日本の貿易史

17世紀の長崎のポルトガルのキャラック船。『南蛮屏風』(狩野内膳筆)

日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。

概要

貿易の形態

沈黙交易

最も初期の交易ともいわれる沈黙交易と呼ばれる方法では、2つの集団が接触を避けながら取り引きをする。交互に品物を置き、両者が相手の品物に満足したときに取り引きが成立した。沈黙交易においては、取り引きをする両者または一方に貿易の専門家が存在しない。日本列島における沈黙交易としては、『日本書紀』に記録されている阿倍比羅夫粛慎に行った交渉があり、ここで登場する粛慎とはオホーツク人を指すとされている。日本各地に残る民話の椀貸伝説が沈黙交易にもとづいているという説もある[1]。また、アイヌは大陸のツングース系の民族やアイヌ同士で沈黙交易を行っており、中国のの地誌である『析津志中国語版』や、江戸時代の『蝦夷志』などに記録がある[2]

贈与貿易

贈り物の交換や使節の交流などの政治的、儀礼的な面がある貿易は、贈与貿易とも呼ばれる。遠隔地からの財の獲得は軍事的、外交的な事業でもあった。贈与貿易が商業的な貿易と混ざる場合もあった。アイヌにはウイマムという交易方法があり、和人はそれをもとに交易に訪れたアイヌをもてなして交歓や統治の儀礼に転化した[3]

管理貿易
漢委奴国王印後漢奴国の朝貢使に贈ったとされる。

東アジアにおいて管理貿易の中心となったのは、中国の朝貢だった。中国は華夷秩序の思想にもとづいて近隣諸国・地域との冊封体制を構築した[4]。漢以降の中国王朝は、周辺地域から朝貢の品物を受け取るかわりに回賜と呼ばれる返礼品を与え、臣下として冊封した。回賜では、質量ともに朝貢をはるかに上回るものを与え、朝貢をした国は受け取った品物を分配して支配力を強化した。朝貢を受ける側は、より多くの回賜を贈らなければならず、財政を圧迫した。このように、朝貢は商業的な利益が目的ではなく、周辺地域との政治的安定を得るために行われた[5]。中国側では、優れた品が民間貿易で流通しないように規制をして、回賜の希少性を保とうとした[6]

華夷秩序の思想は日本列島にも影響を与えて、邪馬台国の時代から朝貢を行っていた。また、隣国である新羅渤海国と朝貢関係を結んだり、時にはいずれが朝貢を受ける立場にあるかをめぐって対立した。古代から近世にかけて各時代の政権が管理貿易を行っており、琉球王国で王府が主導した中継貿易や、室町幕府が明に朝貢した勘合貿易、江戸幕府が通商国を限定した貿易政策などがある。遣唐使のように、日本側は対等の外交使節として記録し、中国側は朝貢使節として記録した例もある[7][8]

私貿易

管理貿易に対して、民間による貿易は私貿易とも呼ばれる。平安時代に遣唐使が終了すると、唐の商船に日本人が同乗する形で私貿易が始まり、唐宋の時代にかけて次第に広まった[7]。明の海禁政策や江戸幕府の鎖国の影響で何度か減少したのちに、明治時代以降には万国公法のもとでの私貿易が中心となった。

貿易の場所、交易者

交易港
江戸時代の唐人屋敷

沈黙交易をはじめとする初期の交易では、取り引きをする場は政治的な中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれた。複数の共同体が継続して取り引きをするようになると、そのための制度および場所として交易港が設置された。交易港の条件としては、(1)安全な取り引きができる、(2)共同体や自然環境の境界線に建設される、(3)地域の市場とは別個に存在する、などが重要となる。日本列島においては、海岸が交易港となった。弥生時代から古墳時代にかけての原の辻遺跡、平安時代の鴻臚館、室町時代に三津七湊と呼ばれた港、琉球王国那覇、江戸時代の長崎の出島などがある。江戸幕府は貿易対象国を限定していたが、幕末の開港によって条約港での貿易が始まった。外国で日本人が参加していた交易港として、古代の楽浪郡、中世以降の寧波倭館などがある。貿易を行う港や場所は、国内の交易用の場所とは区別されていた。国内の交易は、律令国家の都の東西市や、各地域の市場で行われた[7][9]

遠方から貿易に来る者が増加すると、住居も建設された。九州を中心に中国人のための唐房ができ、最大のものとして博多の大唐街がある。琉球には中国から久米村に住んだ久米三十六姓の人々がおり、出島の周辺にはオランダ商館唐人屋敷があり、朝鮮半島の倭館や東南アジア各地の日本人町には日本人、中国の琉球館には琉球王国の人々が生活した。幕末には開港によって外国人居留地が作られて、横浜中華街のように発展する場所もあった[9]

交易者

初期の交易には専門家が存在せず、取り引きの複雑化や大規模化によって専門家が登場した。交易を行う者は、大きく2種類に分かれる。(1)統治権力や政府と結びついて、義務や公共の奉仕を行う身分動機の者、(2)利潤動機のために交易をする者がおり、以下のような類型がある[10]

  • 身分動機の交易者。古代においては、皇室や貴族、外交使節が貿易の特権を得ていた。取引の先買権も身分によって決められており、朝廷の取り引きのために派遣される唐物使(からものつかい)という役職もあった[11]。宗教的な身分の高い者が外交や貿易を任される場合もあり、日本では中世以降の禅僧が相当する[12]。貿易に必要な証明として中国のが発行した勘合符や、徳川家康が発行した朱印状があり、貿易商人はそれらの特権を得て取り引きを行った。近代以降には、植民地統治のための企業である国策会社も設立された[13]。外国からの公的な貿易の関係者としては、中国の冊封使、渤海国の渤海使ポルトガルカピタン・モールイエズス会勅許会社として特権を受けたオランダ東インド会社などがいた。
  • 利潤動機の交易者。律令時代には遠洋航海は外交使節のみで、私貿易を行う商人は律令法にも規定がなく、中国のの動乱以降から朝鮮半島や中国沿岸との私貿易が増加した[14]。南西諸島では、古代から隋や唐とも貿易を行っていた。中世から活動した倭寇と呼ばれた集団は、状況に応じて貿易の他に海賊や奴隷の捕獲を行っていた。交易な貿易が認められずに密貿易を行う場合があり、明や朝鮮王朝に派遣する船の中には公式ではない者がいたため問題となった[15]。北九州や瀬戸内海で活動した海上民のように、交易を専門的に行う民族もいた。

環境と貿易品

輸出品

歴史的に有名な輸出品としては、古代から近世にかけての貴金属がある。古代や中世では砂金が輸出されて、東北や北海道からの産出が中心となった。は中世から近代までは貿易用の貨幣として世界的に重要であり、戦国時代に大陸から精錬法が伝わって生産が増えて、銀が東アジアを中心に流通した。また、中世には火薬の材料として硫黄が中国へ輸出された。江戸時代には、銀、が輸出されて輸入品の支払いにあてられた。明治時代には産業革命の影響によって工業製品の輸出が始まり、特に繊維製品が増えた。第二次世界大戦後は鉄鋼、自動車、家電などの輸出が高度経済成長を支えた。密貿易としては、戦国時代の奴隷貿易、近代のアヘン貿易などがある。

輸入品

輸入品としては、弥生時代には鉄器や青銅器が重要とされた。中国から得た品物は古代より唐物と呼ばれて重宝されており、西アジアや東南アジア由来の唐物もあった。唐物は、『竹取物語』や『うつほ物語』、『源氏物語』などの王朝文学にも描かれている。古代末期から中世にかけては陶磁器が増え、宋銭をはじめとする中国の銅貨も輸入されて日本で通貨として用いられた。中世から近世にかけては朝鮮半島の木綿や中国の生糸などの繊維製品が輸入された。現代においては食料品、重化学工業のために石油をはじめとする鉱業資源、パルプ原料となる木材などが重要とされる[16]

交通と情報

交通
「吉備大臣入唐絵巻」の遣唐使船到着の場面。唐に着いた吉備真備

日本列島の貿易では海運が不可欠であり、沿岸や周辺の島々への航海からユーラシア大陸への遠洋航海まで船が用いられた。縄文時代までは丸木舟が中心で、弥生時代には準構造船が造られるようになり、帆も用いられていた[17]遣唐使船は中国のジャンク船型の外洋船であり、障子絵の『聖徳太子絵伝』や絵巻物の『吉備大臣入唐絵巻』などに遣唐使船が描かれている。遣唐使は唐の都である長安で正月の儀式に参列する必要があったため、安全よりも政治的な事情が優先された。そのため航海は夏が出発で、帰国は秋と冬が多く、遭難や漂流が起きやすかった[18]。平安時代からは宋との貿易で「唐船」と呼ばれるジャンク船が多数来航し、鎌倉幕府は御分唐船という貿易船を派遣した。日本の造船技術も発達して、明との貿易に用いた遣明船は800石から1000石の積載量があり、大型化していった。鎌倉時代の商船は『北野天神縁起絵巻』、遣明船は『真如堂縁起絵巻』に描かれている[19]

江戸時代の貿易では、限定された港に明や清、オランダの船が来航した。幕末の開港によって欧米各国の汽船が来航して、日本の港は中国や太平洋の航路網に連結された。明治時代に入ると、国内の海運業や造船業の保護育成が計画され、近代化が進んだ[20]。近代的な大型船の建造は、長崎製鉄所のオランダ技術者や横須賀製鉄所のフランス技術者の指導に始まり、のちに当時の造船先進国イギリスからも技術を学んで向上した[21]。第二次世界大戦後にはコンテナが導入されて、大量生産や大量消費による物流が普及した[22]

情報

貿易の様子は、唐についての『入唐求法巡礼行記』や、北宋についての『参天台五台山記』をはじめとして僧による記録に含まれており、ヨーロッパにおける『東方見聞録』のような商人による記録は少ない。遣唐使や遣明使のように外交使節が貿易を行う場合は、限られた時間で外交儀礼を優先しつつ貿易交渉も進める必要があり、先例の情報が貴重であった。このため、中国での体験や実務を記録した外交故実書が役立った。遣明使の時代は『笑雲入明記』、『壬申入明記』、『初渡集』、『再渡集』などの入明記がある。また、朝鮮王朝も含む外交文書を集めた有名な故実書に『善隣国宝記』がある[23]

貿易と政治

安全保障

権力者は、貿易ルートや交易地の安全を維持して利益を得た。貿易の取り引きの失敗は、武力衝突につながる場合があり、『日本書紀』の粛慎がこれに相当する[24]。中世の琉球王国と朝鮮の貿易では、案内役と船乗りを兼ねた役割として倭寇が同乗して安全を保障する制度があり、警固と呼ばれた[25]

再配分

管理貿易においては、権力者は国内で集めた品物を外国に輸出して、輸入した品物を家臣に分け与えた。また、貿易に参加する権利や購入権を与えることで影響力を維持した。これらは再配分と呼ばれる。外交関係の悪化による管理貿易の減少や、私貿易の増加は、権力者の衰退にもつながった[26]

対外関係

日元貿易のように、対立する国家間でも貿易を継続する時代もあった。正式な外交がない国とも貿易は行われ、江戸幕府で通商国と呼ばれた国々や、第二次世界大戦後の日中の国交再開前の貿易などがある[27]。第二次大戦後は世界貿易機関(WTO)に加盟して貿易の自由化を進める一方で、特定の国や地域との貿易協定も締結した[28]

金融と技術

投資、出資

国内の市場や流通と異なり、貿易では大規模な運搬手段や多額の投資を必要とした。貿易の資金を調達するための徴税が地元住民の反発を招いて、一揆が起きた例もある[29]。投資をするための共同出資も発達して、中世後期から行われた投銀は、ポルトガル商人がコンパーニアやアルマサンと呼んだ共同出資方法や、レスポンデシアと呼ばれた高利の海上貸付の影響を受けて始まった[30]

直接投資

外国企業の株式取得や工場建設などの直接投資も貿易に影響を及ぼす。日本の直接投資の動機としては、(1)低コスト追求、(2)市場アクセスの確保、(3)天然資源の開発、(4)技術や情報の収集、(5)税や規制の回避、などがある。日本の直接投資の歴史は、欧米に対しては(2)、東アジアにおいては(1)が多かった[31]。中国への直接投資としては繊維産業の在華紡があった[32]。また、20世紀に植民地政策を行った朝鮮半島、満州、東南アジア、南洋群島においては商社、銀行、重化学工業の関連企業が事業を行い、国策会社も関係した[33]。外国からの直接投資としては、第一次世界大戦後にアメリカの製造業から直接投資や技術提携が行われて、規格化や分業が進む。これは、第二次世界大戦後に日本が大量生産を確立する基礎となった[34]

各時代の概要

古代

各首長が大陸との貿易を行う時代から、邪馬台国によるへの朝貢や、律令国家の成立をへて国家の管理貿易が進む。朝廷による遣唐使のように、外交使節に付随して貿易が行われた。航海技術の発達と、大陸の情勢の不安定化により、私貿易も次第に広まった。平氏は日宋貿易によって経済的優位を得て、初の武士政権が成立する。

中世

平氏の日宋貿易は源氏による鎌倉幕府でも引き継がれ、宋の滅亡後は室町幕府によって明への朝貢が始まった。14世紀から16世紀の動乱がもとで、倭寇と呼ばれる集団が活動する。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿岸で密貿易や海賊、商品用の奴隷の捕獲などを行った。倭寇の原因には日本や高麗の戦乱、中国のの海禁などがある。また、インド洋経由でポルトガルオランダ、太平洋経由でスペインが東アジアに来航して、日本にも影響を与えて南蛮貿易や朱印船貿易が行われた。

近世

江戸幕府のもとで四つの口と呼ばれた長崎、対馬藩、薩摩藩、松前藩が貿易を独占した。貿易の相手はオランダや、中国の明・李氏朝鮮琉球王国、アイヌだった。幕末にはアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国によって開港が進められた。

近代

産業革命以後に工業製品の貿易が中心となる。幕末からの不平等条約の改正と、外貨の獲得が課題となった。明治政府は工業化を進めて、欧米諸国との条約改正を実現し、第一次世界大戦中には輸出産業の発展によって産業の中心が農業から工業へと変化した。朝鮮半島や中国における利権をめぐって戦争を行い、貿易に代わって植民地化やブロック経済による自給自足体制も推進し、資源をめぐって第二次世界大戦に参戦した。

現代

第二次世界大戦後の復興から始まり、アメリカを中心とする西側諸国としてブレトン・ウッズ体制のもとで経済成長を遂げた。日本は大量生産体制を確立して、鉄鋼、自動車、家電の輸出を伸ばす一方で、輸出の増加は他国との貿易摩擦の原因ともなった。輸入では工業用の鉱物資源と食料が急増して、食料自給率は低下した。東アジア各国の経済成長により、アジア圏内での産業内貿易が急伸した[35]

古代

弥生時代以前

神津島の砂糠崎にある黒曜石層

日本列島最終氷期が終わったおよそ1万年前にユーラシア大陸から切り離され、以降は外の国や地域との交流を行うさいには海を渡る必要があった。農耕社会の前から交流は始まり、沿岸や島伝いに移動が行われていた。後期旧石器時代には神津島黒曜石が関東地域に継続して運ばれていたことが判明している。縄文時代の水運には丸木舟が使われ、硬玉翡翠で作られた装身具が列島各地に流通して、石器は200キロから300キロの距離を運ばれている。黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていた。日本列島では新潟県の糸魚川市周辺でしか産出されない翡翠の加工品が青森県の三内丸山遺跡で出土するなど、規模は小さいながらも広範囲で交易が行われていたことが推測される[36]。こうした交易は商業的な取り引きではなく、贈り物のやり取りによる互酬の面を持っていた[37]

弥生時代、古墳時代

古墳時代の勾玉(東京国立博物館

弥生時代に入ると、大陸からの青銅器や鉄器の入手が盛んになる。日本では鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀であり、それまでは朝鮮半島南部を中心に産した鉄や銅が原料として用いられた。日本で発見された最古の鉄器は紀元前5世紀で作られた斧である[38]紀元前4世紀中頃には、玄界灘の有力者の副葬品に朝鮮半島製の青銅の鏡や武器が用いられている[39]。弥生時代では紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけてが最も温暖で、この時期に中国の前漢との交流が始まる[40]。前漢の武帝が朝鮮半島に建設した楽浪郡には、倭人と呼ばれた日本列島からの人間も往来した。『漢書』地理志には「楽浪海中倭人あり」という記録がある[41]。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、倭人はそれらを入手して壱岐島対馬九州北部へ運んだ[42]

海上交易では銅鏡、鉄製品、ガラス玉が重要だった。鉛ガラスは中国東北部、カリガラスはインドのアリカメドゥ英語版で生産が始まったとされ、ガラス玉は勾玉の材料にもなった。銅鏡は九州で大量に発見されており、500年ほどに渡って重要な財とされた[43]。こうした大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や奴隷を送ったとされる[44]。朝鮮半島の中南部にあった伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある。九州北部、瀬戸内海、日本海側の海岸では中国の貨幣も出土しており、交易に用いられた可能性がある[45]

冊封と朝貢の開始
三角縁仏獣鏡 奈良県広陵町新山古墳出土 宮内庁蔵

古代において東アジアの中心的な位置を占めていたのは早くに文明が起こった中国で、倭国を冊封した記録は後漢の時代にまで遡る。紀元前1世紀から1世紀にかけては九州北部に中国製品が多く、1世紀以降は東へ広がり、2世紀には東海や関東にも流通網ができた[46]。倭人が楽浪郡で鉄を入手する際には楽浪郡や帯方郡の承認が必要であり、許可を得るための朝貢が行われていた記録が『漢書』にある[42]

後漢の時代になると、黄巾の乱ののちに楽浪郡が衰退して交易圏も不安定になった。『魏志』によれば、邪馬台国卑弥呼が倭の諸国を代表してに朝貢を行い、大倭と呼ばれる役職が国々の交易を管理し、伊都国に派遣された一大率という役職が魏や朝鮮半島の国々との外交や貿易を管理した[47]。3世紀中頃から広範囲に分布した三角縁神獣鏡には同じ型から作られたものがあり、魏への朝貢に対して卑弥呼が受け取った銅鏡百枚にあたるかという点で、魏鏡説と倭製説に分かれている[48]。4世紀後期には倭の五王南朝への朝貢を再開する。倭の五王は百済から贈られた中国系の渡来人から漢字文化を取り入れて冊封関係に役立てた。五王の最後に当たる雄略天皇(武)が南朝の宋に朝貢したのちは、遣隋使まで国交のない状態が続く。この時期に日本と最も交流が盛んだったのは朝鮮半島の百済だった[49]

朝鮮半島との交流
七支刀のレプリカ

日本列島と朝鮮半島の遺跡からは、当時の交流による遺物が見つかっている。日本列島では、ヤマト王権の成立前には邪馬台国のほかにも九州北部の奴国伊都国、瀬戸内海では吉備氏が半島と貿易をしていた。3世紀には倭国は倭錦や真綿などの絹製品や九州北部の穀物を輸出し、朝鮮半島からは伽耶で産する鉄が楽浪郡や帯方郡から輸出された。『魏史』には、壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なっていたと記述がある。これらの地域の首長はヤマト王権の成立後も独自に半島と交流を続け、時には協調した[50]

古墳時代の頃の朝鮮半島は、東部の新羅、西部の百済、北部の高句麗の3国のほかに南部の伽耶、西南部の栄山江流域などに分かれていて、それぞれ協調や対立をしつつ日本列島と交流した。中でも百済とは贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された[50]。やがて日本列島では、朝鮮半島との外交関係や貿易の利益をめぐってヤマト王権と豪族が対立するようになる。5世紀にはヤマト王権と吉備氏との間で吉備氏の乱が起き、527年にはヤマト王権と北部九州の筑紫君磐井との間で磐井の乱が起きた[51]

弥生時代から古墳時代にかけての交易地と交易ルート

原の辻遺跡中心域 遠景

日本列島と朝鮮半島南部をつなぐルートとして、博多湾洛東江の沿岸に交易地が発展して交易港が建設された。ヤマト王権の成立前には、奈良盆地には倭国(やまとのくに)と葛城国があり、倭国は紀ノ川から大阪湾や瀬戸内に通じるルート、葛城国は河内から瀬戸内のルートを持っていた[52]。ヤマト王権が成立すると金官国との交流が増え、畿内と金官国を直接つなげる沖ノ島のルートが栄えた。九州北部ではこれに対して玄界灘を拠点とする。瀬戸内海は九州と畿内を結ぶルートであり、吉備をはじめとして半島と交流した[53]

朝鮮半島南部の多島海の中央に位置する泗川勒島遺跡には、弥生中期から後期の弥生土器も出土しており、日本列島で鋳造鉄器が見つかり始める時期と一致する。金海湾に面した狗邪韓国の金海官洞里遺跡、新文里遺跡には列島の土師器系の土器があり、半島で産する鉄を輸出して成長した[54]。壱岐島の原の辻遺跡は船着場を備えた交易地であり、中国の銅貨である五銖銭の他に中国製の銅鏡や鉄器、朝鮮南部の土器が出土した[55]。博多湾に面した西新町遺跡は3世紀後半から栄え、朝鮮半島系の土器やかまど、鉄器、鉄器、ガラス玉の鋳型、西日本各地の土器が出土しており、日朝の交易港とされる[56]。交易地だった亀井遺跡では日本最古の石の分銅が出土しており、計量に用いられたとされる[57]。奈良盆地の纒向遺跡には外来の土器や列島各地の土器が出土している。邪馬台国の卑弥呼の時代には、大陸との貿易は伊都国を中心として、西新町遺跡などの交易地を一大率が管理した。東日本との貿易では、纒向遺跡などの交易地を大倭が管理したと推測されている[47]

飛鳥時代、奈良時代、平安時代

飛鳥寺の本堂

律令国家の成立によって、各地域の豪族や首長が行なっていた貿易は、国家による独占管理が進む。律令法で貿易のルールが定められ、外交使節は蕃客と呼ばれて、貿易の順序は(1)贈答形式の貿易、(2)官司の先買、(3)貴族の購入、(4)蕃客の日本製品購入で処理された。日本の国外における貿易は遣外使節と呼ばれる日本からの使節が行い、遣外使節以外の渡航は禁止された[58]。国内交易については、それまで地域の首長が独自に交易を支配していた状態から管理を強める。甲甲条では、市を管理する市司や渡し場の管理者である渡子が手数料を徴収できないようにした上で、それらの役職に農地を与えて役人へと変えた[59]

文化面では仏教が伝来した。百済は仏舎利のほかに僧、寺師鑪盤博士瓦博士画工などの技術者をもたらし、日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営を支援した。蘇我氏の配下である渡来人の東漢氏忍沼氏朝妻氏鞍部氏山西氏らも参加した。本尊の造仏では、高句麗が黄金を送って支援した[60]。やがて朝鮮半島で百済、新羅、高句麗の対立が激化し、日本は百済に味方をして唐や新羅と戦うが大敗する。百済が滅ぶと、日本は百済からの亡命者を受け入れる一方で、新羅と貿易や使者の往来を盛んに行った[49]

遣隋使、遣唐使と貿易
遣唐使の航路

7世紀から日本は遣隋使を送るようになる。小野妹子が使者となった第2次遣隋使では百済の協力があり、新羅を牽制する意図があった。隋が滅んでが成立すると、長安は中央アジアのソグド人ササン朝のペルシア人、大食と呼ばれたイスラーム教徒、インドからの使節や商人が集まる国際都市となり、長安を中心に商品や知識が東アジア各地に広まっていった。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、交流が続いた[61]。『隋書』と『日本書紀』で記述の違いがあるが、遣隋使は4回が派遣され、遣唐使は停止したものを含めて第20次まであったとされる[62]。遣隋使や遣唐使は外交使節であり、それに付随して貿易が行われた。日本側としては冊封体制のもとではなく対等の関係で行おうとしたが、中国側は遣隋使や遣唐使を朝貢として記録した[14]

遣唐使は4隻または5隻の船で400人から500人を運んだ。百済舶とも呼ばれる遣唐使船は、近江国丹波国播磨国備中国周防国安芸国などの地方が命じられて建造した[63]。日本は百済に味方をして唐や新羅と戦ったことが影響し、670年から701年にかけて遣唐使は派遣されなかった。遣唐使が再開されると唐との交流が増え、制度や漢字表記などの面で唐の影響が強まった[49]。唐以外の地域からも日本を訪れる者がおり、僧侶ではインド出身の菩提僊那や、チャンパ王国出身の仏哲がいた。ペルシアは波斯国と呼ばれており、『続日本紀』によれば、波斯人の李密翳が唐人の皇甫東朝とともに平城京を訪問し、聖武天皇から位を受けている[64]

唐物

平螺鈿背八角鏡。螺鈿細工が用いられている

遣唐使によって、日本に大量の文物が輸入された。遣唐使のメンバーや物品のリストは『延喜式』に記録があり、日本からの輸出品は真綿などの繊維製品、銀などの鉱物、油など大きく3種類だった。これらは国内で納税されたものが中心で、のちに和紙砂金も加わった。いずれも素材としての質を評価された品物であり、物品貨幣としての面を持っていた[65]。輸入品には漢籍や仏典などの書物、仏像などの美術工芸品、沈香などの香料や薬物、動植物がある。漢籍は1600種類で1万7000巻弱、仏典は一切経をはじめとして早くから輸入されて転写された。ミカンのように日本の食文化や喫茶文化に影響を与えたものもある[66]スキタイに由来するペルシアの剣であるアキナケスは波斯国剣と呼ばれ、平安時代には真如親王が長安から贈った波斯国剣が鳥羽宝蔵に収められた[64]

平安時代にはこうした舶来品や、舶来品のような様式を指す唐物という言葉も使われるようになる。唐の滅亡後も、唐物という語は使われ続けた[67]。輸入品にはもおり、唐猫と呼ばれて珍重された。宇多天皇は太宰府の役人から献上された唐猫について日記に書いており、『寛平御記』に記述がある[68]。輸入品は朝廷によって管理されて臣下へと再配分された。先買権が朝廷にあるため、例えば貴族が新羅の輸入品を買う際には、買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請をしていた[69]。唐物は文芸にも影響を及ぼしており、王朝文学の『竹取物語』、『うつほ物語』、『枕草子』、『源氏物語』にも唐物が描かれている。当時の輸入品には正倉院の宝物として現存するものもある[70]

南西諸島

ヤコウガイから作られた古代の貝匙。

弥生時代から平安時代の南西諸島は、奄美大島喜界島を中心にヤマト王権や隋・唐と交流した。掖久人が入貢したのちに南島の使者が訪れたという記録が『日本書紀』や『続日本紀』にある。掖久については、現在の屋久島や奄美、沖縄を指すとされる。『隋書』には流求という地名もあるが、沖縄を指すかについては諸説ある。奄美諸島の土器は日本列島の土師器の影響を直接に受けており、沖縄の土器は6世紀から7世紀にかけて奄美の影響が見られるようになる[71]

屋久島以南の産物としてアカギヤコウガイがあり、海上交易の重要な品物だった。ヤコウガイは奄美諸島を中心に加工されて、7世紀にはヤマト王権へ輸出されて螺鈿細工などに用いられた。ヤコウガイは隋や唐との貿易でも用いられており、中国の銅銭である五銖銭や開元通宝が各地で発見されている。唐では螺鈿細工が発達しており、ヤコウガイが大量に求められていた。ヤコウガイ貿易によって奄美諸島には鉄器が輸入し、久米島にはヤコウガイの加工場があり、周辺から集めたヤコウガイを唐やヤマト政権に輸出して、輸入した物産を再配分していたと推測される。鉄器のほかに南西諸島にはいない豚も遺跡で発見されている。沖縄諸島では、ゴホウライモガイが交易に用いられて、装身具の貝輪にも加工されていた[72]

高句麗と渤海

新羅の北に位置する高句麗は570年に日本を訪れて、滅亡までに18回の使節が日本を訪れた。高句麗の文物も日本に影響を与え、聖徳太子の師である恵慈は高句麗の出身だった。高句麗が滅んだのちには渤海が建国され、朝鮮半島をめぐる情勢が不安定になると、日本は渤海との交流を深めた。渤海側の使節である渤海使が到着し、日本側では朝貢を求めたとして歓迎した。渤海は薬用人参毛皮などを輸出し、日本は綿などを輸出して、渤海使は34回続いた。しかし日本にとっては回賜の負担が大きいため、朝貢を12年に1度と定めた[73]

私貿易の増加と新羅

律令国家の成立時点では、列島周辺で遠洋航海をする民間の貿易商人が存在していなかった。そのため律令には民間の貿易商人についての条文もなかった[74]。唐では安史の乱が起きたのちに政情が不安定となり、朝貢以外の私貿易が増加する。唐や新羅の海商や、新羅で海賊対策をしていた武人張保皐のような人物が私貿易に参加し、日本からも唐や新羅の商船に同乗して私貿易に参加する者が現れた。最後の遣唐使でもある僧の円仁が書いた旅行記『入唐求法巡礼行記』は、当時の唐や新羅商人の事情を知る貴重な史料である[14]。最後の遣唐使を送ったのちは、854年に大唐国商人の欽良暉の交関船(貿易船)が博多に来ている。朝廷の使者である唐物使(からものつかい)が唐物を買い上げるために太宰府に派遣され、次に唐の商船に同乗する入唐使(にっとうし)が派遣された。しかし、民間の貿易の増加で貴族が唐物を買い漁ることも増え、朝廷は禁制を出すが先買権や独占が維持できなくなる[11]。遣唐使の制度が廃止されて唐が滅んだ後も、民間レベルでの貿易が続いた[14]945年には、大唐呉越船が肥前国に来ている。これらの商船は300トン級と推定されており、9世紀中頃以降には青磁を中心とする陶磁器が増加した[75]

平安時代の日宋貿易

北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)

黄巣の乱以降、唐の統治能力が低下して、地方勢力である藩鎮が自立傾向を示した。1世紀以上にわたって中国は分裂状態にあり、五代十国時代[76]と呼ばれる。これを統一したのはであった。日宋貿易によって博多には大唐街と呼ばれる宋国人の居住街も形成されて、これに関心を寄せた平忠盛が輸入品を朝廷にもたらして権力を持つ。忠盛は肥前国神崎荘で日宋貿易を行い、唐物に関心が高い鳥羽院の近臣となる。忠盛の息子の平清盛肥後国の国司となったのちに瀬戸内海の安芸国播磨国の国司、そして大宰大弐などの地位について日宋貿易を支配下におく。清盛は福原の大輪田泊を改修して貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石にした[77]。清盛は福原で後白河法皇と宋人を謁見させるが、これは異国人と天皇の直接対面を禁じた宇多天皇の訓戒に反する行為だった。また宋からの供物には「賜日本国王」と書かれており、公卿たちは「賜」という言葉を無礼としたが、清盛は宋に返事と返礼の品を送った。こうして宋との関係は活発になり、宋船が瀬戸内海に入って大輪田泊で取り引きを行うようになると、大宰府の利権は減少した[78]

日本は絹織物や陶磁器などを輸入した。12世紀頃からの交易の様子は、福岡市内の博多遺跡群から出土した、浙江省龍窯で大量生産された龍泉窯産をはじめとするおびただしい数の青磁、白磁などの輸入陶磁器に反映されている。また、12世紀中頃から、銅貨である宋銭がもたらされると日本国内でも使われて流通した。日本でも金属貨幣が発行されていたが律令政府が望んだようには普及せず、宋銭が貨幣経済に大きな影響を与えた。日本の輸出品としては砂金が重要であり、砂金の流通は陸奥国奥州藤原氏が主導した。藤原清衡は出羽の港を改修して唐物を平泉に輸入し、平泉を拠点とする奥州藤原氏は都に金を送る一方で独自に博多と交易を行った。奥州藤原氏によって中尊寺毛越寺無量光院などの寺院にも唐物が使われ、源頼朝の出兵まで平泉は繁栄した[79]。奥州藤原氏は北海道にも進出しており、中尊寺金色堂で昭和の大改修が行われた際、金箔の砂金には陸奥だけではなく北海道の日高の砂金が用いられているという指摘もあった[80]

アイヌとオホーツク人

アイヌは古墳時代では北海道や列島を南北に移住しながら生活をしていた。天智、天武、持統、文武朝には和人と交易をともなう交流があり、和人にはエミシとも呼ばれた。サハリンで暮らしていたオホーツク人は道北と道東に移住し、アイヌとは対立をしながら距離を保って生活した。オホーツク人は唐では流鬼と呼ばれ、唐には朝貢でクロテンの毛皮を送りつつ、日本列島での交易も求めて南下した。奥尻島津軽佐渡島にもオホーツク人が訪れている。そのころ本州では、越国守である阿倍比羅夫が遠征を繰り返しており、200艘の船団で北海道へ遠征したと『日本書紀』に記録がある。比羅夫は奥尻島で粛慎と接触をはかり、いわゆる沈黙交易を行おうとしたが交渉は成立せず、粛慎との戦闘となった。ここで粛慎と呼ばれている民族は、オホーツク人を指すという解釈が定説となっている。比羅夫の遠征の目的は、交易圏の拡大、オホーツク人の排除による北方の安定化、アイヌとの交易の管理などがあげられる。アイヌの居住地や交易地からはロシア沿海州の錫製の耳環が発見されており、アイヌとオホーツク人は対立しつつも沈黙交易などで交流をしていた[81]

陸奥国では、和人は国府から繊維製品や鉄器、和同開珎、装身具を送り、アイヌからは熊の皮、昆布、砂金、馬、奴隷などが送られた。陸奥の国司をはじめ一般人もアイヌとの交易を行っており、禁令が出されている。遣唐使において日本側が蝦夷を帯同したこともあり、これは中国の華夷秩序をもとにして、日本に朝貢する地域として蝦夷を位置づける意図があった[82]。9世紀以降のアイヌは奥州藤原氏との交易が活発となる。奥州藤原氏は遠方から砂金を入手するために北海道にも居住地を建設しており、アイヌは砂金のほかに矢羽に用いるオオワシの尾羽や海獣の毛皮、鹿皮や干鮭を送った。苫小牧では平泉が最大の消費地だった常滑焼が発見されており、砂金の産地である北海道の胆振日高のアイヌ集落跡では、新羅産の銅鋺が発見されている。これらは北海道で生活した藤原氏や、アイヌが藤原氏から入手した品物と推測されている[83][84]

飛鳥時代から平安時代にかけての交易地と交易ルート

当時の貿易は重要な外交事業でもあるため、海外交流や貿易の施設として鴻臚館が設置された。鴻臚館という名称は中国の鴻臚寺に由来する。磐井の乱の後に、那津に外交施設として那津官家が設置された。遣隋使の頃に筑紫太宰が駐在して太宰府が設置されると、鴻臚館の行政機能はなくなり筑紫館と呼ばれた。畿内の港がある難波津には難波館が設置され、平安京には主に渤海使のための鴻臚館があった[85]

遣唐使では、船は難波津を出港して北路か南路を進んだ。北路は新羅を通るルートであり、南路は五島列島を経由するルートだった。当初は北路が選ばれたが、日本と新羅の関係が悪化すると南路が選ばれるようになる。五島列島は、大宰府と対馬を結ぶ拠点でもあった[86]

宋の時代になると、宋の商人は博多敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行った。当時の商人として王則貞などの名が知られている。宋の貿易船の船長は綱首と呼ばれ、博多に滞在する博多綱首たちは地元の寺社と友好関係を結んで保護を受けた。綱首の中には日本で土地を所有する者もいた[87]。初期の陶磁器は、長沙市長沙窯、浙江省慈渓市の余姚窯、周辺の窯で産する越州窯の青磁が揚州寧波から鴻臚館へと運ばれた。奥州藤原氏は平氏とは異なるルートを用いたため、北方貿易とも呼ばれる[88]。11世紀から12世紀にかけて但馬国越前国に来航や居留をした唐人の記録もある[89]

中世

鎌倉時代の日宋貿易

青磁鳳凰耳花生 南宋時代

平氏政権の崩壊後の鎌倉幕府は民間貿易を認め、出羽国武藤資頼が大宰少弐になって以降に貿易の支配を強めて、南宋が滅亡する直前まで日宋貿易は続いた。大陸ではモンゴル帝国が席巻し、中国北部を支配していた女真族王朝のを滅ぼす。1240年代はモンゴルの内紛によって南征がなく、南宋や朝鮮半島の高麗は日本との交流が盛んになる。僧侶の往来が急増して、日本側は博多、中国側は慶元が拠点となった。慶元では市舶司が貿易を管理し、価値が低い品物は積荷の15分の2が徴税され、15分の5が官貿易の対象となった。やがて負担の大きさを理由に商船が減ったために徴税額が19分の1となり、官貿易は廃止された[90]

13世紀に宋からの陶磁器の種類と搬入量が急増した。13世紀中頃までの同安窯青磁や龍泉窯青磁に加えて、13世紀後半には景徳鎮の碗皿、香炉、花瓶、大盤などが増える。こうした陶磁器は鎌倉に大量に輸入されて、鎌倉の中心部に位置した今小路西遺跡から出土している[91]。また、ジャコウネコインコなどの珍しい鳥獣を輸入して貴族や富裕層の贈り物にすることが流行した。唐物の増加により物価が上がり、幕府は1254年建長6年)に宋船の入港を5艘に制限しようとしたが失敗した。平安末期から鎌倉時代にかけての日本の主要な輸出品は木材であり、慶元を治めていた呉潜は、1258年正嘉2年)に倭商の商品として倭板と硫黄をあげている[92]。硫黄は、宋の時代から兵器としての使用が増えた火薬の材料であり、中国より産出が多い日本は日明貿易に入っても輸出が続いた。その他に砂金や日本刀などが輸出されている[93]

日元貿易

モンゴル帝国は金や銀の入手や南宋の孤立を目的として雲南・大理遠征を行い、南宋を滅ぼしたのちにモンゴル人王朝のを建てる。元は支配領域を拡大しようとベトナムや日本にも進出を計画した。近隣諸国との関係が悪化する中でも民間や地方では交易が続けられており、日本との間でも日元貿易が行われた。とくに江南地方は経済拡大が続いていたこともあって、その規模は拡大した。元は高麗を介して日本に朝貢を求めるが日本が拒否したため、文永の役弘安の役が起き、元寇と呼ばれた。ただし、戦争中も元は貿易を許可しており、元寇ののちも貿易は続いた。日本からは砂金、硫黄や工芸品などが輸出され、元は銅銭、陶磁器、書物などを輸出した。仏教僧の移動が活発で、貿易船に乗って日本、高麗、元を往き来した。鎌倉幕府も、寺院や鎌倉大仏の造営費のために寺社造営料唐船と呼ばれる勧進船を派遣した。のちに韓国の新安郡で発見された沈没船も、寺社造営料唐船だった[94]。また、元は北方ではサハリンやアムール川をめぐってアイヌと紛争をしたのちに朝貢を受けている[95]

室町時代の日明貿易

元に替わってが中国を統一すると、明の洪武帝海禁の政策をとり、私貿易を取り締まった。海禁は大きな反発を呼び、元の末期から中国沿岸で活動していた倭寇と呼ばれる集団が増加し、明は倭寇対策を室町幕府に求めるようになる。同じ頃、博多商人の肥富は幕府の3代将軍の足利義満に明との貿易の利益を説明して、貿易を望む義満は国書とともに肥富と僧侶の祖阿を使者として送る。建文帝は使者を朝貢使として受け入れて、義満を日本国王とした。次の永楽帝は朝貢国の証明である勘合符を義満に与え、勘合符を持つ足利氏の朝貢使が遣明使として公式な貿易を独占する。遣明船は、1401年から1547年(天文16年)まで19回が派遣された。幕府は嘉吉の徳政一揆から財政難となり、単独で遣明船を用意できなくなる。そこで8代将軍の足利義政は勘合を大名や寺院に売って費用を調達するようになり、幕府以外の大名や寺院も遣明船に参加した。遣明船は遣唐使船とは異なり、専用の船を建造せずに民間の船舶を借り上げていた。遣明船の費用は船の調達に1800貫文、積荷に1500貫文、勘合を幕府から得るために300貫文ほどかかったが、それを上回る利益があり、平均すると1万貫文に達した。遣明船の費用を調達するために臨時の重税を課す地域もあり、第10回の遣明船に参加した興福寺の大乗院では、税に反対する農民が48箇所で一揆を起こした[29]

日本からの輸出品は鉱物(硫黄や銅)、日本刀や扇子などだった。日本刀は室町時代を通して20万本と大量に輸出されたが、大量生産が品質の低下を招いて下落した[96]。硫黄は主に薩摩の島津氏と豊後の大友氏が採掘したものを運び、1艘の遣明船に約54トンを積んだ記録もある。島津氏は硫黄島、大友氏は九重山伽藍岳から採掘した[97]。日本に輸入された唐物は、宋の時代に続いて洪武通宝永楽通宝などの銅貨が多く、その他に白金、繻子、僧衣、器皿、織金、沙羅、絹、宝鈔(紙幣)などで、将軍家から家臣への贈与や会所での披露に用いられた。義満は唐物を輸入するために10年後の予定だった朝貢を早めることもした。足利将軍によって唐物は美術品として扱われ、同朋衆が唐物の鑑定や等級づけ、座敷飾りを行なった[98]。朝貢国は非関税で明と貿易ができたが、回賜の増加は財政を圧迫するために明の内部で批判もあった[5]。日明貿易によって永楽通宝などの明銭の銅貨が日本へ流入すると、明では銅貨の流出を懸念した。明は対策として回賜に紙幣も用いたが、日本では銅貨での受け取りを求めており、紙幣は国内では流通しなかった[99]

将軍家では、中国から入手した唐物を御物として保管した他に、家臣である貴族に売却や再配分をして権威の保持に用いた。足利義勝や義政の時代には幕府の財政難が深刻だったため、支払いのために御物を手放した。これは売物と呼ばれ、特に寛正期には大量に売却された。御物には、幕府が家臣の財政難を救うための質物としての役割もあり、御物を与えられた貴族はそれを金融業者である土倉に持ち込んで借金をしていた。幕府が御物を売物として手放すのは、家臣の救済ができなくなることを意味し、幕府の経済的信用は失墜した[100]

倭寇の発生と密貿易

倭寇の活動地域

14世紀から16世紀にかけて、倭寇と呼ばれる集団が活動した。倭寇という語は、元の時代に初めて記録に現れる。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿海部の出身者が中心で、対馬壱岐松浦済州島舟山列島を根拠地として、密貿易や海賊、商品用の奴隷の捕獲などを行なった。また、現地の人間を拉致して強制的に部下にする場合もあった。倭寇が活発となった原因としては、日本における鎌倉幕府の滅亡と南北朝の分裂による治安悪化、朝鮮半島における元軍による高麗の混乱、中国における明の海禁などがあげられる。14世紀から15世紀の倭寇は朝鮮半島沿岸で日本人と一部の朝鮮人が中心となり、前期倭寇とも呼ばれる。16世紀には中国沿岸で後述のように多数の中国人や一部ポルトガル人も倭寇に含まれており、後期倭寇とも呼ばれる[101]

朝鮮半島と前期倭寇

1350年(南朝 : 正平5年、北朝 : 観応元年)、日本で観応の擾乱が起きていた時代に、倭寇の襲撃が始まったという記録が『高麗史』にある。朝鮮半島の沿岸部は荒廃し、やがて高麗で蔑視されていた水尺や才人と呼ばれる人々も倭寇に参加するようになる。倭寇との戦闘で名を馳せた高麗の李成桂は、のちに李氏朝鮮を建国した。明や高麗は倭寇を沈静化するために室町幕府に使者を送り、李氏朝鮮でも使者は引き継がれた。これを機に日本と朝鮮間で使節派遣が行われるようになり、貿易も盛んになった。やがて倭寇の定住や貿易の許可によって、倭寇の活動は中国沿岸へと移った。この間、日本の輸出はなどの鉱物資源や漆器屏風などの工芸品、明の輸出は永楽通宝や繊維製品、朝鮮の輸出は木綿や朝鮮人参だった。しかし室町幕府が求心力を失うと再び倭寇が出没して、日朝貿易が中断する時期もあった[102]

日麗貿易、日朝貿易

11世紀から高麗と貿易が続いており、日本からは対馬の人間がもっとも多かった。日本は真珠、刀剣、水銀、柑橘類などを輸出し、日本船は進貢船とも呼ばれて年1回渡航した。一方で、13世紀前半に朝鮮半島における倭寇の略奪が京都にも伝えられるようになる[103]。李氏朝鮮は倭寇の懐柔策を行い、降伏して定住する投化倭人が現れる。朝鮮の官職を持って貿易も許された受職倭人、港に住む恒居倭人、日本の豪族の使者で使走船に乗る使走倭人などもいた。商人としては興利倭人がおり、商船は興利倭船と呼ばれた。興利倭人が急増したため、対馬、壱岐、九州の諸大名の渡航許可書が義務とされた[104]

日朝貿易は大きく分けると、(1)使節による進上と回賜、(2)官僚による公貿易、(3)商人同士の私貿易の3種類があった。公式の交流は(1)だが、取引額は(2)と(3)が大部分を占めた。(2)は公定価格で(3)は市場価格にあたり、価格の変動によっていずれが得になるかが常に注目された[105]。日本が入港できる場所は、太宗の時代には富山浦乃而浦で、世宗の時代に塩浦が加わって三浦とも呼ばれた[102]

琉球と明

琉球から明への進貢船

14世紀からは琉球王国が日本、明、朝鮮を中継する琉球貿易で繁栄する。当時は山北王国中山王国山南王国の3つの王国がある三山時代で、中でも大規模な交易港のある那覇をもつ中山が活発だった。明の招諭使である楊載は、懐良親王を訪れた時に琉球の情報を得る。楊載は中山王の察度を訪れて明への入貢を求めて、察度は洪武帝に朝貢を行った。1383年(弘和3年)に明は琉球に大型船を提供して朝貢が頻繁になった[106]。明は倭寇対策のために琉球の貿易を活発にする目的があり、琉球の朝貢には回数制限がなく、複数の朝貢主体も認められていた。当時の日本の朝貢は10年に1度であり、琉球は優遇されていた。朝貢を担当するために明から派遣された閩人の専門家集団もおり、大型船の船長や水夫、漢文文書の作成や通訳を担当した。閩人たちは久米村に住んだために久米三十六姓と呼ばれた。久米三十六姓の人々が住む場所は大明街とも呼ばれ、琉球から明への渡航者は福州の琉球館に滞在した[107]。高麗にも中山が朝貢の使者玉之を送って交流が始まり、日本とは博多やの商人と取り引きをした。

南西諸島の海岸は珊瑚礁が多く、大型船に向かない場所が多かった。当時の那覇は独立した島で、珊瑚礁のない内海があり、良港の条件を備えていて繁栄した。島には琉球人や倭人の他に、貿易のために華人や朝鮮人が生活していた。琉球本来の信仰の他に、禅寺などの宗教施設も建設されていた[108]。琉球は明に朝貢をすることで、南九州経由のルートに代わって明と直接に貿易をするルートができた[106]。中継貿易は王府による国営事業であり、琉球の輸出品は小型の馬と、硫黄鳥島で産する硫黄で、その他に中継貿易で得たコショウや蘇木、象牙、日本刀などがある。これらを明に献上して回賜を受けとり、陶磁器はグスクにも大量に貯蔵された[109]。日本との貿易は応仁・文明の乱で交通が不安定になり、細川氏との兵庫津での交渉が不首尾に終わったので、博多や堺の民間商人や、禅僧が交流を引き継いだ。博多商人の佐藤重信や禅僧の道安は、朝鮮との外交も担当した。商人にとって琉球国王使の名目を使えることは利益が大きく、琉球国王の偽使も発生した[110]

戦国時代、安土桃山時代の日明貿易

応仁の乱後は、日明貿易の日本における主導権は、細川氏大内氏を中心とする九州や西日本の大名、堺や博多の商人に移っていった。大内氏は宝徳年間の遣明船から博多商人と協力して、天文年間には遣明船を2回送った。大内氏の船には博多商人の神屋主計河上杢左衛門をはじめとして、堺や薩摩の人物も乗っていた[111]。 大内氏と細川氏のあいだでは貿易の主導権をめぐって寧波の乱が起き、1536年まで遣明船の中断も招いた。肥後の相良氏は琉球に船を送っていた他に、宮原銀山の発見で費用を調達して天文年間に2回遣明船を送った[112]。豊後の大友氏は、明からの制限で宝徳の遣明船以降は直接参加ができず、正式な勘合がない私的な貿易船を送った。のちに大友晴房(大内義長)が大内氏を継いだことで、再び遣明船に参加した[113]

寧波の乱による貿易の中断は、倭寇の一因にもなった。大名による遣明船の中には明に入貢を許可されなかった船もあり、その場合は警備の手薄な中国沿岸で私貿易を行なった。明の公式な立場からは、これらは密貿易であり倭寇的行為と見なされた。大内氏は、室町幕府が明から受けた日本国王の金印の模造品も作っていた。明ではこうした偽使の対策として、中国沿岸の密貿易者を取り締まった。公式の勘合貿易は、大内氏の滅亡によって断絶したとされるが、それ以降も複数の大名が遣明船を派遣した[15]。古代から安濃津坊津と並んで日本三津と呼ばれた交易港の博多は明、朝鮮、琉球、東南アジアで商人が活動していたが、少弐、大友氏、大内氏の紛争に巻き込まれて荒廃し、九州各地に建設された唐人町や長崎、豊後府中へと貿易が移っていった[114]

アイヌと東北アジア

タマサイ(ネックレス)。山丹交易で得た大陸産のガラス玉と本州産の金属製品が使用されている。

アイヌは貿易品のオオワシやタカの尾羽などを得るために、11世紀からサハリンへ進出をした[115]。13世紀にはサハリンの先住民だったニヴフとアイヌは対立する。ニヴフは元と冊封関係にあったため、モンゴルの樺太侵攻が起き、アイヌと元の紛争は約40年続いた。アイヌは大陸へと渡ってアムール川下流を襲撃するが、やがて元の冊封を受けて朝貢で毛皮を送った。元代の地誌である熊夢祥中国語版の『析津志中国語版』によれば、アイヌは野人と呼ばれたツングース系の民族と沈黙交易を行なっていた。アイヌはオコジョの毛皮、野人は元との朝貢で得た物資を送った。アイヌは元ののちに明にも朝貢し、15世紀になると千島列島のラッコの毛皮を中国や日本へ送った[116]。15世紀は津軽半島の安東氏十三湊で貿易を盛んにしており、アイヌが大陸で入手した物産も運ばれた。安東氏は奥州藤原氏が滅んだのちに鎌倉幕府に蝦夷代官に任ぜられ、北海道から京都までのルートを支配して栄えた[115]

国際通貨の倭銀

古代からの鉱脈だった石見銀山が16世紀前半に再開されて、対馬や壱岐を経由して博多や朝鮮半島へ鉱石が運ばれた。博多商人の神屋寿禎が朝鮮半島から技術者を石見に連れてきたことが、灰吹法の伝来とされる[117]。灰吹法が各地に伝わると銀の産出量が増えて畿内や九州、貿易港に銀が流通した[118]大内氏による第18次遣明船には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した[119]

当時は銀が国際的な貨幣であり、日本の銀は倭銀とも呼ばれて日明貿易や日朝貿易、南蛮貿易における重要な輸出品となる。朝鮮では銀を木綿布と交換して船舶の帆布や衣料品となった。明は銀で納税する一条鞭法をとっており、倭銀を求める福建、浙江広東の商人が密貿易に訪れた。ポルトガルは平戸から倭銀を入手するのに加えて、長崎・マカオ間の定期航路も開設して、倭銀がマカオを経由して明に流入した。日本は生糸や絹織物などの高価な外国産品や、火薬原料である硝石を輸入した[120]

日朝貿易と倭館

狩野安信『朝鮮通信使』

朝鮮王朝は、倭寇の拠点となっていた対馬を応永の外寇で攻撃する一方で、朝鮮半島に倭館を建設した。倭館は日本人の客館として李氏朝鮮が用意した施設で、貿易で来航する日本人のためであり、倭寇対策も兼ねていた。もっとも貿易を活発にしていたのは対馬宗氏であり、宗氏は倭寇の取り締まりで朝鮮王朝と協力した。他に大内氏、九州探題の渋川氏、肥前の宗像氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏なども渡航した。日本からの輸出品は銀、朝鮮からの輸出品は木綿布だった。日朝貿易は一時中断したのちに15世紀中頃に再開されるが、これは李氏朝鮮が密貿易に統制をかけようとした目的があった。15世紀末には恒居倭人は3000人近くに達して、三浦の乱という暴動も起きた[121]

海禁と後期倭寇

倭寇

16世紀の倭寇は後期倭寇とも呼ばれる。活動地域は中国沿岸を中心とし、海禁を原因とした中国人の参加が多数にのぼった[101]。明は海禁によって朝貢品を独占して上流階級用や軍需品として消費し、一般の商人への分配はわずかだった。初期の海禁は外国商人との取り引きを禁ずるのみだったが、やがて中国人同士の海上の交易も禁じられた。中国沿岸の商人は反発し、福建、広東、浙江の塩商人や米商人を中心とした密貿易が急増する。海禁の取り締まりの激化や、遣明船廃止による日本人の参加、ポルトガルが中国沿岸で行った密貿易の影響もあり、諸勢力が入り乱れる状況下で16世紀に倭寇が拡大した[122]

ポルトガル人の中にも中国船に同乗する者がおり、明や朝鮮から仏郎機(ふらんき)と呼ばれて倭寇と見なされた[123]。ポルトガルの冒険家メンデス・ピントの『東洋遍歴記』には、琉球や薩摩に滞在したという話や、1542年頃にムスリムのジャンク船から銀を奪ったところ、その大半はムスリムが平戸の船から奪った物だったという話もある[124]。倭寇対策として、日本に関する調査も行われた。探検家の鄭舜功は琉球や日本に滞在して研究書『日本一鑑』を書き、鄭若曽は日本の需要が高い品物をまとめて『日本図纂』や『籌海図編』に倭好として掲載した[125]

密貿易の増加によって、中国内陸で活動をしていた徽州商人も参加するようになる。徽州出身で倭寇の頭目となった王直は五島を本拠地にしつつ、博多や平戸で取り引きをして、中国沿岸で海賊行為を行なった。のちに南蛮貿易が始まったきっかけも、王直の船に乗っていたポルトガル人が種子島に漂着したためだった[126]。王直が倒されると倭寇は次第に衰退して、台湾、フィリピン、南洋へと活動を移す。倭寇の頭目のひとりである林鳳中国語版は、スペイン領フィリピンのマニラを攻撃して撃退された。明が海禁を解除すると、南海への中国人の渡航と貿易が認められた。日本への渡航や、禁制品である硫黄・銅・鉄の輸出は許可されなかったが、倭寇は沈静化した。倭寇は文芸の題材にもなり、馮夢竜の小説集『三言中国語版』には福建で倭寇に捕らえられて日本で暮らした商人の物語がある[127]

南蛮貿易

日本に到来した南蛮人たち。白人や黒人が描かれている。

南蛮貿易とは、ポルトガル人、中国人、およびヨーロッパとアジア人の混血がマカオで行った日中の中継貿易を主に指す。ポルトガルの他にはスペインが東アジアに進出して、ポルトガルが貿易を重視し、スペインは領土の拡張を重視した[128]。ポルトガルはマラッカ王国を征服したのちに、明から居留権を得たマカオを拠点とした。マカオには、ユダヤ人追放令によってイベリア半島を出たセファルディムの改宗ユダヤ人も移住して、司令官であるカピタン・モールと対立する。イエズス会も同じくポルトガルからの自立を計画して、南蛮貿易を統制して経済力を高めた。イエズス会士には改宗ユダヤ人も多く、16世後半にはマカオのポルトガル人の半数は改宗ユダヤ人だった[128]。管理貿易ではカピタン・モールの官許船や定航船があり、私貿易では冒険商人たちが自由に往来をした。カピタン・モールの船にはマカオの商人が委託商品を積み、カピタン・モールは手数料の1割を徴収した。官許船や定航船は当初ガレオン船1隻が用いられ、のちに小型のガレオタ船が複数で航海する体制になった。私貿易の船はジャンク船やナウ船が用いられた[129]

16世紀には、倭寇でもあった海商の王直の船に乗っていたポルトガル人が種子島に漂着したことがきっかけで、ポルトガルとの貿易が始まる。日本の軍事技術に大きな影響を与えた火縄銃については、南浦文之鉄砲記』に書かれている。しかし、種子島に漂着したポルトガル人が誰を指すかについては諸説がある[130]。ポルトガルの貿易はイエズス会による布教と結びついており、来航した港も布教と関係のある地域が中心となった。宣教師のフランシスコ・ザビエルが布教をした大内氏や大友氏、そして大村純忠がイエズス会に寄進して教会領となった長崎港などがある。寄進後の長崎は日本の貿易の中心となり、長崎の代官となった末次平蔵は外国船にも出資をした[131]

ポルトガルのアフリカ周回ルート(青)と、スペインの太平洋横断ルート(白)

ポルトガル商人は日本の銀と中国産の生糸との交換を基本として、その他に日本に輸出したのはトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、スイカなどの農作物や、火縄銃、メガネ、タバコ、薬品などだった。ポルトガルの次には、スペインが貿易に参加する。インド洋からマカオを経由したポルトガルに対して、スペインはヌエバ・エスパーニャのアカプルコを出て太平洋からスペイン領フィリピンマニラを経由して平戸に来航した。マニラからのスペイン船は年に約1隻の割合で来航した[132]。九州の大名は東南アジアとの貿易を望み、松浦氏はタイのアユタヤ王朝、大友氏はカンボジアと貿易をしていた[133]。16世紀後半からポルトガルやスペインの貿易はジェノヴァサン・ジョルジョ銀行から融資を受けており、リスク管理のために複数の人間が共同出資するコンパーニアや、高利の海上貸付であるレスポンデシアが行われていた。これらはのちに長崎で投銀(なげかね)と呼ばれる投資形態の原型となった。日本商人の投資が増えて、ポルトガル商人は中国からの信用貸付が可能となったが、対日本人債務が急増した[30]

織田信長はキリスト教の布教を許可して、輸入品によって大名の間に南蛮趣味が広まった。豊臣秀吉は信長の南蛮趣味を引き継ぎつつも、宣教師とキリシタン大名による一揆の可能性を警戒する。その対策としてバテレン追放令を発令して宣教師を追放する一方で、南蛮貿易を続行するために異国渡海朱印状を発行した[134]。秀吉はスペイン領のルソン、台湾の高山国、朝鮮に対して朝貢を要求するが失敗し、朝鮮においては文禄・慶長の役が起きた。秀吉の死後に徳川家康は親善外交をして関係修復につとめ、朱印船による貿易を推進する[135]

奴隷貿易と乱妨取り

戦国時代以降は、雑兵たちが乱妨取りで捕らえた捕虜を人買の商人に売り渡すようになった。九条政基の『政基公旅引付』、伊達氏の『天正日記』、甲斐の『勝山記』、武田氏の軍書『甲陽軍鑑』、『雑兵物語』、薩摩藩の上井覚兼の日記、太田牛一の『信長公記』で描写された信長軍の上洛など各地に記録がある。宣教師のルイス・フロイスも『日本史』で戦時の人身売買について記した[136]

ポルトガルが来航すると、ポルトガル商人にも捕虜を売る者が現れて、日本列島内の人身売買が海外貿易にも拡大した。1555年にマカオにいた宣教師のカルネイロの手紙には、多くの日本人がマカオに運ばれているという記録がある。イエズス会では、奴隷貿易が布教の妨げになるとポルトガル国王のセバスティアン1世に訴えて、ポルトガルは奴隷の取り引きの禁止令を出した。九州では、大友氏と島津氏の豊薩合戦によって豊後や肥後を中心に多数の捕虜が売買された。その後の豊臣秀吉による九州平定では豊臣軍の者によって捕虜が売買されて、大坂をはじめとする上方に売られる者もいた。秀吉は宣教師のガスパール・コエリョを召喚して外交問題として議論となり、秀吉はバテレン追放令の第一〇条などで人身売買停止令を出して事態の収拾をはかった[137]

いったん収まった奴隷貿易の問題は、文禄・慶長の役で再燃する。朝鮮半島で日本軍による奴隷狩りがおき、人買商人も半島へ渡り、日本の名護屋港を中心に捕虜が運ばれた。その様子は、従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』に書かれている。秀吉は朝鮮半島での人捕りを禁じる一方で、大名に対しては、捕らえた朝鮮人から優れた技術者や女性を献上するように命じた。ポルトガル人による朝鮮人捕虜の売買を防ぐために、イエズス会は奴隷貿易をする者の破門を決めた。イエズス会は破門決議の中で、無数の朝鮮人が日本に運ばれて安値で売られたと書いている[138][139]

琉球と東南アジア

琉球王国時代の那覇港

琉球では、明や朝鮮の他に15世紀からは東南アジアとも取り引きが増える。シャムのアユタヤ王朝(暹羅)、マレー半島のマラッカ王国(満刺加)やパタニ王国(仏太泥)、ジャワ島のマジャパヒト王国(爪哇)、パレンバン(旧港)、スマトラ(蘇門答剌)、スンダ王国英語版(巡達)、ベトナム(安南)といった国々である。これらの国は、琉球と同じく朝貢国であり華人社会があったので、漢文による外交が可能だった。マラッカ王国は、アフリカまで遠征をした鄭和の大船団の拠点であり、琉球も交易船を頻繁に送った。琉球は日本刀や中国陶磁器を東南アジアへ輸出し、東南アジアからはコショウ蘇芳などを輸入した。やがてマラッカは東方に進出したポルトガルに占領され、交易地は他の港湾都市に散らばる。琉球はマラッカを避けてジャワ島のカラパや、マレー半島のパタニ王国へと移った[140]。ポルトガルのマラッカ占領時代の商館員だったトメ・ピレス英語版の『東方諸国記』では、琉球人は「刀剣を帯びた人々」を意味するゴーレスという呼び名で記録されている。琉球は輸入した日本刀に螺鈿細工や朱漆塗りの外装をして輸出しており、レキオやリキーウー(琉球刀)と呼ばれた[141]。琉球の外交文書集『歴代宝案』によれば、1570年(隆慶4年)のシャムが最後の東南アジア派遣だが、それ以降も東南アジアの品物は記録されている。アユタヤ朝がビルマのトゥングー朝に占領されてからは、1571年(隆慶5年)にスペイン領フィリピンが成立したマニラなどで活動していたと推測されている[142]

倭寇と琉球

中国沿岸を襲撃していた16世紀の後期倭寇は琉球にも及び、琉球は那覇と首里の防衛を固めて、1550年代に琉球各地の島の警個も行なった。1556年嘉靖35年)には明軍に破れた倭寇船が琉球に漂流して戦闘が起き、捕らわれていた被虜人を中国へ送還している。こうして琉球は対策をとったものの、倭寇の浸入は防げず、時には那覇にも倭寇が来航した。明からの冊封使が来航すると特に騒ぎが大きくなり、冊封使が倭寇に襲撃される事件や、多数の倭寇が冊封使との交易を強引に求めて那覇に殺到する事件も起きた。琉球としては冊封使の品物は全て買い取る必要があり、深刻な紛争が起きないかぎりは倭寇も交易集団として扱った[143]

近世

朱印船貿易

朱印船。貿易商の荒木宗太郎の船

江戸時代の始まりは、南蛮貿易の終わりと重なる。マカオを拠点とするポルトガル商人は次第に中国との競争で圧迫され、江戸幕府から得た朱印状で貿易を許可された朱印船貿易が年に約10隻の割合で始まった。幕府は3本マストの武装交易船350隻に朱印船の許可を出して、台湾、タイのアユタヤ王朝、ベトナムのチャンパ王国、カンボジアのプノンペン、マレー半島のパタニ王国などにも朱印船が渡航した。各地に日本人町が建設されて、アユタヤ日本人町山田長政のように外国を活動拠点とする者も増加した。仙台藩は日本初のヨーロピアンスタイルの遠洋航海用ガレオン船となるサン・フアン・バウティスタ号を建造し、フランシスコ会のルイス・ソテロ正使、仙台藩士の支倉常長副使による慶長遣欧使節がヨーロッパ経由でアメリカに航海した。日本人以外では、華僑やポルトガル、スペインの商人も朱印状を得た。

商人は基本的に個人事業であったが、共同事業も行われており、投銀(抛銀、なげかね)という出資の仕組みを持っていた。投銀は、海上のリスクを貸主が高利で負担する海上銀や、商品の購入を委託する言伝銀に分かれていた。投資家から借り受けた貿易業者が一定額を朱印船主に渡して貿易を行い、無事に帰国すれば利益を船主、貿易業者、投資家で分配する。事故により損失が出た場合は元利の返済はなかった。投銀の賃借期間は約半年で、利率はリスクを考慮して30%から40%と高利であり、日本人の海外渡航が禁止されたのちの中国船では80%となった[144]。博多の末次家と長崎の末次家は投銀の集約と投資を分業して、強力な組織を経営した。投銀の方法は、スペインやポルトガルで普及していた共同出資(コンパーニア)や、高利の海上貸付(レスポンデンシア)に類似している。マカオにはコンパーニアがあり、その資金繰りが長崎に影響して、投銀が用いられるようになったとされる[30]。朱印船の廃止後は、廻船の船主と船問屋が同様の経営を継続した。江戸時代の文芸にも投銀は登場しており、井原西鶴の作品では長崎を舞台に唐や異国船に投機する行為として書かれている[145]

オランダの参入と禁教
復元された平戸オランダ商館

オランダは、ポルトガルが日本との貿易で利益を得ていることを知っており、日本から銀を得るために進出を計画する。オランダはスペイン・ポルトガルと紛争を起こし、ポルトガルはフランシスコ・マスカレーニャス司令官をマカオに派遣した。マスカレーニャスはマカオのポルトガル商人と対立し、商人の資金源である日本からの海上貸付の禁止や、マニラとマカオの貿易禁止などを行うが、無視された。マニラから海上貸付の銀が入ると、マカオ商人はその銀を用いて中国との密貿易で生糸を購入した。ポルトガル商人は日本商人に対する負債が増加した[146]

リーフデ号が日本に漂着し、ウィリアム・アダムスがイギリス人として初めて日本に到着した。家康はオランダとの貿易を望み、リーフデ号の乗組員2人がタイのパッターニーに送られてオランダ人を招待した。これによってオランダ人のヤックス・スペックスは平戸に来航して、アダムスを通じて家康から朱印状を得た。同年にはオランダ東インド会社が日本の緑茶平戸から運び、フランスやイギリスで飲茶が広まるきっかけとなった。茶貿易は、のちに中国からの紅茶の輸出が中心となる[147]。イギリスもクローブ号を最初として平戸に商館を開いて貿易を始めるが、イギリスが輸出しようとした毛織物は日本で人気がなく、撤退した[148]

家康の死後、2代将軍の徳川秀忠はキリシタン禁教の徹底と国際紛争の回避を目的に、貿易や出入国の管理と統制を強化する。スペインとポルトガルはキリシタン禁教の観点から貿易を禁じられ、イギリスはオランダとの競争に負けて撤退した。島原の乱ののち、幕府はカトリックに対する危機を強める。さらに、パウロ・ドス・サントス司祭の書状が発見されて、ポルトガル商人が禁教後も宣教師を支援していることや、竹中重義長崎奉行とポルトガルとの密貿易が判明する[149]。幕府はオランダ東インド会社に打診して、ポルトガルに代わって生糸と絹織物を輸入できることを確認した。オランダはこれを証明したため、幕府は鎖国令を出し、ポルトガルとの交流や貿易を禁止する。ポルトガルの撤退後はオランダが日本と取り引きをした[150][151]

台湾貿易

台湾島には多様な先住民族が暮らしており、ポルトガルはフォルモサと呼んだ。ポルトガルはマカオで明と貿易をしていたので台湾は拠点にせず、17世紀に大陸の華人と海外の華僑の間で中継貿易が始まった。ポルトガルののちに東アジアに来たオランダは明での貿易が認められなかったため、台湾島のタイオワン(大員)を拠点とした。平戸の李旦や、弟で長崎にいた華宇のように、朱印状を得ていた華僑もオランダと取り引きをした。オランダはタイオワンでゼーランディア城を建設するために日本向けの商品に10%の輸出税をかけようとするが、朱印船貿易の日本商人と対立してタイオワン事件が起きた。中国では明の滅亡後も遺臣を名乗る者がいて、その一人鄭芝竜は李旦から引き継いだ勢力を拡大して貿易や海賊対策を行い、清と戦うための援助を日本に要請した。鄭芝竜の子である鄭成功はタイオワンを占領して、鄭氏政権は福建と台湾の日本貿易を掌握した。しかし、台湾の輸出品である鹿皮や砂糖は大陸商品に押されて、次第に貿易は減少した[152]

江戸幕府の貿易政策

江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀

江戸幕府は3代将軍徳川家光の時代になると、「四つの口」を通じて貿易と出入国を管理した。四つの口とは、(1)オランダや中国と貿易する長崎出島、(2)朝鮮と貿易する対馬藩、(3)琉球と貿易する薩摩藩、(4)アイヌと貿易する松前藩を指した[153]。幕府は貿易に加えて正式な外交関係がある通信国と、貿易のみの貿商国を区別した。通信国は琉球王国や朝鮮であり、貿商国は明や、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)だった[154]

幕府は石高制をとっており、米を生産できない土地では経済規模を石高に換算して課税をした。大名は米を主に税金として集めたが、江戸時代は貨幣経済のために大名は不作時も豊作時も安定した換金が必要となり、大坂堂島米会所で世界初の先物取引が開始された。流通が発達する一方で、財政難のために不作の時期も大坂へ米を売る藩や、商品作物の栽培を食料よりも優先する藩があり、ときには藩内の飢餓にもつながった。上方から蝦夷地にかけては金沢藩西廻海運を整備して、年貢米の他に北方の物産の輸送も大量となる。19世紀の中期には江戸は100万人都市となり、京都と大阪は40万人都市となった[155]

貴金属の流出対策

江戸時代の日本は貴金属の輸出国であり、貴金属は他地域でも貨幣として流通した。輸入超過が続くうちに支払いによって国内の金、銀、銅が減少したため、さまざまな対策が取られた。元禄期と宝永期には荻原重秀貨幣改鋳を行って貴金属の含有量を減らし、正徳期の新井白石海舶互市新例で貿易量を制限した。明和期や天明期に田沼意次が政治の中心につくと海舶互市新例が緩和されて輸出が奨励された。日本の金銀比率が他地域と大きく異なっていたため、幕末には金の流出が深刻化した[156]

輸入代替

幕府は貴金属の流出対策として、輸入が多い品物の国内生産も試みた。現在は輸入代替と呼ばれる方法であり、8代将軍の徳川吉宗は砂糖や朝鮮人参の国内生産を成功させた。砂糖の輸入は室町時代から始まっており、16世紀以降の日常的な消費で急増し、幕府による正徳期の輸入制限430斤(約250トン)に対して、586斤(約327トン)以上の年もあった。砂糖は東南アジアから輸出されており、砂糖の輸入代替は、元禄期の農学者宮崎安貞が『農業全書』でも提案している。徳川吉宗はサトウキビの栽培と製糖技術の取得を命じて、長崎経由で中国の宋応星の技術書『天工開物』からローラー圧搾式の製糖技術を導入した。国内生産が進むにつれて、17世紀末には350斤から500斤だった輸入量は、18世紀から19世紀には150斤から260斤に低下した[157]

豪商の変化

近世初期の商人には、問、商人、朱印船貿易に属する者が多く、堺の今井宗久、京都の角倉了以茶屋四郎次郎、大坂の末吉孫左衛門淀屋常安、長崎の末次平蔵荒木宗太郎、博多の大賀宗九島井宗室などがいた[135]。貿易商は輸送から年貢請負などの手段を一手に持ち、領主から特権を受けた御用商人として軍需品や土木事業も手がけ、豪族的な性質や投機的な面もあった。やがて幕府の鎖国政策が進んで海外貿易が減少すると、初期の豪商は没落してゆき、より堅実な商業が主流となって商品ごとの問屋が整備された[158]

幕府は織豊政権の楽市・楽座政策を引き継いでおり、商人の同業組織を当初は認めていなかった。しかし、生糸の輸入を統制するために糸割符株仲間を認めて、茶屋四郎次郎が主導した。やがて株仲間は大坂の問屋をはじめとする商人の間で認められ、江戸へと広まった[159]

長崎貿易

長崎港図に描かれた出島及び唐人屋敷(左)。シイボルト著『NIPPON』より
復元された出島商館内部

長崎は幕府の直轄地であり、出島を建設してオランダ東インド会社や中国との貿易を行った。オランダ商館が平戸から移り、商館長はポルトガル時代の名称を引き継いでカピタンと呼ばれた。幕府はオランダに対してヨーロッパの情報を要求し、オランダ商館では毎年夏にオランダ船が着くと情報をまとめて幕府へ送った。これはオランダ風説書と呼ばれ、幕府のほぼ唯一のヨーロッパ情勢の情報源となった。のちのアヘン戦争や、アメリカが日本来航を計画している情報なども、オランダ風説書を通して幕府は知った[160]。清は台湾の鄭氏政権への対策として遷界令で中国沿岸の居住を禁止したが、やがて遷界令が廃止されて中国からの来航が増加する。幕府は中国人の居住地区として、唐人屋敷を建設した。唐人屋敷は、のちの長崎新地中華街へとつながる[161]

貴金属の輸出

オランダはポルトガルにならって中国産の生糸などを日本に輸出し、日本は金や銀で支払いをした。当時の日本には貴金属にかわる主要な輸出品がなかったために金銀の流出が続き、日本が銅の輸出に切り替えると、東インド会社は銅産出量が少ない安南に銅を送った。幕府は対策として、輸出が禁じられていた寛永通宝の流出を防ぐため、貿易用の長崎貿易銭を発行した。銀の輸出量は、17世紀前半の世界の産銀量42万キログラムのうち20万キロに達した。17世紀後半のバタヴィアでは、日本の小判が流通した。元禄時代になると、幕府は金銀の流出を止めるために定高貿易法で貿易に上限を設け、改鋳を行う。改鋳で貴金属の含有率が減り、取引国のオランダや中国から反発を受けた[150]

工芸品、食料品の輸出

明の末期の戦乱で中国からの陶磁器輸出が減少すると、オランダ商館長のツァハリアス・ヴァグナーは日本の陶磁器に注目した。ヴァグナーはヨーロッパ向けの製品を依頼して、伊万里焼は500万個以上が輸出されてインドネシア経由でオランダへ運ばれ、ヨーロッパ各国へ流通した。ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ポンマースフェルデンのヴァイセンシュタイン城ドイツ語版ミュンヘン・レジデンツハンプトンコート宮殿などに当時の伊万里焼が残されている[162][163]蒔絵漆器も箱や櫃が輸出され、マリー・アントワネットの机やナポレオン三世の棚にも用いられた[164]。調味料としては醤油1647年から10樽輸出され、醤油は東南アジア各地に年間数百樽が輸出されて華僑に好まれた。ヨーロッパには1737年から醤油が流通して、ディドロの『百科全書』にも項目が掲載されたが、高価なため次第に中国産の醤油に代わっていった[165]

日朝貿易

18世紀の釜山浦の草梁倭館図

16世紀になると三浦の乱や倭寇の影響で日朝関係は悪化し、貿易も減少した。倭館は豊臣秀吉による文禄・慶長の役が起きたため閉鎖され、江戸幕府になってからの己酉約条で、朝鮮王朝と対馬の宗氏との貿易が再開された。江戸幕府の成立後は、対馬藩が幕府の許可のもとで貿易を行なった[166]。朝鮮は日本との正式な国交がある通信国となり、貿易に加えて外交使節である朝鮮通信使も行われた[154]釜山には日本人が生活する倭館が建設され、敷地は10万坪、人口は400人から500人ほどだった。江戸時代から明治初期にかけては、倭館が唯一の公認の日本人町だった。朝鮮は中国産の生糸や、薬用として重宝された高麗人参を輸出して、日本は慶長丁銀で購入した。やがて日本は銀の不足によって、銀の含有率を低くした銀貨を用いるようになる。朝鮮では含有率が低い銀貨の受け取りを拒否して高麗人参の輸出が中止となり、幕府は対策として高麗人参専用の銀貨である人参代往古銀を発行した[166]

琉球貿易

秀吉による文禄・慶長の役ののち、家康は明との関係修復のために琉球王国に仲介を求める。琉球の尚寧王は家康を警戒したため、薩摩藩島津忠恒は琉球への出兵を検討する。家康は日明貿易の復活を目的として出兵を許可したが、島津氏は琉球の領有化のための出兵を目的とした。これには、当時の島津氏の財政が逼迫していた点も関係していた。明から冊封使の夏子陽中国語版が琉球に来た際、薩摩藩は明に対しては領内への商船渡航を求め、琉球に対しては明商船の中継を求めた。琉球は薩摩藩の要求にもとづいて、商船の琉球渡航や、三十六姓の再派遣を明に求めた。しかし明は三十六姓の再派遣には応じたものの、日本を警戒して商船は許可せず、朝貢も2年1回から10年1回に減らされた。こうして琉球は薩摩藩の要求に沿うことが不可能となり、薩摩軍は琉球侵攻をした。その後の琉球は、徳川の幕藩体制に含まれつつ、明との朝貢を維持する。商品作物として砂糖やウコンを大坂へ輸出して、その利益を朝貢へ投資した[167]。サトウキビの栽培と製糖美術は尚豊の時代に中国から導入し、琉球から奄美群島へと伝わり、奄美群島の砂糖は薩摩藩の財源になった[168]

アイヌと山丹貿易

蝦夷錦。山丹服とも呼ばれた清朝の官服。

アイヌと和人との交易は、16世紀に蠣崎氏のもとに独占される。蠣崎氏は夷狄の商舶往還の法度を制定し、松前に改姓して家康の許可を受けて、松前藩以外の和人とアイヌの交易を禁じた。北海道は道南の和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられて、松前藩の家臣は商場でアイヌと取り引きできる商場知行制を行なった[169]。17世前半の北海道は金の採掘や砂金の採取が盛んになり、当時のアイヌ総人口2万4千人を超える3万人以上の和人が各地から集まった。また、西廻航路を通る北前船によって魚介類や材木などの産物も送られた。商場知行制では松前藩が品物の交換レートを決定し、商場の和人が増加したためにアイヌの不満を呼び、シャクシャインの戦いが起きる。シャクシャインの戦いではアイヌ側につく金掘りもいたため、松前藩は和人の金掘りの渡航を禁止した[170]。長崎貿易向けの産物として干鮑と煎海鼠が幕府の管理下で推進され、アイヌも和人の米、酒、鉄製品へ依存するようになる。18世紀には商人が商場を運営する場所請負制となり、和人がアイヌに労働をさせた。アイヌが酷使される様子は平秩東作の『東遊記』などに記されている[155]

千島列島のアイヌは、北海道本島のアイヌと沈黙交易を行なっていたという記録が新井白石の『蝦夷志』や津村淙庵の『譚海』、ハインリヒ・フォン・シーボルトの『蝦夷見聞記』にある[171]樺太のアイヌは、山丹人とも呼ばれる大陸のニヴフウリチと貿易を行い、山丹交易とも呼ばれた。山丹側は清に朝貢をして得た絹織物や大陸の産物を輸出し、アイヌはクロテンをはじめとする毛皮や幕府から得た鉄製品を輸出した。取り引きにおいて日本や清の貨幣は用いられず、清の宮廷で重宝されていた樺太産のクロテンが価値尺度の貨幣としても通用した。山丹側の商品はクロテンの枚数で計算されたのちに、毛皮や鉄製品と交換された[172]。松前藩はアイヌに鍋やヤスリなどの鉄製品を支払って清の物産を入手して、清の絹織物は蝦夷錦と呼ばれて珍重され、松前藩は幕府への献上品や諸大名への贈り物とした[173]

通商の要求

18世紀後半から、オランダ以外の諸国も日本との貿易をはかるようになる。かつて平戸から撤退したイギリスはチャールズ2世が台湾に商館を開き、イギリス東インド会社は日本との貿易再開を計画する。イギリスとしては、貿易を禁止されたポルトガルと異なり朱印状を得ているので、再開が可能であると判断した。こうしてイギリスはリターン号を送ったが、幕府はイギリス国王であるチャールズ2世がポルトガル王女のカタリーナ王女と結婚している点を理由として、貿易の再開を禁じた[160]

北方からはロシアが日本との通商を求めた。ロシアは17世紀にアムール川、18世紀にはアラスカへ進出して、ラッコやオットセイの毛皮を輸出して清と毛皮貿易を行なった。ロシア軍のアダム・ラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を送り届けた際に、幕府は長崎入港を許可する信牌を与えた。ロシア側はこれを通商の許可と解釈して、露米会社の設立者でもあるニコライ・レザノフアレクサンドル1世の国書を持って長崎に来航する。しかし幕府側では、通信国や貿商国を増やさないという方針は変わらず、ロシアへの対応をめぐって林述斎と老中土井利厚が激論となった。結局、幕府は回答を半年延ばして国書を受け取らず、食料などの補給も不十分な状態でレザノフを退去させた。これがもとでロシア軍が南樺太や択捉島を攻撃するフヴォストフ事件が起きた[174]

開港と通商条約

安政五カ国条約

アメリカ合衆国からのマシュー・ペリー提督の来航と日米和親条約によって、幕府はアメリカに対して開港し、日本は万国公法に基づく欧米を中心とした国際秩序に組み込まれた。次に日米修好通商条約が締結されるが、この条約によると日本側に関税自主権が与えられず、協定関税制とされていた。一方で、外国人の行動範囲は外国人居留地を中心とした地域に限定され、外国人の内地雑居は認められなかった。開港されたのは、横浜港新潟港神戸港長崎港四港だった。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれて、安政五カ国条約とも呼ばれた[175]

開港直後の神戸港を描いた浮世絵(長谷川小信(二代貞信)作『摂州神戸海岸繁栄図』)

開港は日本各地の産業を大きく変化させてゆく。中国や太平洋の航路を使っていた欧米各国の汽船が迅速に来航して、イギリスのP&O、フランスのメサジェリ・マリティーム、アメリカのパシフィック・メイル社英語版など各社が進出して、長崎、横浜、函館などの港は上海、マルセイユ、サンフランシスコなどの航路網に連結された[20]。横浜を中心に貿易が拡大して、当初の日本は生糸を輸出し、織物を輸入した。生糸の輸出増は製糸業を発展させ、輸入品との競争によって衰退する地域も出た。流通面では株仲間を通さずに外国と取り引きをする商人が増え、幕府は重要な商品は江戸の問屋を通すように命じたが効果がなく、最終的には明治政府の商法大意によって営業の自由が認められる[176]

外国人の居留地には、外商と呼ばれる商人や商社が進出をした。居留地で取り引きをする日本人のうちで輸出をする者は売込商、輸入をする者は引取商と呼ばれた。通商条約が不平等条約であったため、外商は日本人に対して有利であり、日本人の事業に外国資本が進出する場合もあった。イギリスのジャーディン・マセソン商会は生糸、茶、綿布を扱い、オリエンタル・バンクは三井に100万円の融資をしている[177]

幕末の金流出

通商条約の締結によって諸外国の銀貨が日本国内で使用できることが定められた。当時の金と銀との交換比率は幕府によって1:5と定められていた。だがこの比率は諸外国にくらべて著しく金が割安であり、諸外国ではおおむね1:15の交換比率が成立していた。このため外国商人は日本へ銀を持ち込んで、金と交換し、上海などで再度銀と交換するだけで巨利を得ることができた。こうして大量の金が日本から流出した。幕府は金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めた。ところが、正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたことによって、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。この時期の日本貨幣と海外貨幣の交換比率の問題は幕末の通貨問題とも呼ばれる[156]

幕末の諸藩の貿易政策

江戸時代の後期になると豪商が増え、各藩では商業の中心で幕府の資金源である大坂を介在せずに取り引きをしようという動きや産業振興が行われた。徳島藩の藍、高松藩の砂糖、備前藩の陶磁器、秋田藩の絹織物など多くの藩が特産物の開発を試みていた。こうした試みが、開港後に有利に働いた藩もあった[178]

通商条約の締結後、藩の中には開港場に商社を設立して自藩の特産物や各地の産物を欧米へ輸出するところが現れた。開港場の商人が藩の商社を経営して、藩士が元締めをつとめた。輸出で得た利益は、軍艦、大砲、小銃など欧米の兵器や商船の輸入にあてられて、武器の輸入はアメリカのウォルシュ・ホール商会やイギリスのグラバー商会が行った。こうして諸藩は幕府に対抗する軍事力を蓄え、薩長土肥の4藩がその中心となる。商社担当の藩士は経済や国際情勢の知識を蓄えて、明治時代に大資本家となった五代友厚三菱財閥を創業した岩崎弥太郎、明治政府の財政で働いた由利公正のような人物を生む。五代友厚は、攘夷より開国交易を重視して上海への輸出を提唱した。しかし、各藩の商社の規模では、特産物の生産増や輸出奨励は不可能であり、明治政府によって実現された[179]

近代

江戸幕府から政権を奪取した明治政府が直面した貿易面の課題は、外貨獲得と条約改正であった。明治政府は公称800万石の幕府の財政を引き継いだが、公称で合計3200万石を持つ約300の諸藩は財政や軍事が独立していたため、分割されていた経済力を廃藩置県によって中央集権化した。明治政府は富国強兵を目標としたが、富国と強兵のどちらを優先するかをめぐって対立が起きる。富国を優先する側は殖産興業を目標とした[180]

産業革命と殖産興業

工部省

産業革命以後の世界は工業製品の貿易が急増しており、欧米の事情を調査するための岩倉使節団に参加した大久保利通は、日本の工業化のためにイギリスの工場や機械を視察する。大久保は国力の基準として輸出入統計を重視し、政府による殖産興業の必要性を主張した。政府は工部省を設置して、技術導入のためにお雇い外国人の多数採用、官営工場の建設など産業振興と産業インフラ整備の事業を推進した。しかし、台湾出兵における占領や、内戦である西南戦争の戦費、そして松方財政のもたらした緊縮財政とデフレによって積極財政は中止される。殖産興業政策は1876年(明治9年)から1880年(明治13年)までで終了した[180]

不平等条約と条約改正

外商の取扱の比率は1880年に輸出80%、輸入93%であり、1890年に輸出89%、輸入75%となり日本側の取扱比率は上昇した。しかし依然として外商が主導しており、日本側としては輸出増加が目標だった。横浜の外商は生糸売込商への代金支払いの遅延や契約の破棄が重なり、売込商が連合生糸荷預所を設立して外商と対立する連合生糸荷預所事件が起きた。不平等条約の改正は、イギリスとの日英通商航海条約によって関税自主権の一部回復や最恵国待遇の相互化が実現し、これをきっかけに他の14カ国とも改正が進んだ。関税自主権の完全回復は、日米通商航海条約の改正で達成された[181]

企業の勃興

殖産興業政策は短期間で終了したが、1880年代以降の産業発展の下地を作った。1882年(明治15年)から1891年(明治24年)を100とした場合、1902年(明治35年)から1911年(明治44年)には日本の輸出は418で輸入は488まで拡大をしている。貿易額の対GNP比率は、企業勃興期には14%、日清戦争後は21%、日露戦争後は25%と急増した。貿易額は増加を続けつつも、貿易収支では赤字が続き、外資導入などの対策が不可欠だった[182]

繊維工業
富岡製糸場で使用されていたフランス式繰糸機(岡谷蚕糸博物館蔵、レプリカ)

日清戦争までの工業化の中心は軽工業であり、中で製糸業や紡績業などの繊維工業だった。生糸は明治初年から生産量の60%から70%を輸出し、フランスから技術を導入して官営の富岡製糸場を建設する。こうして生糸は1870年から1880年(明治13年)の輸出総額の約30%となり、1886年(明治19年)から日清戦争が起きるまでは繊維工業が年15.4%の急成長をした。綿紡績業は開国後に輸入品が増えて伝統的な綿糸生産は衰退したが、大阪紡績の成功によって紡績会社が増え、1897年(明治30年)には輸出量が輸入量を上回った。大阪紡績の成功には、第一銀行渋沢栄一の投資が影響していた[183]

運送業

鉄道は官営によって進められ、海運は政府の保護を受けつつ民間資本によって成長した。開国から明治初年までは貿易や沿岸の流通を外国船が行なっており、政府は台湾出兵の軍事輸送のため三菱会社を支援した。日清戦争後に海運業は急成長して汽船トン数が増加し、三菱と共同運輸会社の合併で設立された日本郵船はアジア、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアへの遠洋航路を開拓し、大阪商船東洋汽船も続いた。日露戦争後にさらに大規模な拡大が繰り返された[184]

造船業

明治政府は幕営や藩営の工場を接収して軍工場と民間工場に分けた。石川島造船所三菱長崎造船所川崎造船所などが官営工場の払い下げを受けた。日清戦争時に造船能力の低さが問題視され、政府は造船奨励法航海奨励法を制定して造船業の育成政策をとる。日露戦争後には国内建造が輸入を上回った[185]

製鉄業
官営八幡製鉄所

官営から払い下げられた釜石製鉄所が日清戦争前から製鉄を行なっていたが小規模であり、官営の八幡製鉄所によって生産量が増えた。しかし補助金等による政府の育成政策にもかかわらず、第一次世界大戦までは国際競争力がなかった[186]

総合商社

明治時代の後期から、多様な商品を取り扱う総合商社が出現する。総合商社が出現した原因は、(1)先進国との競争で大規模な商社が必要とされた点、(2)外国為替取引などの補助業務が未発達であり自営が必要だった点、(3)大規模な商品取引が必要だが大量に輸出入できる商品がなかった点、などの説がある[187]。それぞれの商社は、幕末の動乱、廃藩置県、内戦、国際緊張などを機会として成長した。江戸時代から続いていた豪商の三井家は明治政府を支持して小野家島田家とともに明治政府の会計事務局為替方となり、倒産の危機に見舞われつつ三井越後屋呉服店の他に三井物産三井銀行など多角化を進めた。三井物産は当初は政府の御用商品を扱い、のちに石炭、繊維、生糸を輸出して各国に支店を設置して三角貿易も行った。岩崎弥太郎は土佐藩の経営から分離された九十九商会から三菱商会を創業し、海運業で政府の助成を受けて江華島事件や西南戦争によって利益を得た[188]

日清戦争と日露戦争

アヘン戦争にともなう南京条約によって、はヨーロッパ諸国と香港島の割譲、5港の開港、貿易自由化が決定して不平等条約にもつながった。財政難となった清は朝貢国に対して朝貢の増量を求め、回賜には紙幣を用いたために朝貢国の利益が減り、私貿易の増加もあって朝貢は衰退した。南京条約の影響で上海香港が成長し、最大の貿易港となった上海の貿易商は、欧米諸国と取り引きする西洋荘、日本と取り引きをする東洋荘、東南アジアと取り引きをする南洋荘に分かれた[189]

日清戦争と朝鮮の植民地化

李氏朝鮮の貿易をめぐって、日本と清が対立した。日本は江華島事件をきっかけとして日朝修好条規を結び、倭館の敷地を引き継いで日本人居留地を建設し、朝鮮は釜山港元山港仁川港を開港した。日朝修好条規は日本側に有利な不平等条約の面を持っており、日本の対朝鮮貿易は拡大する[190]。さらに日朝通商章程を結び、甲申事変の後は政治的進出が後退する一方で、経済的進出を活発にした。1885年(明治18年)から1893年(明治26年)まで朝鮮からの輸出総額の90%以上は日本向けで、対日輸出は米や大豆などの穀物が中心となる。日本の業者は朝鮮商人の客商に資金を提供して穀物を買い集め、朝鮮では米不足と米価高騰が起きて生活を圧迫した。朝鮮の地方政府は食糧問題を解決するために日朝通商章程で承認されていた防穀令を発令して穀物の域外搬出を禁じる。しかし前貸で穀物を買い付けていた日本の業者は、域外搬出禁止に対する損害賠償を求めて紛争となった[191]日清戦争で清が敗北すると、朝鮮は清への朝貢を終え、日本は朝鮮の植民地化を進める。朝鮮の輸出の80%から90%、輸入の60%から70%が日本向けとなった[192]

日露戦争と満州への進出

日本は朝鮮の次に満州へと進出する。日本は清との間に不平等条約である日清追加通商航海条約などを結ぶが、義和団の乱をきっかけに満州を占領していたロシア帝国と対立し、日露戦争が起きた[192]。日露戦争の勝利で日本の国際的な信用が高まり、外債の発行が容易になる。日本政府は重工業化を進めており、外資はこれに有利に働いた[193]

金本位制への移行

日清戦争で日本が得た賠償金は3億6千万円にのぼり、1895年(明治28年)の日本のGNPの20%以上に相当する。日本はこの賠償金をもとに金本位制に移行した。金本位制では、各国の通貨は金との交換比率が決められており、通貨量は各国が保有する金の保有量に制約される。貿易黒字国ではインフレ圧力が高まって輸入の増加と輸出の減少が起き、貿易赤字国ではデフレ圧力がかかって輸出の増加と輸入の減少が起きて、輸出入による自動調整が作用すると期待されていた。各国の為替レートは金を通じて安定するため、外貨の調達が容易となり、日本の金本位制は第一次世界大戦まで続いた[193]。金本位制によって不利となったのは、輸出産業だった。日本は松方財政の時代から銀本位制をとっており、金銀比価の下落によって金本位制国への輸出が伸びていたが、金本位制移行で不況を迎える[194]

大戦景気と産業の変化

東京名所錦絵東京停車場之前景』(1919年)

第一次世界大戦が起きると各国は金本位制から離脱し、日本も離脱した。金本位制離脱の原因は、通貨供給量が各国の金保有に制約されるので多額の戦費を調達できなかったためである。ヨーロッパは軍需生産を優先してアジア市場が供給不足となり、日本は繊維製品や雑貨の輸出の増加によって経済成長をした[195]。1914年から1918年にかけての輸出額は7億3000万円から20億3000万円に増加して輸出超過額は14億円となり、輸出増によって船成金と呼ばれる資産家が多数出現した。貿易外収支では、船舶の不足による運賃や傭船料、海上保険料などの上昇で約14億円の受取超過となり、合計で28億円の正貨が流入して対外債務が減少する[196]。経済成長率は大戦前の2.08%から7.9%に上昇し、経常収支黒字はGNP比で6%から7%に達した。経常収支黒字により日本は累積債務を解消して債権国となり、大戦景気と呼ばれた[195]

大戦景気は産業構造を変えて、日本は農業国から工業国へと移行した。輸出面では、輸出と海運業の好況が造船業や鉄鋼業をはじめとする関連産業にも影響した。輸入面では、外国からの輸入減少による内需拡大が、国内の重化学工業にとって成長の機会となった[197]。海外事業では商社の設立が急増して外商のシェアは低下し、商品の多様化と取引地域の拡大が進む。三井物産は1914年の輸入取引の27.3%、輸出取引の23.9%を占めており、総合商社のモデルとなった。日本の有力な商社はニューヨーク、ロンドン、ボンベイ、上海などに進出し、1920年の恐慌まで事業を展開した[198]。1920年代には、三井物産の他に鈴木商店、三菱商事が総合商社として確立し、岩井商店大倉商事などがこれに続いた[199]

大戦後にはバブル景気によって輸入超過となり、やがてバブルの崩壊で戦後恐慌が起きて株価は42%、物価は21%、地価は16%低下した。ヨーロッパのアジア市場への復帰に加えて、中国をはじめとして他のアジア諸国でも生産が向上して国際競争が激しくなった[195]。加えて関東大震災の被害や、外国製品の輸入再開も重なって不況が深刻化し、大戦景気の成金の多くは没落した。企業倒産と企業合併が急増したため、大企業によるカルテルが形成され、特に三井三菱住友安田財閥による支配が強化された[200]

東南アジアと南洋諸島

岩倉使節団よりも数年早い時期に、からゆきさんと呼ばれた日本女性が東南アジアへ渡っている。からゆきさんの出身地は九州の海岸沿いが多く、特に天草や島原など海外との貿易港があった長崎に近い地域が多かった。当時の海運では蒸気船の燃料となる石炭の補給が重要であり、九州で炭鉱開発と石炭輸出が急増した事情も、からゆきさんの渡航に関係している。近代初期の東南アジア貿易では、神戸の南京町の華商が中心となった。神戸には最大の在日華僑の商人グループがあり、福建出身の華商はフィリピンの福建商人と取り引きをして、広東出身の華商はオランダ領東インドやシンガポールの広東商人と取り引きをした。日本からはスルメ、イリコ、アワビなどの海産物や繊維製品が輸出された[201]

サイパン島で運行されていた「シュガートレイン」

第一次大戦時の輸出増加と、旧ドイツ領だった南洋諸島の委任統治が、東南アジア南洋諸島への進出のきっかけとなった。第一次大戦前までの東南アジアの在留日本人は女性人口が多かったが、貿易の増加によって逆転する。東南アジアへの輸出は大戦勃発の1914年(大正3年)から大戦後の1925年(大正14年)までに8倍となり、幕末から論じられていた南進論を後押しした。東南アジアという地理概念の一般化は欧米より早く、1919年(大正8年)の小学校地理の国定教科書にも「東南アジヤ」の説明がある。ただし、その記述はインドネシアの米、マレー半島のゴム、ジャワの砂糖、ボルネオやスマトラの石油、フィリピンのマニラ麻など全て資源と貿易で占められていた[202]

フィリピンには1904年頃から日本人の移住が始まり、ダバオプランテーションアバカ麻を栽培した。麻は船舶用ロープや和紙、和服になり、第一次大戦で需要が急増して高騰した。フィリピン群島政府英語版は公有地法の改正で日本人の土地取得を制限したが、日本側はパキアオという伝統的な土地経営を用いて農園を拡大した。しかしダバオにはバゴボ族英語版をはじめとする先住民がいたため、対立によって日本人の殺害も相次いだ[203]。パキアオはスペイン統治時代のサトウキビ農園のアシエンダから発達した制度で、日本撤退後のバナナ農場にも同様の手法が用いられた[204]

大量生産の萌芽

日本の製造業の成長にともなって外国からの直接投資や技術提携が増加した。戦間期の技術提携にはウェスチングハウス三菱電機ゼネラルエレクトリック東芝ジーメンス富士電機デッカー東洋電機などがある[205]

アメリカの製造業の大企業化は、大量生産の規格化や、中間生産物や最終消費財など分業の利益を世界規模で広めた。1920年代にアメリカのフォードゼネラル・モーターズは日本にアセンブリー工場を創業し、日本の製造業にも影響を与える。豊田自動織機のチャールズ・フランシス、日産自動車のウィリアム・ゴーラム、芝浦製作所のアルフレッド・ワーレンなどは生産技術の向上や工場建設などで貢献した。次第に機械工業の発展が進み、軍需品のためのメーカーは増えたが、アメリカ式の大量生産方式が全国的に普及するのは第二次世界大戦後までかかることになった[34]

満蒙と在華紡

満蒙
満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)

日本は天然資源を確保するために、朝鮮に続いて満蒙と呼ばれた満州内蒙古への進出をはかり、日露戦争後のポーツマス条約旅順大連の租借権と東清鉄道の南満州支線を引き継いだ。国策会社として半官半民の南満州鉄道会社(満鉄)が設立され、ロシアとの日露協約によって満州の鉄道と電信の敷設権を分け合う。満鉄は昭和製鋼所などの製鉄、鉄鉱や炭鉱、ヤマトホテルなどの宿泊施設、さらにインフラストラクチャーも建設した。満州への投資は1920年代までは鉱業と運輸が中心であり、やがて石炭や大豆の生産が増えて満州への移民や交易が増加した[33]

在華紡

第一次大戦後の国際競争の変化によって、中国の民族紡績業が発展して、日本は輸出用綿糸の主な市場だった中国を失う。代わりとして、第一次大戦中に資本を蓄積した日本の紡績会社は中国へ直接投資を始めて、紡績工場を経営する在華紡が増える。日本国内の賃金上昇と、女子と児童労働の深夜勤務禁止という労働環境の変化も直接投資を後押しした。1920年代に鐘淵紡績東洋紡績大日本紡績上海青島を中心に在華紡として進出をして、1925年(大正14年)には中国資本の50%以上に達した。しかし労働条件をめぐって労働争議が起き、在華紡の工員によるストライキが発端となって上海で五・三〇事件が起きた[32]

アヘン貿易

日本は植民地や占領地での資金調達のためにアヘン貿易を行った。きっかけは日清戦争後の台湾の領有である。台湾統治では財政赤字が予想されたために、内地と同じく薬用として専売する方針をとり、アヘン専売を提案した後藤新平は台湾の民政長官となった。明治29年度の台湾総督府の歳入668万円のうちアヘン収入は355万円であり、初期の台湾総督府の財政を支えた。台湾での成功によって、アヘン専売はその後の日本の植民地でも採用されるようになる[206]

日露戦争後には、満州をはじめとする財政基盤の弱い地域ではケシの栽培やアヘン密売が拡大する[207]。イギリスがアヘン貿易を減らす一方で日本が市場に参入して、ペルシアやトルコ産のアヘンを上海に密輸したり、モルヒネを世界各地から輸入して自由港の大連から関東州へ密輸した。アヘンの密輸には鈴木商店昭和通商など日本の商社も関わった。やがてモルヒネ製造の国産が開始されて、日本政府や朝鮮総督府が原料のアヘンを払い下げて、日本の製薬会社がモルヒネを製造した[208]。満州国は阿片法で専売をすすめ、満州国の一般会計の10%以上はアヘンからの税収となる。通貨価値が下落した占領地では、アヘンが通貨の代わりとなった[209]

世界恐慌

1928年(昭和3年)には南京国民政府が中国の全国統一を果たし、不平等条約の改訂を宣言して日清通商航海条約を廃棄し、日本の満蒙進出と対立する。当時の日本の政策としては、(1)植民地の放棄と貿易の振興、(2)金本位制への早期復帰と国際協調主義、(3)対外膨張と自立的な経済圏の構築などの選択肢があり、論争も行われた。中国との対立が深まるなかで世界恐慌が起き、日本は金輸出解禁を行なって金本位制に復帰するが、前年から続いていた世界恐慌の影響で昭和恐慌を招いてしまう[210]1931年(昭和6年)には農村を中心として「娘地獄」と呼ばれるほど身売りが多発し、労働争議は戦前期で最高となり、東京帝国大学法学部生の就職率は26%、自殺率は死因統計開始以来の最高となった[211]

恐慌対策として、犬養毅内閣のもとで高橋是清蔵相が金本位制離脱と財政政策をとる。金本位制の離脱によって為替レートが低下して輸出が拡大し、財政支出の拡大により有効需要を追加して景気回復をとげた。しかし、五・一五事件により犬養毅首相は暗殺され、二・二六事件では景気回復を優先して軍事予算を削減した高橋が暗殺された[212]上海事変の影響もあって、日系資本の労使対立は日中の国策とも結びついて激化する。自由貿易を支持する在華紡系の軽工業の資本家は、軍事進出を支持する満鉄系の重化学工業の資本家よりも劣位となった[213]

満州国

満蒙では、満州事変に続いて、傀儡政権である満州国が建国され、対外膨張政策が続く。恐慌後に経済が停滞をしていた日本では、満州国の建国が歓迎された。獅子文六の小説『大番』は、相場師を主人公として満州事変を歓迎する当時の世相を反映しており、小津安二郎監督の映画『大学は出たけれど』にも昭和初期の不況が描かれている。そうした状況のために満州への期待が高まる一方で、満州では現地の中国人からの強制買収で農地を確保しており、日系官僚が計画経済を進めて日本への従属が進んだ。国策として満蒙開拓移民も行われ、約27万人が不況の日本から満州を目指した。石油の生産や重化学工業化も進められ、満州の鉱工業をまとめるために満州重工業開発も設立されたが、満州国と中国の貿易は減少して、アメリカやイギリスの対日政策にも影響した。日本人以外による強制労働が1938年(昭和13年)以降には毎年250万人にのぼり、日本への穀物輸出は1936年(昭和11年)以降の合計で3662万トンに達したが、厳しい統制によって現地の農村では飢餓と物不足が深刻となった[214]

貿易摩擦

世界恐慌が起きると、東南アジア貿易ではイギリス、オランダ、アメリカ、日本のシェア争いが激しくなった。金輸出の再禁止によって日本が繊維製品のシェアを伸ばすが、貿易摩擦の原因にもなった。日本とイギリスは日英会商を開くが、イギリスは輸入割当を開始した。日本とオランダの日蘭会商では、日本代表団の声明が反感を呼んで頓挫する。フィリピンでは日本とアメリカの貿易摩擦となり、日米紳士協定によって対策が取られた。こうした経済摩擦は満州事変の影響もあって、日本に対する悪感情を招いた[215]。ダバオには東南アジア最大の日本人社会が形成され、フィリピン・コモンウェルスやアメリカは、日本の進出が満州に似ているとして警戒した[203]

統制経済と第二次世界大戦

経済ブロック

軍事用途や海運にあてられる重要な資源として、石油があった。石油輸入の60%はライジングサン石油株式會社スタンダード・バキューム・オイル英語版の2社だったが、満州事変後の日本は外国企業への依存を減らすために石油業法を制定する。この法律によって石油の輸入規制や特定企業への割り当て、価格統制、政府による強制買い上げの権利、外国企業の6ヶ月備蓄の義務が決定した。満州では石油会社が設立されて欧米企業の排除が進み、イギリスとアメリカでは対日禁輸が提案されるようになる。盧溝橋事件後に日中戦争となり、日本は日満支経済ブロックを形成する。このブロックは台湾朝鮮を含む大日本帝国、満州国、蒙古聯合自治政府の蒙疆地区、傀儡政権である汪兆銘政権の中華民国で構成された。日本は天然資源を確保するために満州へ進出したが、資源不足は解消されず、軍需品のための外資も不足する。そのため、さらに石油やゴムなどの資源を産出する地域を求めるという悪循環に陥った。1930年代後半の日本の石油生産は国内消費の7%であり、90%以上をアメリカとオランダ領東インドから輸入していた。アメリカの門戸開放政策は当時の日本の政策と相入れないために、日米は対立する[216]

第二次世界大戦
南進論実行時のアジア(1937-42年)

ドイツがベルギー、オランダ、フランスに進軍すると、日本はイギリスに亡命したオランダ政府に対して石油輸出の増加を要請する。さらに、日本は以前から国内で主張されていた南進論を政策として実施して、仏領インドシナ仏印進駐によって占領する。欧米の植民地への武力進出によってイギリスやアメリカとの対立が深まり、フランクリン・ルーズベルト政権は日本が製鉄原料として約50%をアメリカから輸入していた屑鉄の禁輸を行なった。続けてアメリカは日本の在米資産を凍結し、事実上の石油の禁輸となった[217]。独ソ開戦とアメリカやイギリスの経済制裁によって貿易で資源を獲得する道が閉ざされて日本は計画経済を強め、太平洋戦争となった。1937年(昭和12年)から1944年(昭和19年)まで実質GNPはほぼ一定で経済成長が停止した。日本は19世紀末から1930年代まで貿易依存度は高水準にあったが、輸入に依存しない経済政策のために戦争末期には2%から3%まで低下していた[218]

現代

戦後復興

Made in Occupied Japan(「占領下日本製」)と記された日本製品。1947年2月のSCAP指令で輸出品に表示が義務付けられた。

1945年(昭和20年)8月の終戦時は、原材料の不足によって生産が低下しており、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が貿易を管理して日本は戦時下以上の自給自足体制におかれた。貿易は日本の貿易庁とGHQの仲介で行われた。輸出では貿易庁が日本の公定価格で買い上げた品をGHQに渡し、GHQが国際価格で海外にドルで売った。輸入ではGHQが国際価格のドルで購入した品を貿易庁に渡し、貿易庁が日本の業者に公定価格で売った。この方法では為替レートがなく、個々の取引ごとに円とドルの換算比率が決まっていた。そのため輸出と輸入の為替レートが異なり、事実上の輸入補助と輸出補助に相当する効果を国内業者に与え、国内価格を国際価格から分離していた[219]

やがて対外取引を占領軍から日本政府へ移譲するために、外国為替及び外国貿易管理法(外為法)が公布された。外為法の作成は、GHQとIMFの関係者と日本政府委員の共同作業で行われ、主な目的は外国為替と外国貿易の管理だった。アメリカは外為法によって国際収支の均衡化を日本に求めたが、日本政府は輸入制限や外国技術の導入による国内産業の育成に活用した[220]。外資については、日米合同審議会によって外資に関する法律(外資法)が作成された。目的は外資の導入促進であり、当時の先進国としては異例な外資の優遇措置を行った。これにより電力・鉄鋼業の外資借款や外国技術の導入が始まった[221]

アメリカの対日政策

アメリカとソビエト連邦の対立によって、世界は東西陣営に分かれて冷戦となり、アメリカ国務省極東局は日本・アメリカ・東南アジアの三角貿易による日本の復興を提案した。この提案は、東南アジアが原料供給地となり、日本が製造した製品をアメリカ市場に輸出するというものであり、共産党が統一した中国に依存せずに日本が復興する方法として考えられた[222]ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア陸軍次官の調査団が公表したジョンストン報告書では、日本の貿易拡大の必要、為替レートの正常化、民間への貿易の移行が提言された[223]

日本経済の安定のために、アメリカ政府は公使としてジョゼフ・ドッジを派遣する。ドッジは1949年度予算を黒字化し、4月に単一為替レートを設定した。このドッジラインによって輸出と輸入の為替レートは一致して財政収支が均衡したほか、問題になっていたヤミ価格と公定価格の差もなくなった[224]。民間の輸出は再開されていたが、外為法では国外での経済取引は原則禁止で、許認可を受けた例外のみ認められた[28]1946年(昭和21年)の実質GNPは1944年の56%まで低下していたが、1950年(昭和25年)には実質GNPが戦前の水準まで回復し、朝鮮戦争にともなう朝鮮特需をへて1955年(昭和30年)には戦前の1.5倍となった[223]

朝鮮特需

朝鮮戦争によって、日本経済は1000億円から1500億円といわれる影響を受けた。輸出は戦争の2-3ヶ月前から増加して、繊維品、鉄鋼、機械製品が中心となった。生産拡大は原料不足、輸入増、資金不足や価格上昇を起こしたものの、特需によって貿易は持続した。特需は、米軍や国連軍関連機関が物資の調達をドル払いで行うという特徴があり、厳密には国際収支の輸出入ではなく政府取引の軍関係の購入という扱いになる。特需は1953年に8億320万ドル、1954年も6億ドルという大規模なもので、外貨収入のうち特需の割合は1951年に26.4%、1952年は36.8%、1953年は38.2%にのぼり、日本の外貨不足を補った。休戦後も朝鮮半島の対立によって特需が継続し、輸出や特需の関連産業では利潤率も上がった。利益を得た反面、特需に依存する日本の経済力の脆弱さも明らかとなり、日本政府と財界は重化学工業を貿易の中心とするための合理化投資を進める[225]。1955年以降に活発となる外国技術の導入において、朝鮮戦争下で蓄積された外貨が用いられた[226]

国際機関への加盟

国際通貨基金

第二次世界大戦の原因となった保護貿易に対する反省から、自由貿易を推進するための国際組織が求められるようになる。連合国通貨金融会議のブレトン・ウッズ協定によって国際通貨基金(IMF)が創設され、加盟国は自国の通貨をドルに対して平価を設定することになった。日本がIMFに加盟した際には、1ドル=360円のIMF平価が設定されて、上下1%の枠内で安定化させる義務を負った。この平価は、リチャード・ニクソン政権によるドルの金兌換停止(ニクソン・ショック)まで続く[227]

関税及び貿易に関する一般協定

公正な貿易のための国際貿易機構(ITO)も提案されたが断念され、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)が発足して、日本も加盟する。当時の日本の主な輸出品は繊維品、主な輸入品は食料と繊維品の原料だった。日本の加盟にはアメリカの支援が影響していたが、日本の輸出の影響を懸念した国々はGATT35条によって最恵国待遇の義務を免除された。対日の35条の適用国が0になるのは、1992年(平成4年)までかかった[28]

GATTの多角的貿易交渉では、輸入自由化と関税率の引き下げが進んだ。東京ラウンドでは、工業製品の関税率が引き下げられたほか、非関税障壁についての交渉も含まれた。ウルグアイ・ラウンドでは農業問題や知的所有権について対立があり、日本はそれまで民間の輸入を事実上禁止していた米の輸入が自由化された。日本が輸入する農産物には高い関税率や関税割当制が適用された[228]

民間交流と貿易

戦後に国交が再開していない国家との間では、民間貿易が先行する場合があった。吉田茂内閣サンフランシスコ講和条約を結び、ハリー・トルーマン政権は日本に対して中華人民共和国との国交を結ばないように求める。また、アメリカが主導する対共産圏輸出統制委員会(COCOM)や対中国輸出統制委員会(CHINCOM)によって共産圏との貿易が制限された。正常な国交がない日中間では、中国側は政府と人民を区別する「以民促官」の方針をとり、民間貿易による交流が再開された。第一次日中民間貿易協定が結ばれ、日中貿易の促進団体も設立された。第三次日中民間貿易協定の時代に交流は活発になり、中華人民共和国初の中国商品の見本市が東京と大阪で開催され、北京と上海で日本商品の見本市が開催された[27]

長崎国旗事件で日中は断交して貿易が減少するが、天津甘栗生漆漢方薬など代替の商品を求めることができない物は、配慮物資として供給するという形式で日本へ運ばれた[229]。中国は大躍進政策の失敗とソ連との関係悪化の影響もあり、貿易の方針を変更する。こうして周恩来首相の周四原則に基づいて日中の貿易も再開された。これは友好貿易と呼ばれ、中国政府の方針を受け入れた日本の商社が広州市で取り引きをした。さらに半官半民の貿易としてLT貿易も行われた。LTとは、中国共産党の知日派である廖承志と、周恩来との信頼関係にあった高碕達之助の頭文字に由来する。中国は石炭や鉄鉱石を輸出し、日本は鉄鋼、化学品、プラントなどの機械を輸出した[230]

技術導入と技術貿易

1950年代から外国からの技術導入が進み、特に1957年から1972年まで機械工業や化学工業を中心に急増した。技術導入は政府の産業育成策として進められ、外為法による外貨集中と外貨予算・外貨割当制が活用された。外貨割当制によって重要な技術や機械の輸入で外貨を優先的に使い、一方で競合製品の輸入を制限して産業の保護と育成をした。外為法による競合製品の輸入制限は、保護関税よりも有効であり、国産化を短期間で確立する役割を果たした。この外貨予算制度はIMFの8条国に移行する1964年まで続いた[231]。技術貿易における輸出額と輸入額の収支比率は、1970年度は0.14であり、1975年度には0.23、1985年度は0.30、1995年度は0.65と増加して2002年度には1.01で技術輸出額が上回った[232]

物流においては、コンテナの導入が大きな影響を与えた。1961年(昭和36年)に国際標準化機構(ISO)によってコンテナの国際規格が決定し、日本でもコンテナの利用によるインターモーダル輸送が普及する。日本とアメリカ西海岸の間のコンテナ船は積載率が高く、ベトナム戦争によって後押しされた。シーランド社英語版のコンテナ船はベトナム戦争の物資を輸送してから日本に寄港し、日本からの輸出製品をアメリカへと運んだ[22]

高度成長期

ベトナム戦争

アメリカのベトナム共和国(南ベトナム)への介入によって勃発したベトナム戦争は、結果的に日本の経済成長と関連した。1964年頃からの輸出拡大はベトナムの周辺地域とアメリカに向けてのものであり、1966年には輸出増加額のうち80%近くはベトナム周辺とアメリカ向けとなった。ここでのベトナム周辺地域とはアメリカが対外軍事支出や援助を行なった韓国、台湾、香港、タイ、フィリピン、南ベトナムなどである。日本はベトナム周辺地域に機械機器と鉄鋼を中心に輸出し、ベトナム周辺地域では1960年代後半に対日貿易収支で大幅赤字があったが、日本からの輸入を継続できたのはアメリカの対外軍事支出による。加えてベトナム周辺地域は日本から輸入した工業製品や金属製品によって工業化を進めて、のちの新興工業経済地域の発展の一因にもなった[233]。日本の重化学工業企業は、ベトナム戦争拡大の見通しによって大型化の設備投資を行った。鉄鋼業における高炉の大型化、電力業における火力発電設備の大型化、造船業における大型ドック、石油精製業における巨大プラント、自動車産業における大衆車の量産などがこの時期に進められた[234]

大量生産の確立
1950年からの各国の自動車生産台数推移(千台)

鉄鋼業においては、日本はそれまでの平炉からヨーロッパで開発された転炉へと転換して生産を伸ばした。これによって平炉を続けるアメリカの30%ほどのコスト安を達成して、低価格で良質の鉄鋼を輸出しつつ、鉱物資源では鉄鉱石、石炭、コークスを輸出した[235]。カメラやTV、オーディオなどの家電製品は1960年代から高く評価された。自動車産業においては、1970年代に排出ガスや騒音の対策が進んで最も厳しい規制基準を満たすようになった。加えて溶接工程から順次ロボットの導入を進めて品質を安定させる。第一次オイルショックによる原油価格の上昇も、日本製の小型車の輸出を後押しして、1980年には年間1000万台を生産して自動車製造国で世界第1位となった[236]

黒字基調
神武景気のテレビ

日本の通貨であるは、戦後復興期の貿易の決済では輸出入ともに1%以下のみ使われていた。そのため好景気により輸入が増えると、輸入に必要な外貨が不足するので経常収支の赤字を続けることができない。政府は経常収支の均衡の維持を目的に、経常収支が赤字になると金利を引き上げて輸入を抑制する金融政策をとった。そのため、神武景気岩戸景気でも金利を引き上げて好景気は終息した。1960年代の後半からは貿易収支が黒字基調になり、戦後最長の景気拡大期間であるいざなぎ景気をへて、貿易収支のための金利の引き上げは終了した[237]。黒字基調になった原因としては、世界的な貿易自由化や関税率の引き下げと、金属製品や機械に対する輸入需要の高まり、日本の輸出品の国際競争力の向上がある。日本は需要に対応した輸出を行っており、加えて所得水準が上昇しても輸入依存度が停滞したためだった[238][239]

貿易摩擦

ブレトン・ウッズ体制のもとで、アメリカを中心とする西側諸国の貿易は1960年代まで安定して発展した。しかし、国際競争が激しくなるにつれてアメリカの主要産業はシェアが低下して外交問題になった。

アメリカとの貿易摩擦

日本の輸出額が大きい国との間で貿易摩擦が起き、特にアメリカとの日米貿易摩擦が増加した。1950年代には繊維、1960年代には鉄鋼や家電、1970年代には工作機械、1980年代には自動車や半導体が問題となった。日本は輸出自主規制英語版、アメリカは輸入割当で対応して、繊維や鉄鋼の対米輸出自主規制、最低価格輸入制度、自動車の輸出自主規制、工作機械の輸出自主規制、アメリカの国別輸入割当が実施された。日本の輸入に関しては、1970年代の牛肉やオレンジ、1980年代の半導体、米、スーパーコンピュータ、1990年代のフィルム・印画紙などが問題とされた。

中国との貿易摩擦

中国では鄧小平の改革開放政策により、それまで国営企業に独占されていた貿易に新規参入が可能となり、輸出入割当や許可制度による貿易の管理が始まった。日中長期貿易が取り決められ、中国は一次産品を輸出し、日本は工業製品を輸出した。深圳珠海汕頭厦門には経済特区が設置されて、加工貿易や海外直接投資が解禁される。1980年代半ばに日本の貿易黒字が拡大して、中国は自動車や家電製品の輸入抑制とともに貿易不均衡の是正を求める。日本は中国からの輸入拡大によって対応し、1986年(昭和61年)から大手商社は輸入拡大と中国の工業製品の品質や開発をサポートした。日中間の主力産業が競合していなかったため、1990年代に中国の工業製品を日本が輸入するまで深刻な対立は起きなかった[240]

円高と長期停滞

プラザ合意と円高
実効為替レート(1970年以降)
数字が大きいほど円高

アメリカはロナルド・レーガン政権下で景気刺激と金融引き締めのために減税と政府支出の拡大を行い、貿易赤字が拡大した。アメリカの貿易赤字が拡大する一方で日本は貿易黒字が拡大しており、日米の貿易不均衡が問題と見なされた[241]。解決のためにニューヨークのプラザホテルで開催された先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁会議では、円高・ドル安を誘導するプラザ合意がなされた。合意前に1ドル=240円だった為替レートは急速に円高が進み、1985年末には1ドル=約200円となり、1987年(昭和62年)には約120円となった。この合意によってアメリカは輸入の抑制と輸出の促進が進むと考えられたが、アメリカの対日赤字は続き、貿易不均衡の是正を目的として、日米構造協議も行われた。日本は輸出の自主規制も行っていたが、GATTを継承して発足した世界貿易機関(WTO)では輸出の自主規制が禁止された[241]

長期停滞
1956年 - 2008年の日本の実質GDP成長率の推移

実質実効為替レートの円高が、交易条件の改善を上回ると、輸出産業の収益性が悪化する。プラザ合意以降も円高は続いたが、同時期に原油価格が低下して交易条件が改善されたため、輸出産業の収益悪化にはつながらなかった。しかし、円高不況を避けるための財政・金融政策によって土地や株式の資産価格が高騰して、バブル景気に入る。好況は1986年(昭和61年)11月から1991年(平成3年)2月まで続いたのちに、バブル崩壊となった。1992年(平成4年)から1995年にかけては輸出産業の採算は悪化して外国への直接投資が増加して、輸入財を扱う輸入競合産業も悪化した。2002年(平成14年)から2008年(平成20年)にかけて原油価格の上昇が進んで交易条件が悪化し、為替レートは下落し、輸出産業の収益は改善する。2008年にリーマン・ショックが起きると為替レートの上昇と交易条件の悪化が並行して、輸出産業の収益性は悪化した。長期的には国際競争力の悪化につながり、長期停滞は失われた20年とも呼ばれる[242]

直接投資と産業内貿易

東アジアにおいては、直接投資の受入先が新興工業経済地域(NIEs)へと移行していった。1980年代前半はアジア四小龍とも呼ばれた韓国、香港、台湾、シンガポールが主な受入先となった。プラザ合意以降、日本やNIEsでは自国通貨の切り上げが問題になり、1980年代後半は東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々が受入先となり、1990年代になると中国が注目され、続いてベトナム、ミャンマーへと関心が移った[243]

こうして水平貿易とも呼ばれる構造が東アジア内で進んだ。水平貿易のパターンとしては、(1)異業種間の工業製品の相互貿易、(2)同一業種内の製品分業、(3)同一製品の生産プロセスにおける工程間分業がある[244]。工程間分業によって生産工程や品質の分業が可能となり、国外の現地企業や日系企業から部品などの中間財を輸入して、国内で製品を完成して最終製品を輸出する産業内貿易が進んだ[245]

日本の製造業の海外生産比率は1985年度の3.0%から1990年度の6.4%、2000年度の14.6、2001年度の16.9%と伸びていった。海外進出企業の海外現地法人売上高の割合も伸び、1985年度の8.7%から1994年度には20%、1997年度には30%となった[246]。中国が2001年(平成13年)にWTOに加盟すると、日本から中間財を輸入して最終製品をアメリカやEUへ輸出することが増えた。一方日本では欧米への最終財の輸出が減り、中国への中間財の輸出が増えた[247]。「世界の工場」とも呼ばれる中国の工業化と国際分業の進展によって、産業の空洞化が問題ともされるようになった[246]

上記のような経営や現象はオフショアリングフラグメンテーションとも呼ばれる。分業が緊密になる中で、2011年の東日本大震災の被害は国外にも及んだ。日本の被災によって外国の最終製品の生産も滞るため、特に電子機器や自動車産業において操業停止や輸出減少が発生した。代わりに素材産業を中心として海外での調達が盛んになり、アジア地域からの調達が特に増加した[248]

食料、環境

日本の食料自給率 1965年73% - 2010年39%
各食料に続く%値(青字)は自給率、括弧内の%値(赤字)は総供給熱量に対する割合。黄色の部分が輸入食料。

敗戦直後の食糧危機に対して、アメリカからの過剰農産物を中心とする対日援助が輸入された。1950年代の日本では米の輸入が大量に行われていたが、農地改革で農業生産が増加して米の自給が可能となる。これによって貿易収支の赤字が減少し、技術や機械の導入に使える外貨が増加して、1955年以降の重化学工業の発展につながった[249]。一方で同時期には小麦がアメリカからの輸入に依存する体制となり、パン食が普及した[250]

日本政府は重化学工業の輸出競争力を強化する反面、農産物の輸入を進めた。小麦、トウモロコシ、大豆などの食料品の輸入が急増し、米や果実の一部を除いて食料自給率は低下した[251]。1980年から2005年までにかけて、食料の輸入金額は3,44倍となった。輸入品目は1980年の1位トウモロコシ、2位小麦など穀類が上位20位のうち4品目あった。それ以降は穀類が減って動物性蛋白質食品が増加する、エビ、マグロ、タラ、サケなどの魚介類や牛肉や豚肉など肉類が増えた他に、犬・猫用の飼料も急増して2000年以降は20位内に入っている[252]

再生産コストを度外視する形での資源輸出は、環境破壊に結びつく場合がある。フィリピンは、1950年代には国土の75%が森林だった。しかし日本向け木材の輸出が60年代から毎年1000万立法メートル以上行われて、1980年代末には25%に低下している。マレーシアも有数の日本向け木材輸出国で、ボルネオ島を中心に伐採が行われている。環境保護運動が起きる一方で、アメリカ、EU、オーストラリアではマレーシア産木材の不買運動も起きた。マングローブがある台湾、インドネシア、タイ、ベトナムなどでは輸出用のエビを養殖するために伐採が進み、飼料や肥料によって養殖池の周辺環境が汚染される問題も起きた[16]

地域経済協力と貿易協定

アジア太平洋経済協力

1960年代にヨーロッパでは欧州経済共同体(EEC)が設立され、日本では小島清太平洋自由貿易地域構想を提唱した。1980年代にNIEsやASEANが成長をして東アジアの相互依存が高まると、地域経済協力を進めるために1989年にはアジア太平洋経済協力(APEC)が設立され、閣僚会議がキャンベラで開催された。設立時の参加国はASEANに加えて日本、韓国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの計12カ国となり、のちの1991年に中国、台湾、香港が加わり、現在では21カ国・地域となっている。1994年のボゴールでの首脳会議では、APECの目的を(1)貿易と投資の自由化、(2)製品基準や通関の円滑化、(3)経済協力と決定して、ボゴール目標が掲げられた。ヨーロッパのEUや北米のNAFTAと比較すると、APECはオープンな協議体であり、依拠する条約や協定がなく、共通目標の数値化や強制が存在しない[253]

自由貿易協定

WTOが発足した一方、世界各地で自由貿易協定(FTA)や地域貿易協定(RTA)が締結されるようになる。地域貿易協定はWTOの最恵国待遇の原則に反しているが、日本もWTO重視から地域貿易協定の締結へと貿易政策を転換する。日本政府は自由貿易協定を経済連携協定(EPA)と呼んでいるが、WTOの分類においてはFTAに含まれる[254]。日本は2002年(平成14年)にシンガポールと最初に自由貿易協定を結び、2005年(平成17年)にメキシコ、2006年(平成18年)にマレーシアと増えてゆき、2012年(平成24年)までに13の国や地域との自由貿易協定が発効した[255]

年表

出典・脚注

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関連項目