比羅夫丸

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船歴
起工
進水 1907年 7月
就役 1908年 3月7日
終航 1924年 10月15日
性能諸元
総トン数 1,480トン
垂線間長 87.6m
型幅 10.6m
機関 直結式蒸気タービン3基3軸
出力 3,367hp
最大速 18ノット
乗員 71名
乗客
  • 一等船客:22名
  • 二等船客:52名
  • 三等船客:254名
貨物積載量 239トン
姉妹船 田村丸
コールサイン LTJR

比羅夫丸 (ひらふまる) は、日本鉄道青函航路向けに1906年に発注し、1907年に竣工した貨客船

製造中の1906年11月1日に鉄道国有法が施行されたため、帝国鉄道庁が受領。日本初の蒸気タービン船である。僚船に田村丸がある。船名は当時の社長の「歴史的人物の名前より」との方針により阿部比羅夫より(田村丸は坂上田村麻呂より)とられている。

建造までの経緯

本州〜北海道間を結ぶ航路は北海道開拓使によって函館〜安渡間(1873年1月25日)に開通し、のちに郵便汽船三菱会社に引き継がれ、共同運輸の参入によって無制限競争状態になるなど混乱の後に両社合併によって一本化が図られた。 対する鉄道網は1891年9月1日,日本鉄道によって上野駅青森駅間の鉄道が全通。1892年8月1日には北海道炭鉱鉄道岩見沢駅室蘭駅間が開通、1904年10月15日には北海道鉄道小樽駅函館駅を開通した。鉄道網の充実によりこれらの都市を結ぶ航路は客貨共に輸送量が増大していた。 しかし当時の青函間は一日一往復の運航で客貨共に積み残しがしばしば発生し、日本鉄道・北海道鉄道・地元経済界などは日本郵船に対し増便を要請するものの、郵船側は自社の都合を優先して増便要請に応じなかった。 このため、日本鉄道は航路の直営化を決定し、二隻の汽船を建造することとなった。

概要

建造計画では総トン数1500〜1600トン、速力18ノットの優秀船ということから、主機には当時最新鋭の蒸気タービンを採用することとなった。同じ頃、三菱長崎造船所では天洋丸(東洋汽船)が蒸気タービン船として建造中であったが,主機をイギリスから輸入したことにより竣工が1908年4月22日となったため、2月20日に検査終了・受領した比羅夫丸が日本初の栄誉を担うこととなった。また、速力18ノットを出すために中央に高圧・左右に低圧タービン直結の三軸スクリューを装備した。ただし、タービンには減速機がない事から操船には難があったという。

また、当時のイギリス流儀で建造されたことからブリッジは屋根や覆いのない「露天船橋」であったことから,荒天時の操船は苦労を伴うものとなっていた。

姉妹船の田村丸と区別するために舷側に比羅夫丸は白線、田村丸は赤線を入れて区別することとなった。

運航

比羅夫丸・田村丸就航時の青函航路ダイヤは

1便・青森10時→函館14時
3便・青森19時→函館24時
2便・函館23時→青森4時
4便・函館10時→青森14時

ただし、青森・函館共に岸壁からの直接乗降ではなく、を使っていたため実際には6時間かかっていた。それでも郵船よりも早いことから乗客は鉄道連絡船に殺到し、郵船は1910年3月10日をもって撤退した。

沿革

エピソード

主機が最新式で早いこと、しかも「タービン」という新語であったことから、当時函館市内では店舗名に「タービン」とつける者が続出したという。