石岡第一発電所

Crystal energy.svg 石岡第一発電所
石岡第一発電所
種類 水力発電所
電気事業者 東京発電
所在地 日本の旗 日本
北茨城市中郷町石岡
北緯36度46分39秒 東経140度40分46秒 / 北緯36.77750度 東経140.67944度 / 36.77750; 140.67944座標: 北緯36度46分39秒 東経140度40分46秒 / 北緯36.77750度 東経140.67944度 / 36.77750; 140.67944
テンプレートを表示

地理院地図 Googleマップ 石岡第一発電所

石岡第一発電所(いしおかだいいちはつでんしょ)は茨城県北茨城市にある水力発電所である。1911年に発電を開始し、2015年も東京発電の管理下で稼働している。茨城県内で稼働中の水力発電所としては中里発電所(1908年発電開始)に次ぐ歴史を持ち[1]、施設全体が国の重要文化財に指定されている。

地理

石岡第一発電所は二級河川である大北川水系本流沿いに位置する[1]。大北川は、多賀山地から太平洋に流れる中小河川の中で最大の流域面積を持ち、北茨城市の磯原市街東端に河口がある[1]。大北川本流は総長22.2 kmに過ぎないが、流域面積が195. 5 km2と、周辺河川に大差をつけている[1]。大北川水系では、石岡第一発電所の他に、石岡第二発電所横川発電所が本流沿いに、花園川発電所が支流沿いに設けられている[1]

歴史

発電所建設の背景

1905年に久原房之助日立鉱山を開発した当時は、宮田川沿いに建設されていた陰作発電所(出力37 kW)が電力を賄っていた[2]。しかし、日立鉱山の機械化に伴い、既存の発電所では電力供給が不足するようになった[3]。久原は、1907年から1909年にかけて、中里第一発電所(出力400 kW)・中里第二発電所(出力200 kW)・町屋発電所(出力300 kW)を建設した[3]。しかし、これでも近代化を進める日立鉱山が必要とする電力には不十分であった[3]。そこで、久原は大北川水系に水力発電所を新たに設けることを計画する[3]。また、久原工業日立鉱山の工作課長であった小平浪平は、浮沈激しい鉱山業を憂慮し、建設予定の発電所の余剰電力を用いて化学工業を興すことを目論む[3][4]

水利権買収から発電所建設まで

水力発電所の候補地を探していた小平は、流域が広く落差も大きい大北川に着目し、1907年初めに調査を始める[1]。調査時点では満足な地図がなく、伊能図に準拠した20万分の1の縮尺図しかなかった[1]。そのため、実地検分をして候補地の選択を行う必要があった[1]。ようやく見つけた候補地は、すでに茨城無煙炭鉱により水利権が取得されていた[3]。水利権の買収には手間がかかり、1909年6月になってようやく久原鉱業が水利権を1万6千円にて買収する[5]

水利権を得て発電所の建設に着手したが、石岡第一発電所が完成するまで待つには電力の需給が逼迫していた[5]。そこで、出力600 kW(発電機の出力は1000 kW)の仮発電所を設けることに決める[5]。1909年の夏には仮発電所の工事を始め、1910年1月に完成する[5]。この発電所からの電力を大雄院にある製錬所まで送るために、高尾直三郎(後の日立製作所副社長)が中心となり、総延長19 km、電圧2万7千 Vの高圧送電線を建設した[2][5]

仮発電所と同時に本発電所の建設にも取り掛かった[5]。水路工事は土木係長の宮長平作(後の日産土木社長)が主として取り組んだが、1200 尺(364 m)ものトンネルを掘らなければならなかったこと、日本国外にも例がなかった鉄筋コンクリート製の逆サイフォン管を製作しなければならなかったことから、難工事となった[5]。工事開始から2年後の1911年8月には3000 kWの発電設備を有した発電所が完成し、同年10月に発電を開始する[3]。同発電所の3000 kW発電機は、当時において東京電燈駒橋発電所の3500 kW発電機に次ぐ大容量のものであった[2]

発電開始から一般家庭への電力供給まで

石岡第一発電所は1911年10月に発電を開始した[1]。このときの発電量は仮発電所と本発電所合わせて4000 kWであった[2]。石岡第一発電所の完成後、久原工業は中里発電所・町屋発電所を同年10月1日に茨城電気株式会社へ25万円で売却する[5][6]。後に芝内変電所(日立第三変電所)を建設するも、それでも4000 kWの電力は消費しきれないことから、小平は化学工業へ進出する[5]。しかし、芝内電錬工場付近にカーバイド工場を建設するも[5]、日立鉱山の発展が想像以上に進み、石岡第一発電所の発電量をもってしても余裕が生じなかったため、化学工業への進出は1年未満で中止してしまう[3][5]

1912年には、増加する電力需要に対応するため、石岡第二発電所の工事に着手し、1913年12月に完成する[5]。1914年1月から石岡第二発電所が送電を開始するに至り、当時の日立鉱山の電力需要に見合う供給が行えるようになる[5]。鉱山事業用として建設された石岡第一発電所は、地方有志の懇願を経て電力の一般供給を出願し、1913年12月にはその認可を得ている[7]。1914年5月には、日立電気株式会社[注釈 1]日立村高鈴村に電気の供給を始め、久原工業日立鉱山は日立電気に対して売電を行うようになった[8]。電気配線等のすべての工事は日立鉱山が行い、日立村・高鈴村の民家に電灯が灯るようになる[8]

日立電力時代から東京電力時代まで

1927年9月には、電気事業を分離し、資本金1000万円で日立電力株式会社を設立し、久原鉱業が所有していた発電所と電気設備のすべてを同社に譲渡する[2]。1938年4月には、国家総動員法に基づく電力管理法が公布・実施され、日立電力のすべての施設が日本発送電株式会社に吸収された[2]。1941年8月には、配電統制令が交付され、全国各地に配電会社が設立される[2]。日立電力が持っていた配電設備と供給権は関東配電株式会社に統合されることとなる[2]

第二次世界大戦後には電気事業再編令が公布され、石岡第一発電所は東京電力の所有となる[1]。東京電力に所有されていた間、石岡第一発電所は何度か改修工事が行われている。1957年5月18日には、水圧鉄管を取り替え、発電量を600 kW増加させた[1][9]。1961年6月には、同発電所は交流60 Hzから50 Hzに改められた[1]。1968年11月3日には、逆サイフォン管を鉄筋コンクリート製から銅製に変更したことで発電量が200 kW増え、石岡第一発電所の認可出力は4800 kWまで向上した[1][10]。1985年4月1日には、東京電力が石岡第一発電所(出力4800 kW)・石岡第二発電所(出力1300 kW)を姫川電力(現・東京発電)に譲渡した[11][12]

東京発電の所有以降

本発電所は鉄筋コンクリート技術が全面に採用された国内初の発電所である[13]。2008年12月にはその歴史的価値が評価されて10の建造物[注釈 2]が国の重要文化財に指定された[13]。 2011年3月には、東日本大震災とその余震により設備が損傷した[13]。特に水槽の損傷はひどく、設置した屋根ごと崩壊する有様だった[13]。2011年10月には、水槽のみ重要文化財の指定が解除された[14]

年表

  • 1909年6月 - 石岡第一発電所候補地の水利権を取得する。
  • 1911年8月 - 石岡第一発電所の完成。
  • 1911年10月 - 石岡第一発電所にて発電(出力4000 kW)が始まる。
  • 1913年12月 - 電力の一般供給が認可される。
  • 1914年5月 - 日立村・高鈴村への電力供給が始まる。
  • 1927年9月 - 久原鉱業が新しく設立した日本電力に電気事業を譲渡する。
  • 1938年4月 - 石岡第一発電所の所有が日本発送電に移る。
  • 1942年 - 石岡第一発電所の所有が関東配電に移る。
  • 1950年頃 - 石岡第一発電所の所有が東京電力に移る。
  • 1957年5月 - 認可最大出力が4000 kWから4600 kWに増加。
  • 1961年6月 - 発電周波数を60 Hzから50 Hzに変更する。
  • 1968年11月 - 認可最大出力が4600 kWから4800 kWに増加。
  • 1985年4月 - 石岡第一発電所の所有が姫川電力に移る。
  • 2008年12月 - 建造物10箇所が国の重要文化財に指定される。
  • 2011年3月 - 東日本大震災により施設が損傷を受ける。
  • 2011年10月 - 東日本大震災で崩壊した水槽の重要文化財指定が解除される。

諸元

  • 河川名:大北川水系大北川
  • 発電形式:水路式[1]
  • 発電方式:流込み式[15]
  • 認可最大出力:5500 kW[16]
  • 常時出力:1100 kW[15]
  • 最大使用水量:3.90 m3/s[16]
  • 有効落差:160.94 m[16]
  • 流域面積:87.9 km2[15]
  • 水車:横軸フランシス水車 出力5540 kW 1台[17]
  • 発電機:同期発電機1台[17]
  • 所有者:東京発電[15]

脚注

[ヘルプ]

注釈

  1. ^ 日立電気株式会社は大和田耕造が1913年2月13日に設立した会社である。会社設立後は順調に事業を拡大して電気の供給範囲を広げていった。しかし、第一次世界大戦後の不況で経営が悪化し、1926年頃には水浜電車に事業権を譲渡して解散した[8]
  2. ^ このとき指定された建造物は、本館発電機室・本館旧変圧器室・本館変電室・調圧水槽・水槽余水路・第二号水路橋・第一号水路橋・沈砂地・取水堰堤・水槽である[14]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『茨城県水力発電誌』、76-96頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本鉱業株式会社50年史』、397-401頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『新修日立市史 下巻』、325頁。
  4. ^ 『日本鉱業株式会社50年史』、19頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日立鉱山史』、94-99頁。
  6. ^ 『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 本編』、153-155頁。
  7. ^ 『日立鉱山史』、192-195頁。
  8. ^ a b c 『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』、302頁。
  9. ^ 『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 資料編』、304頁。
  10. ^ 『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 資料編』、305頁。
  11. ^ 『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 資料編』、302頁。
  12. ^ 『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 資料編』、307頁。
  13. ^ a b c d 『茨城新聞』、2011年7月16日、21頁。
  14. ^ a b 東京発電株式会社 【有形文化財】”. 東京発電. 2015年6月21日閲覧。
  15. ^ a b c d 水力発電所データベース”. 電力土木技術協会. 2015年6月21日閲覧。
  16. ^ a b c 東京発電株式会社 【水力発電事業】 -水力発電所一覧-”. 東京発電. 2015年6月21日閲覧。
  17. ^ a b 水力発電所データベース”. 電力土木技術協会. 2015年6月21日閲覧。

参考文献

  • 嘉屋実『日立鉱山史』日本鉱業日立鉱業所、1952年。
  • 日本鉱業株式会社『日本鉱業株式会社50年史』日本鉱業株式会社、1957年。
  • 中川浩一『茨城県水力発電誌』筑波書林、1985年、76-96頁。
  • 鉱山の歴史を記録する市民の会『鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史』日立市役所、1988年。
  • 日立市史編さん委員会 編『新修日立市史 下巻』日立市、1996年。
  • 東京電力株式会社 編『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 本編』東京電力、2002年。
  • 東京電力株式会社 編『関東の電気事業と東京電力 : 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡 資料編』東京電力、2002年。