建造までの経緯

1937年(昭和12年)の日中戦争勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、1936年 (昭和11年)の110万トンから1940年(昭和15年)の213万トンへと倍増した[1]。しかし、この間の車両渡船の増強は、1939年(昭和14年)11月就航の第三青函丸1隻にすぎず、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦により、輸送需要は一層増加し、そのうえ、1941年(昭和16年)11月20日には、浮遊機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった[2]

このため1941年(昭和16年)12月8日からは、貨物船として元関釜連絡船新羅丸の助勤を受け[3]1942年(昭和17年)2月15日からは、機帆船による貨物輸送を行って滞貨解消に努めた[1]。しかし、戦時下、北海道炭の京浜工業地帯への主要輸送ルートとなる室蘭本線函館本線東北本線常磐線とを繋ぐ青函航路が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずもなく、これを早急に解決するため、鉄道省1942年(昭和17年)春に、車両渡船4隻の早期建造を海軍艦政本部に要請した。 

鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの信号場が建設中で、複線化工事を急いでいた箇所もあった。青函航路においても、函館港では1941年(昭和16年)4月から、青森港では 1940年(昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁[4]が、1944年(昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は1944年(昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用)された[5]

一方、艦艇建造で繁忙化した民間造船所における、商船建造の調整を図る目的で、海軍艦政本部1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場[6]で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を掌握し、1942年(昭和17年)4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の戦時標準船以外の建造は、許可されないことになった。

このため、 鉄道省から、ちょうどこの時期に出された、上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対し、艦政本部はこれを却下し、D型戦時標準船と呼ばれる1900総トンの一般型貨物船の建造を主張した[7]。これに対し、鉄道省は、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。

しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北以後は、アメリカ軍の攻撃による商船の喪失が急増し、海運輸送力は更にひっ迫、従来からその多くを海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は1942年(昭和17年)10月の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した[8]

この4隻には、当時建造中の第四青函丸も含まれ、1942年(昭和17年)12月に、ようやくこの第四青函丸の建造続行と、第四青函丸を徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の追加建造が正式に承認された。これがW型戦時標準船の始まりであった。「W」はWAGON貨車の意味であった。しかし、残り2隻の建造承認は翌年3月まで持ち越された。

以下がW型戦時標準船の建造決定時期で、第十一青函丸と第十二青函丸建造途上で終戦を迎えたため、第十三青函丸以降は建造されなかった。

  • 1942年(昭和17年)12月:第四青函丸の建造続行とW型戦時標準船1隻(第五青函丸)の建造決定
  • 1943年(昭和18年)3月:W型戦時標準船2隻(第六青函丸、第七青函丸)の建造決定
  • 1944年(昭和19年)3月:W型戦時標準船3隻(第八青函丸、第九青函丸、第十青函丸)の建造決定
  • 1944年(昭和19年)4月:W型戦時標準船4隻(第十一青函丸、第十二青函丸、第十三青函丸、第十四青函丸)の建造決定
  • 1944年(昭和19年)6月:W型戦時標準船1隻(第十五青函丸)の建造決定

なお、戦後W型戦時標準船の基本設計を引き継いで[9]1948年(昭和23年)に 北見丸日高丸の2隻が建造されたが、国鉄部内では当時就航中のW型戦時標準船にこれら2隻も加え「青函型船」[10]または「W型船」と呼んで分類していた[11]

W型戦時標準船の概要

建造から終戦まで

W型戦時標準船は、原型となった第四青函丸 を建造した浦賀船渠が引き続き全船の建造を担当した。

  • 使用する鋼板の厚さの削減。
  • 船型の曲線部分の直線化。
  • 二重底の廃止。床材は一部木材を使用。
  • 甲板工作物、諸設備の簡易化。
  • 居住区を大部屋とする。

第1船の第五青函丸では、上記の方針に従い、海軍監督官の意向を受けた造船所側が、鋼材節約のため、二重底廃止や第二甲板の一部廃止だけでなく、船楼甲板の一部除去などで720トンもの軽量化を断行した。しかし完成間際になって、船が浮き上がり過ぎて、車両積み込み時の横傾斜(当時建設中の函館有川第3、4岸壁、青森第3岸壁の新型可動橋では4度まで許容、当時稼働中の在来型は1度50分程度まで許容)[12]が、ヒーリング装置で補正しても8度にも達し、可動橋のねじれが過大となり、2軸貨車が3点支持となって脱線することが判明した。これでは車両渡船として使用できないため、第三船艙を深水タンクに改造し600トンの海水を入れ、車軸室船底に150トンの砂利を積み込むことで重量を確保し、どうにか使える形で完成させた[13]。第2船の第六青函丸以降はこれに懲りて、このような過剰な軽量化は行われなかった。

機関部では、従来6缶あったボイラーを4缶とし、第五青函丸では陸軍特務船用の3000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、本船には過大であったため、2250軸馬力に落として使用し、効率の悪い運転となった。また第六青函丸と第七青函丸では、第四青函丸と同等の浦賀船渠製衝動タービンが採用されたが、今度はボイラーの 過熱器が省略されてしまい、4時間30分運航はいよいよ困難となった。第八青函丸以降は2T戦時標準型タンカー用の甲25型衝動タービンを使用したが、右回り回転のものしかなく、左右両軸とも右回転での運航となった。またこのタービンの2段減速歯車は構造的に無理があり、故障が頻発した[14]。なおボイラーが4缶に減ったため煙突も4本から2本に減った。

また1000総トン以上の船には、所定の武装兵器と警戒隊員の配置が定められていたが、1944年(昭和19年)になって、青函連絡船用として、12cm砲1門と25mm機銃2基、爆雷16個と明示された。

戦時中の青函航路の運航状況は、第2船の第六青函丸就航後の1944年(昭和19年)4月1日からは、従来の14往復から18往復へ増便され、1944年(昭和19年)5月1日には、青森第3岸壁開設で、両港とも3岸壁使用となり[5]、休航なしの全船フル稼働19往復となった。更に第3船の第七青函丸が就航した1944年(昭和19年)7月20日には、21往復運航に増便された。しかし、1944年(昭和19年)11月22日には、第4船の第八青函丸が就航したが、既にこの頃には、全船フル稼働という過酷な運航体制は破綻しており、これ以上の増便はできなかった。1945年(昭和20年)2月と3月には、事故で2隻を失い、1945年(昭和20年)6月1日には第6船の第十青函丸が就航したが、船舶、施設とも疲弊し、13往復を目標とするに留まった[15][2]

W型戦時標準船を実際に運航してみて、ボイラー4缶では定時運航困難なことを、ようやく海軍艦政本部も認め、1945年(昭和20年)2月3日起工の第7船、第十一青函丸以降は5缶に増やされた[16]

戦後の客載車両渡船化

結果的に戦後まで生き延びたのが、第七青函丸、第八青函丸と、1945年(昭和20年)7月14日の空襲で座礁炎上しながらも、戦後浮揚修復され1947年(昭和22年)2月に再就航できた第六青函丸の3隻であった。 また建造中に終戦を迎え、終戦直後一時工事中断はあったものの、その後工事が再開された所謂“続行船”が、第十一青函丸、第十二青函丸とH型の石狩丸の3隻であった。

上記7月14日の空襲で車載客船、翔鳳丸型全4隻を失った青函航路の旅客輸送力を補うため、第六青函丸では修復工事中に、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸では就航中の入渠時に、第十二青函丸とH型の石狩丸では建造中に、船楼甲板の本来の甲板室の前後に定員300名~400名の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、“デッキハウス船”と通称された。しかし第十一青函丸、第十二青函丸はそれぞれ新造就航時から、更に1946年(昭和21年)6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用船に指定され、旅客輸送力増強の目論見は頓挫した[17]。翌1947年(昭和22年)7月21日になり、第十一青函丸、第十二青函丸と石狩丸の3隻以外は指定解除されたが、この3隻はサンフランシスコ講和条約発効に先立つ進駐軍専用列車廃止の1952年(昭和27年)4月1日[18]まで、その指定が解除されることはなかった。

第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増強工事(第十一青函丸、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸のボイラー への過熱器付加、主機換装と発電機増設(50kVA2台から3台へ)[19]、二重底化工事などが進められた。

なお車両積載数は、新造時は原型となった第四青函丸同様ワム換算44両であったが、終戦後の諸工事でも船内軌道長に変化はなかったにもかかわらず、1952年(昭和27年)以降はワム換算46両積載可能とされていた[20]

洞爺丸事件とその後の対策

1954年(昭和29年)9月26日洞爺丸台風では、5隻のW型戦時標準船のうち、二重底化工事完成直後の第十一青函丸が沈没した。この沈没については、船体が三つに破断されており、他船とは異なった要因の関与も疑われたが、確証は得られず、原因不明とされた[21]

洞爺丸事件後の、洞爺丸ほか4隻の沈没原因の研究によると、当夜の函館湾の波は周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、ピッチングにより船尾が勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで、波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを越え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した[22][23]。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これら開口部の閉鎖が不完全な場合は、滞留海水が機関室へ流入することで機関停止に至り、操船不能となって沈没に至る。車両格納所の狭い洞爺丸では、これが沈没の大きな要因とされた[24]

事故後の1955年(昭和30年)に急遽建造された車両渡船檜山丸(初代)では、車両甲板船尾開口部からの海水浸入対策として、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾側面に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことが判明した[25]

このため、沈没を免れた車両渡船、デッキハウス船、車載客船全船でも、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居を61cm以上に嵩上げし[26][27]、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とし、車両甲板から機関室への開口部の水密性能の向上を図った。これに伴い発電機も車両渡船、デッキハウス船全船で250kVA2台に交換増強のうえ機械室中段に設置された[28]。また非常時に救命艇を迅速かつ容易に降下できる重力型ボートダビットへの交換も行われた[29]

第十二青函丸では1957年(昭和32年)6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾側面に放水口を設置し、車両渡船とした。

第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船体外殻と同等の強度を有する船尾水密扉が設置された。これは、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)で実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く大型化して、船尾全幅3線分をカバーできるようにしたもので、その基本構造は、十和田丸(初代)のものと同じであった。この扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、シャクトリムシのようにこの屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドレールに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は電動ウィンチで、下部扉下端両側のガイドローラーに固定された左右1対のワイヤーを、それぞれ一旦船尾開口部上縁両端で、船尾扉ヒンジよりもやや高い位置の船体に固定した左右1対の滑車で反転し、上部扉下端両側の滑車で再度反転したのち、船楼甲板より1層上の後部操縦室屋上より両翼に新設された入渠甲板下に設置した左右1対の滑車を通して、船楼甲板上の左右2台の電動ウィンチに巻き込まれる仕組みであった。また船内軌道が船尾扉の敷居を越える部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレールが設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖の最終段階で、船尾扉を内側から引き寄せて、船体側に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性を確保する油圧式“締付け装置”が、十和田丸(初代)の4個から6個に増やされた[30]

1958年(昭和33年)7月に第六青函丸に、1958年(昭和33年)10月に第七青函丸に、1959年(昭和34年)5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が設置された[31]。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ、外舷上部も白く塗装された。洞爺丸事故から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成、これが後の津軽丸型の油圧トルクヒンジ式の船尾扉へと発展してゆくことになる。なおこの船尾扉設置により車両積載数はワム換算46両から43両へ減少した[32]

なおこれらW型戦時標準船4隻は、津軽丸型各船の就航とともに順次引退していった。

各船の概要と沿革

第五青函丸

第1船。鋼材節約のための過剰な軽量化で船体が計画より浮き上がってしまい、車両積み込み時に船体の横傾斜が過大となり、車両の積み込みができないことが竣工間際に判明、第三船艙を深水タンクに改造して海水を入れ、車軸室に川砂利を積載して計画喫水を確保した。また主機には陸軍特務船用の3000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、このタービンは22kg/cm²、330℃という高圧高温の蒸気用で、これを16kg/cm²、280℃の蒸気で、2250軸馬力に落として使用したため、効率の悪い運転となった[33]

更に、海軍監督官の意向で、船員の居住区画も徹底的に簡易化された。鋼材節約のため、車両甲板下の第二甲板の大部分が廃止されたため、第四青函丸まで、ここにあった船員居室と、部分甲板の船員居室が廃止され、普通船員全員が船楼甲板の畳敷き大広間に集約され、雑魚寝となった。 1層上の遊歩甲板にも、畳敷き広間が造られ、当初海軍監督官は船長も含めた全高級船員のここでの雑魚寝を要求してきたが、青函航路の実情を余りにも無視したものであったため、これでは暗号通信用の暗号書保管に責任が持てない、と反論し、暗号書保管のための“機密室”を設置し、ここにソファーを入れ、その管理責任者として船長と機関長がここを共用することとした[34][35]

沿革

  • 1943年(昭和18年)6月29日 : 起工
    • 12月29日 : 竣工
  • 1944年(昭和19年)1月14日 : 就航
  • 1945年(昭和20年)3月6日 : 20時頃吹雪の青森港第3岸壁へ着岸するため、20時12分船首索をとり、補助汽船2隻で押したが、17mの西風で着岸できず、やり直そうと出港したが、強風で圧流され、20時27分北防波堤西端に衝突し、右舷側喫水線付近の外板破損して浸水。21時頃沈没。86名中82名死亡[36]


第六青函丸

第2船。船長は遊歩甲板に、機関長は船楼甲板にそれぞれ個室を持った。それ以外の高級船員は遊歩甲板の大部屋の2段寝台を使用した。操舵手、その他の甲板部員、機関部員、事務部員は、それぞれの大部屋を船楼甲板に持ち、2段寝台を使用した。更に、船楼甲板には2段寝台の海軍警戒隊員室を設けた。この船員室のスタイルは第十一青函丸まで踏襲された。本船以降はボイラーの 過熱器が省略され、飽和蒸気使用のため4時間30分運航は困難となった。

終戦時、大破、座礁していたが、修復され1947年(昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。

沿革

  • 1943年(昭和18年)11月13日 : 起工。
  • 1944年(昭和19年)3月7日 : 竣工。
    • 3月19日 : 就航。
    • 4月1日:第五青函丸と本船の就航で、14往復から18往復に増便[15]
    • 5月1日:青森第3岸壁開設[5]により、全船フル稼働19往復[15]
  • 1945年(昭和20年)7月14日 : 函館港から青森港へ航行中、5時10分にアメリカ軍機の攻撃を受けるが、被害を受けずに青森港外に到着。同日13時頃、退避のため青森港東方の野内沖に達したところで、アメリカ軍機の攻撃を受けた。沈没回避のため、バッコノ崎沖の岩礁に座礁したが、その後の爆撃で炎上。乗組員76名中35名が戦死[37]
  • 1946年(昭和21年)5月15日 : 離洲浮揚 
    • 6月 : 青函連絡船の船数不足を補うため、修復工事決定。
    • 6月18日〜28日 : 修復工事のため浦賀へ曳航[38]
  • 1947年(昭和22年)1月 : 甲板に客室(定員394名)を造設し、客載車両渡船となる。ボイラーを5缶に増設(浦賀船渠)、3193総トンとなる[39]
    • 2月2日 : 修復工事完了、進駐軍専用船指定
    • 7月21日:進駐軍専用船指定解除
  • 1951年(昭和26年)4月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化(浦賀船渠)[40][41]
  • 1954年(昭和29年)9月26日:12時38分函館有川第4岸壁を青森に向け出港し、12時47分港口を通過したが、台風接近により前途運航困難と考え、防波堤内へ戻り錨泊、19時20分頃左舷中央部に大雪丸右舷錨が接触したが、損傷軽微で、そのまま錨泊を続け沈没を免れた[42][43]
  • 1956年(昭和31年)6月 : ボートダビット取替(函館ドック[29]
  • 1958年(昭和33年)7月 : 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,751.48総トン[31]、貨車積載数はワム換算43両
  • 1962年(昭和37年)1月10日 : 霧の中、函館港北防波堤に衝突。船首部船底圧壊脱落、外板破口浸水。
  • 1964年(昭和39年)5月3日 : 終航


第七青函丸

第3船。本船から、海軍警戒隊の居室を遊歩甲板に上げたため、遊歩甲板室が後ろへ延びた。本船から、船首砲架が取り付けられた[45]

終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため、1947年(昭和22年)にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。

沿革

  • 1944年(昭和19年)3月11日 : 起工
    • 7月10日 : 竣工
    • 7月20日 : 就航 19往復から21往復に増便[15]
  • 1945年(昭和20年)7月14日 : 5時40分、函館船渠で工事中のところにアメリカ軍機が攻撃。一部損傷。午後になり退避のために離岸したが、函館港内でアメリカ軍機に発見され、14時50分に命中弾2発を受け船内消灯、航行不能となった。しかし沈没は免れ、乗組員80名全員生存[46]
    • 7月25日 : 復帰[47]
    • 8月30日 : 函館港北防波堤に衝突し航行不能。
    • 11月28日: 復帰
  • 1947年(昭和22年)9月 : デッキハウス造設(定員362名)、ボイラーを5缶に増設(三菱重工神戸)、3154総トンとなる[48]
  • 1951年(昭和26年)8月 : 主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)、二重底化(函館ドック[40][41]
  • 1954年(昭和29年)9月26日:函館ドックに入渠中で、洞爺丸台風の被害に遭わず。
  • 1956年(昭和31年)2月と8月 :ボートダビット取替(函館ドック)[29]
  • 1958年(昭和33年)10月 : 船尾水密扉設置(新三菱重工神戸)5,744.50総トン[31]、貨車積載数はワム換算43両
  • 1960年(昭和35年)9月:ストーカー装備(函館ドック)[49]
  • 1964年(昭和39年)12月31日 : 終航
  • 1965年(昭和40年)2月5日 : 三井物産へ売却[44]


第八青函丸

第4船。本船から、資材削減で煙突の長さが約1/4短くなり、船尾両舷に爆雷投下口が設置された[45]

終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港北防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森第1岸壁で貨車積み込み中、ボイラー室船底のビルジに留意せずヒーリング操作を行いその場に沈座し、1946年(昭和21年)1月1日浮揚後、船楼甲板に木製のデッキハウスが設置され、客載車両渡船となった。後年、これは鋼製のデッキハウスに更新されている[50]。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。

終航直後の1964年 (昭和39年)12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された[51]。この試験が1965年 (昭和40年)9月4日の初代渡島丸終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。

終航後に船体は関西の某造船所にて浮き桟橋として使用されていたと言われている[52]

沿革

  • 1944年(昭和19年)5月27日 : 起工
    • 11月2日 : 竣工
    • 11月22日 : 就航
  • 1945年:(昭和20年)7月14日 - 15日 : 休航のため函館港内で仮泊中、5時40分よりアメリカ軍機の攻撃の受け休缶中のボイラー損傷。15時10分からの攻撃で船底弁損傷し浸水し始めたため坐洲を決意し、補助汽船の応援にて17時50分に有川桟橋近くの浅瀬に錨泊。翌15日にも空襲受けるも乗組員80名全員生存[46]
    • 7月29日 : ボイラー損傷のまま復帰[38][47]
    • 11月28日 : 青森第1岸壁で米軍用貨車積み込み中、ヒーリング操作不調でその場に沈座。
  • 1946年(昭和21年)1月1日 :米軍の援助にて浮揚[16]
    • 4月30日:木製のデッキハウス造設(定員535名)(函館船渠[53][54]
    • 5月21日:客扱い開始[38][55]
    • 6月17日:進駐軍専用船指定
  • 1947年(昭和22年)7月21日:進駐軍専用船指定解除
  • 1948年(昭和23年)1月 : ボイラーを5缶に増設(川崎重工神戸)[56]
    • 10月 :主機換装(日立2段減速歯車付衝動タービン2250軸馬力2台)(浦賀船渠[41]
  • 1953年(昭和28年)3月 :二重底化(函館ドック)[40]3135総トン[43]
  • 1954年(昭和29年)9月26日:13時15分青森を出港し17時45分函館有川3岸壁定時到着し貨車陸揚げ、折り返し19時15分発は強風のため欠航とし、18時53分離岸して防波堤内で錨泊し、沈没を免れた[57][43]
  • 1956年(昭和31年)3月 :ボートダビット取替(浦賀船渠)[29]
  • 1959年(昭和34年)5月 : 船尾水密扉設置(三菱日本重工横浜)5,815.68総トン)[31]、貨車積載数はワム換算43両
  • 1964年(昭和39年)11月30日 : 終航
    • 12月3日 : 貨車海中投棄試験
  • 1965年(昭和40年)1月13日 : 日綿実業へ売却[44]


第九青函丸

第5船。浦賀で竣工し、横浜から函館への回航途中、アメリカ潜水艦の攻撃を恐れ、陸岸に接近して航行中、暗礁に乗り上げて沈没した。青函航路に就航する前であった。

沿革

  • 1944年(昭和19年)7月15日 : 起工
  • 1945年(昭和20年)2月15日 : 竣工
    • 2月20日 : 石炭食料積込みのため横浜へ回航。
    • 2月27日 : 横浜から海防艦四阪の先導を受けて函館への回航途中、20時02分千葉県勝浦沖で暗礁に乗り上げ22時50分沈没。141名中13名が死亡した[58]


第十青函丸

第6船。就航はしたものの、わずか1カ月半で沈没した。

沿革

  • 1944年(昭和19年)12月23日 : 起工
  • 1945年(昭和20年)5月19日 : 竣工
    • 6月1日 : 就航
    • 7月14日 : 空襲警報を受け5時50分函館有川桟橋離岸。6時5分函館港内でアメリカ軍機の命中弾を受け機関室浸水、6時30分に函館港防波堤灯台北北西600mの港外で沈没した。乗組員76名全員生存[46]


第十一青函丸

第7船。ほぼ完成状態で終戦を迎え、戦後竣工した。先に就航したW型戦時標準船の運航実績から、ボイラー4缶では定時運航できないことが実証されたため、計画段階よりボイラー5缶で建造された[16]。これに伴い煙突も右舷2本左舷1本の計3本となった。 就航直後より進駐軍専用船となり、1946年(昭和21年)9月デッキハウス造設、占領終了直前に進駐軍専用船指定解除された。

洞爺丸台風で沈没。二重底化工事完成直後の沈没で、船体が三つに破断していた。乗組員全員死亡のため、沈没までの船内状況は不明であったが、たまたま近くで錨泊中の 十勝丸の船員が、激しいピッチングの後、船内消灯、その直後に、左舷から捩れるような形で船首が立ち上がり、船尾から沈む第十一青函丸を目撃していた[59]。沈没推定時刻の20時頃は、十勝丸でも既に車両甲板への海水滞留と機関室への海水流入は始まってはいたが、函館湾内で沈没した他船に比べても、2〜3時間も早く、急激に沈没したことから、船体破断と、その原因としての二重底化工事との関連についても疑われたが、当時の調査では結論は得られなかった[21][60]

沿革

  • 1945年(昭和20年)2月3日 : 起工
    • 8月16日 : 試運転に出たがボイラー蒸気圧が十分上がらず半日で帰港。以後GHQより航海禁止[61]
    • 9月10日 : 工事および航海再開許可を受けた。
    • 9月28日 : 竣工
    • 10月9日 : 就航。直後に進駐軍専用船指定を受けた[62]
  • 1946年(昭和21年)2月3日:降雪中船位を誤り、葛登支岬付近に座礁。4日離礁。3月22日復帰[63][64][65][66]
    • 9月:甲板に客室(333名)を造設 3,142総トン(函館船渠
  • 1949年(昭和24年)7月:主機換装(浦賀衝動タービン2250軸馬力2台)(浦賀船渠)[41]
  • 1952年(昭和27年) 4月1日 : GHQの占領終了に先立ち、進駐軍専用船指定解除。
  • 1954年(昭和29年)9月22日 :外板取替および二重底化工事(函館ドック)完成し復帰[67]
    • 9月26日 : 13時20分青森に向け函館を出港したが、強風のため穴澗岬沖で引き返し、14時48分函館第2岸壁着岸。第1岸壁の洞爺丸へ乗客と、寝台車、荷物車各1両を移し貨車5両を積込み、合計45両の貨車積載で、16時02分天候見合わせのため沖出し、16時25分防波堤外に錨泊した。19時38分「あとで連絡する」19時57分「停電につき後で受ける」を最後に通信途絶。その後20時頃急激に右舷側に横転し沈没したものと推定された。船体は三つに破断しており、乗組員90名は全員死亡[68]
    • 12月1日:浮揚作業開始[69]
  • 1955年(昭和30年)7月25日浮揚作業完了[70]
    • 10月25日:松庫商店へ売却、その後解体[71]


第十二青函丸

第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。船員居室の部屋割は高級船員室の一部に相部屋は残ったが、概ね第四青函丸の水準に戻り、更に第四青函丸ではあった車両甲板下への設置もなくなった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補うため、建造中にデッキハウスが造設されたが、就航時から占領終了直前まで進駐軍専用船であった。1957年 (昭和32年)6月には、二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置工事を行い、車両渡船となった。

沿革

  • 1945年(昭和20年)3月19日 : 起工
  • 1946年(昭和21年)5月2日 : 竣工
    • 5月15日 : 就航。進駐軍専用船となった。
  • 1948年(昭和23年)10月 : 主機換装(石川島2段減速歯車付衝動タービン2250馬力2台)(浦賀船渠[41]
  • 1950年(昭和25年)4月22日:下り便運航中、濃霧で船位測定を誤り20時39分、穴澗岬に擱座。船首を大破し、甲板長死亡[72]
  • 1952年(昭和27年) 4月1日 : GHQの占領終了に先立ち、進駐軍専用船指定解除。
  • 1954年(昭和29年) 9月26日 :手入れのため函館港防波堤内で錨泊していた。洞爺丸台風による強風で、16時30分頃から、付近のブイに係留中のイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7341総トン)の係留鎖が切れ、単錨泊で走錨を始め、この無動力状態のアーネスト号が20時10分頃本船船首を横切るように圧流されて、本船の錨を起こしたため、本船の走錨が始まり、船尾を浅野町の波除堤に接触しそうになり、21時25分防波堤外へ脱出、以後防波堤外で蜘躊して船位保持し、沈没を免れることができた[73]。27日にドック入りした。
  • 1956年(昭和31年)2月 :ボートダビット取替(函館ドック[29]
  • 1957年(昭和32年)6月 :二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、総トン数は2,898.3tとなる(浦賀船渠)[74]
  • 1959年(昭和34年)8月 :ストーカー装備(石川島重工[75]
  • 1965年(昭和40年)7月2日 : 終航

W型戦時標準船一覧表

第五青函丸 第六青函丸 第七青函丸 第八青函丸
Insert image here.svg Insert image here.svg Insert image here.svg Insert image here.svg
概歴
建造所 浦賀船渠
起工 1943(昭和18)年6月29日 1943(昭和18)年11月13日 1944(昭和19)年3月11日 1944(昭和19)年5月27日
進水 1943(昭和18)年11月10日 1944(昭和19)年1月31日 1944(昭和19)年5月27日 1944(昭和19)年8月25日
竣工 1943(昭和18)年12月29日 1944(昭和19)年3月7日 1944(昭和19)年7月10日 1944(昭和19)年11月2日
就航 1944(昭和19)年1月14日 1944(昭和19)年3月19日 1944(昭和19)年7月20日 1944(昭和19)年11月22日
終航 1945(昭和20)年3月6日 1964(昭和39)年5月3日 1964(昭和39)年12月31日 1964(昭和39)年11月30日
要目(新造時)
船種 車両渡船
総トン数 2792.37トン 2802.09トン 2850.99トン 2850.99トン
全長 118.01m
垂線間長 113.20m
幅(型) 15.85m
深さ(型) 6.80m
満載喫水 5.00m
ボイラー (台数) 乾燃式円缶(4) 乾燃式円缶( 過熱器なし)(4)
主機械 (台数) 日立製作所製陸軍特務船用2段減速歯車付衝動タービン(2) 浦賀船渠製2段減速歯車付衝動タービン (2) 日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2)
公試最大出力 4575軸馬力 4080軸馬力 4185軸馬力 4170軸馬力
定格出力 2250軸馬力×2 2000軸馬力×2
公試最大速力 17.01ノット 16.99ノット 17.07ノット 17.31ノット
航海速力 15.5ノット
乗員 76名 85名 83名
その他    17名
貨車積載数 ワム換算44両
船名符字 JGVT JWNT (JJEC)[76] JGHV JECA
第五青函丸 第六青函丸 第七青函丸 第八青函丸
第九青函丸 第十青函丸 第十一青函丸 第十二青函丸
Insert image here.svg Insert image here.svg Insert image here.svg Insert image here.svg
概歴
建造所 浦賀船渠
起工 1944(昭和19)年7月15日 1944(昭和19)年12月23日 1945(昭和20)年2月3日 1945(昭和20)年3月19日
進水 1944(昭和19)年12月23日 1945(昭和20)年3月14日 1945(昭和20)年6月8日 1945(昭和20)年12月27日
竣工 1945(昭和20)年2月15日 1945(昭和20)年5月19日 1945(昭和20)年9月28日 1946(昭和21)年5月2日
就航 1945(昭和20)年6月1日 1945(昭和20)年10月9日 1946(昭和21)年5月15日
終航 1945(昭和20)年2月27日(回航中沈没) 1945(昭和20)年7月14日 1954(昭和29)年9月26日 1965(昭和40)年7月2日
要目(新造時)
船種 車両渡船 客載車両渡船
総トン数 2850.99トン 2850.99トン 2850.71トン 3161.44トン
全長 118.01m
垂線間長 113.20m
幅(型) 15.85m
深さ(型) 6.80m
満載喫水 5.00m
ボイラー (台数) 乾燃式円缶( 過熱器なし)(4) 乾燃式円缶( 過熱器なし)(5)
主機械 (台数) 日立製作所製戦時標準甲25型2段減速歯車付衝動タービン(2)
公試最大出力 4255軸馬力 計測せず 4175軸馬力 4510軸馬力
定格出力 2000軸馬力×2
公試最大速力 17.59ノット 17.30ノット 16.72ノット 17.08ノット
航海速力 15.5ノット 14.5ノット
乗組員 89名 88名
その他       17名 267名
旅客定員    279名
貨車積載数 ワム換算44両
船名符字 JFWA JYFF JLLW JWEZ(JHRC)[76]
第九青函丸 第十青函丸 第十一青函丸 第十二青函丸


脚注

  1. ^ a b 青函連絡船史p237 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  2. ^ a b 北海道鉄道百年史(中巻)p205~207 国鉄北海道総局1980
  3. ^ 1942年2月28日まで、その後も断続的に青函航路に就航した:青函連絡船史巻末附表p5 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  4. ^ 開設当時の呼称は有川第1第2岸壁:古川達郎 鉄道連絡船細見p67 JTBパブリッシング2008
  5. ^ a b c 青函連絡船50年史p230 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  6. ^ 国家総動員法に基づいて海軍が管理した工場。最終的に全ての造船所が指定された:http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00205544&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
  7. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p106 成山堂書店1988
  8. ^ http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00419.php 戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件 昭和17年10月6日閣議決定1942
  9. ^ 青函連絡船史p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  10. ^ 青函鉄道管理局報(号外)(連絡船型の呼称)1951.8.29.
  11. ^ 古川達郎 連絡船ドックp89 船舶技術協会1966
  12. ^ 青函連絡船50年史p35 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  13. ^ 吉澤幸雄 戦時下“第五青函丸”建造秘話 船の科学43巻1号p100 1990
  14. ^ 山本煕 車両航送p248 巻末表36 日本鉄道技術協会1960
  15. ^ a b c d 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  16. ^ a b c 山本煕 車両航送p252 日本鉄道技術協会1960
  17. ^ この直後に建造許可された洞爺丸型車載客船4隻は日本人用となった:山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  18. ^ 三宅俊彦 戦後の1等寝台車運転概史 鉄道ピクトリアル37巻8号p49~58 1987
  19. ^ 青函連絡船史p158 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  20. ^ 汽船現在表昭和27年3月 日本国有鉄道営業局1952
  21. ^ a b 洞爺丸海難誌p279 p282 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  22. ^ 山本煕 車両航送p302p307 日本鉄道技術協会1960
  23. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988
  24. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p319 成山堂書店1988
  25. ^ 古川達郎 連絡船ドックp69 船舶技術協会1966
  26. ^ 山本煕 車両航送p292 日本鉄道技術協会1960
  27. ^ 古川達郎 連絡船ドックp73 船舶技術協会1966
  28. ^ 青函連絡船史p162 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  29. ^ a b c d e 古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966
  30. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p144 船舶技術協会1975
  31. ^ a b c d 古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966
  32. ^ 青木栄一 青函連絡船の今昔(後)鉄道ピクトリアル13巻7号p34 1963
  33. ^ 山本煕 車両航送p248 日本鉄道技術協会1960
  34. ^ 山本煕 車両航送 巻末表36 日本鉄道技術協会1960
  35. ^ 坂本幸四郎 わが青春の青函連絡船 p68、69 光人社1989
  36. ^ 青函連絡船50年史p171 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  37. ^ 青函連絡船栄光の航跡p314 北海道旅客鉄道株式会社1988
  38. ^ a b c 青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  39. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988
  40. ^ a b c 古川達郎 連絡船ドックp126 船舶技術協会1966
  41. ^ a b c d e 青函連絡船史p157国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  42. ^ 洞爺丸台風海難誌p62国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  43. ^ a b c 台風との斗いp5 p18 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  44. ^ a b c d 青函連絡船栄光の航跡p369 北海道旅客鉄道株式会社1988
  45. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p110 成山堂書店1988
  46. ^ a b c 青函連絡船50年史p182〜194 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  47. ^ a b 青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  48. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p112 p289 成山堂書店1988
  49. ^ 青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  50. ^ 1954年夏撮影の写真では鋼製デッキハウスになっていた:青木栄一 昭和29年夏北海道私鉄めぐり(下)p54~55写真 ネコ・パブリッシング2004
  51. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp175,176 船舶技術協会1971
  52. ^ 坂本幸四郎 わが青春の青函連絡船p218 光人社1989
  53. ^ 青函連絡船50年史巻末附表2 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  54. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p111 成山堂書店1988
  55. ^ 青函連絡船栄光の航跡p397 北海道旅客鉄道株式会社1988
  56. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988
  57. ^ 洞爺丸台風海難誌p69国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  58. ^ 青函連絡船50年史p170 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  59. ^ 田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p65 成山堂書店1997
  60. ^ 台風との斗いp19 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011
  61. ^ 吉澤幸雄“第十一青函丸”建造秘話 船の科学43巻3号p76 1990
  62. ^ 青函連絡船50年史p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  63. ^ 青函連絡船50年史p231 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
  64. ^ 青函連絡船史巻末年表p6 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  65. ^ 航跡p337 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  66. ^ 坂本幸四郎 青函連絡船p96 朝日イブニングニュース社1983
  67. ^ 山本煕 車両航送p284 日本鉄道技術協会1960
  68. ^ 洞爺丸台風海難誌p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  69. ^ 洞爺丸台風海難誌p197 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  70. ^ 洞爺丸台風海難誌p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  71. ^ 洞爺丸台風海難誌p224 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  72. ^ 青函連絡船史p453国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  73. ^ 洞爺丸台風海難誌p72 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
  74. ^ 古川達郎 連絡船ドックp69 p126 船舶技術協会1966
  75. ^ 青函連絡船史p217p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  76. ^ a b 1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p260 成山堂書店1988