即位灌頂

即位灌頂(そくいかんじょう)とは、10世紀ないし 12世紀から江戸時代にかけて、天皇即位式の中で行われた密教儀式で、その内容は秘儀とされていた。一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から 天皇に対して 印相真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいるが、印明伝授と即位灌頂の実修を明確に区別する研究者もある[1]。ここでは印明伝授と即位灌頂を併せて説明する。

 即位灌頂が生まれた背景と特徴 

灌頂は元来、古代インドの国王即位や立太子の際行われた、灌頂水と呼ばれる水が即位する王の頭上に注がれた儀式であった。やがてその灌頂の儀式が仏教儀式に取り入れられ、特に密教の中で重要な儀式とされるようになった。

日本に密教が伝来した9世紀に灌頂の儀礼が開始され、やがて密教の灌頂儀式が天皇の即位式に取り入れられ、即位灌頂が成立することになる。

日本に密教を伝えた中国では、皇帝の即位式に灌頂儀式が行われた形跡はない。これは日本と中国の、君主についての概念の差に起因していると考えられる。中国では即位する皇帝は、皇帝と臣下との相互承認という色彩が強いのに対して、天孫降臨の神話を持つ日本では、即位式に宗教的な観念が入り込む余地が大きかったと見られる。また、灌頂が古代インドの国王即位の儀式に源流があるとはいえ、密教の教義に基づく印明伝授と実修からなる即位灌頂は、古代インドで行われていた儀式とは思想的にも内容的にも異なったものである[2]

平安時代院政 期、仏法の興隆が王権の興隆に直結するという仏教的な国家観が意識されるようになる。その結果、金輪聖王や十善の君などといった仏教的な名称が天皇の別称とされるようになり、即位式の中にも即位灌頂のような儀式が取り入れられるようになったとの説がある。このような状況を王権仏授説と呼ぶ研究者もいる[3]

 即位灌頂の実施法 

即位灌頂は、即位する天皇が摂関家、主に二条家の人物から印相と真言の伝授を受け(印明伝授)、それを即位式の中で実修する。

印相の伝授は、即位式当日に行われることが基本であったが、印明伝授者が喪に服しているなどの事由がある場合、前日になることもあった。

即位灌頂の際、天皇が結ぶ印相は大日如来を表す智拳印とされる。大日如来を表す智拳印を結ぶ点については、本地垂迹において 天照大神と同一視された大日如来の印相を結ぶことによって、即位する天皇が大日如来と同一化し、至高な存在となる意味があるとされる[4]

真言については胎蔵界大日如来の真言ないし荼枳尼天の真言を唱えたとされる。なお、真言を唱えると言っても発声はせず、心の中で唱えた。

天皇が印明を結び、真言を唱える実修については、かつては即位式の際、天皇が高御座まで歩いている間に行うと考えられていたが、最近の研究では高御座に着座してから行われたとされている。即位灌頂が秘儀であったことから、高御座に天皇が着座した直後、女官が天皇の顔を翳(さしば)で覆っている間に行われたと見られている[5]

上記は江戸期における二条家の即位灌頂についての文書からの分析であるが、室町時代は、例えば後奈良天皇宸記によれば、三印三明(つまり三つの印相と三つの真言)の伝授を受け、高御座へ進むまでに第一の印相を結び、着座後に第二、第三の印相を結ぶ方式をとっており[6]、即位灌頂の実施方法は時代によってかなり変遷があったものと推定されている。

 即位灌頂開始に関する各説 

即位灌頂がいつから開始されたのかということについては諸説ある。最も古い説では後三条天皇から始まったとの説がある。これは大江匡房が著した「後三条院御即位記」に、即位時、後三条天皇はを持たず、手で大日如来の印相をしていたと書かれていることによる。しかしこの記述をもって即位灌頂が行われたとするのには疑問との意見もある[7]

二条家から近年公表された、即位灌頂に関する文章の分析から、後深草天皇から即位灌頂が始まったとの説がある。これは二条康道が記した、即位灌頂時に印明伝授を行った人物を併記した天皇家の系図によると、後深草天皇は即位時、摂政であった一条実経から即位灌頂を伝授されたとしている[8]

後深草天皇に続く亀山天皇後宇多天皇については即位灌頂を行ったとの資料は残っていないが、伏見天皇が即位灌頂を行ったことについては、伏見天皇宸記の記述から明らかであり、伏見天皇から即位灌頂が開始されたとする研究者もいる[9]

 二条家と即位灌頂の関わり 

即位灌頂では、その多くが二条家の人物が印明伝授を行ってきたが、即位灌頂の誕生の経緯から二条家が深く関わっているとの説がある。

二条家初代の二条良実は、父である九条道家と不和で、有職故実に関する書類を一切引き継げなかった。そのため有職故実を重んじる鎌倉時代当時の状況下では、政治的に大きなハンディを持つことになった[10]

当時、即位式に続いて行われる大嘗会で行われる神膳供進の儀では、天皇が摂関に儀式の作法についての助言を受け、それに基づいて儀式を進めていたが、伏見天皇即位時に関白を勤めていた二条師忠は、儀式進行に関する天皇からの問いに答えられず、苦境に立たされることになった。これは二条家に有職故実に関するめぼしい書類がなかったことによる[11]

そのため、二条師忠は兄であり、天台座主を勤めた経験もある道玄の協力を仰ぎ、伏見天皇即位時に即位灌頂という新たなる儀式を始め、二条家が置かれた苦境から脱し、他の五摂家と対抗することをもくろんだという[12]

この説によれば、二条家の都合がもとで開始された即位灌頂であるため、天皇の即位時、二条家が摂関を勤めていない場合、当初、即位灌頂は基本的には行われなかったものと推定する。[13]。ただ、歴代の当主が室町幕府江戸幕府の征夷大将軍の偏諱を受けるなど武家政権と親密であった二条家は、室町時代において摂関を勤める期間が他の五摂家と比べて長かった[14]。自然、天皇の即位時に即位灌頂が行われる機会が増え、また、天皇家の側でも権威確立の手段の一つとなる即位灌頂を歓迎する面があり、やがて即位式に即位灌頂が定着していくことになる。

上記の説は歴史的に二条家が即位灌頂を勤める機会が多く、即位灌頂が二条家の家業として定着していくことについて説得力がある説である。ただし、伏見天皇以前に即位灌頂を行った可能性がある後三条天皇や後深草天皇についてどう説明するのかという点と、先に紹介した二条康道の記録によれば、後深草天皇の時には一条実経後伏見天皇の時は鷹司兼忠など、当の二条家の記録に、鎌倉~室町時代に二条家以外の人物が即位灌頂を行ったことが記されている点の説明が難しい。

 二条良基と二条家の家業化 

即位灌頂が二条家の家業となっていく過程で、足利義満と親密な関係を保ち、南北朝時代に四度にわたって摂関を勤め、大きな権力を握った 二条良基の力が大きかったことについては諸説一致している。

二条良基は観応の擾乱に際して北朝再建に尽力し、三種の神器が無い上に、譲国の詔を発する治天の君が不在で、やむなく広義門院を治天とし、即位にこぎつけた 後光厳天皇以降の北朝が、天皇としての正統性に傷がついた状況にある中で、状況の改善に腐心した。四度にわたり摂関を勤めた二条良基は数代の天皇の即位時に印明伝授を行い、即位灌頂の儀礼としての定着に大きく貢献したとされた。

また、二条良基は後円融天皇の大嘗会神膳供進の儀の際、後円融天皇に印相と真言を伝授し、天皇は儀式中に印相を結び、真言を唱えた。神道の儀式である大嘗会で印相を結び真言を唱えたという記録は今のところ他に見られないが、即位灌頂が天皇の即位式ばかりではなく、大嘗会にも関係があったことを示す興味深い記録である。なお、大嘗会が後柏原天皇以降いったん中絶したことが、他に記録がない原因である可能性がある。いずれにしても宮廷の重要儀式である即位式と大嘗会に、二条良基が深く関わっていたことがわかる[15]

 即位灌頂と即位法 

実際に天皇が即位式に際して実修した即位灌頂と並んで、天台宗真言宗には、天皇が即位式で実修するための、即位法と呼ばれる印明と真言が伝えられている。

即位法は複数伝えられており、それぞれ印明と真言が異なる。即位法はそのまま実際の即位灌頂に用いられることはなかったが、即位灌頂の成立には大きな影響を与えたと見られる。まず鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて、天皇の存在が互いに不可欠であった摂関家と寺院勢力は、自らの存続をかけて共同で即位儀礼の中に即位灌頂を持ち込んだものと見られる[16]

持明院統大覚寺統の争いはやがて南北朝の対立へと進み、二人の天皇が対立するようになった。また寺院勢力の中でも王統分裂の影響を受けて、分派が進んだ。そうした分派それぞれが即位法を編み出し、それら即位法は、南北朝の争いが終焉しても統一されることなく現在まで伝えられた[17]

 即位灌頂をめぐる五摂家の争い 

即位灌頂はその多くは二条家が印明伝授を担い、特に江戸時代以降は独占するようになったが、しばしば二条家と他の五摂家との間に印明伝授について争論となった。

まず1611年後水尾天皇の即位の際、二条昭実近衛信尹との間で争論となり、時の征夷大将軍 であった徳川秀忠の裁定によって二条昭実が印明伝授を行うことに決定した[18]

続いて1687年東山天皇即位の際は、時の二条家当主の二条綱平が当時 まだ16歳で権大納言、しかも父である二条光平が死去した時、二条綱平はまだ3歳であり、印明伝授の内容を父から伝えられたかどうか疑念を持たれたことから、大きな争論となった。摂政の一条冬経と左大臣の近衛基煕から、まだ大臣の地位になっておらず、父からのきちんと伝授がなされたかどうか疑わしい二条綱平ではなく、自らの家にも伝承があるので、ぜひ印明伝授を行いたいとの主張がなされた。結局この時は、霊元上皇がそれぞれの家説を確認した上で、かつて自らが受けた印明伝授を二条綱平に伝え、二条綱平が印明伝授を行うことになった[19]

1710年中御門天皇即位の際は、摂政の近衛家煕と右大臣二条綱平との間で争いとなった。当時二条綱平は東山天皇の死去に伴う服忌中であり、印明伝授を行うことが危ぶまれており、太閤であった近衛基煕の強い意向もあって印明伝授を希望した。このときも霊元上皇の裁定によって二条家が務めることとなり、服忌中の二条綱平に代わって二条吉忠が印明伝授を行うことになった[20]

1735年桜町天皇即位時も、関白である近衛家久が印明伝授を希望した。各局このときも中御門上皇が左大臣の二条吉忠に伝授を命じたが、中御門上皇は近衛家の伝承も尊重することを認めた[21]

1739年、桜町天皇は二条宗基に対し、印明伝授は二条家が行い続けるよう命じた。これ以降、印明伝授は二条家が行うことが確定し、争論はなくなった[22]

 即位灌頂の特徴 

即位灌頂は儀式として完成した江戸期、朝廷の重要事とされた。何度も繰り返された即位時の印明伝授についての争論もその重要性の表れである。争論の渦中にあった天皇や上皇、そして摂関家の人々からその重要性が繰り返し強調された[23]

また、即位灌頂は例えば西ヨーロッパでの君主即位に行われた塗油の儀式との比較することができよう。即位灌頂は、二条家を中心とする摂関家の人物が印相と真言を伝授し、即位する天皇が実修する。摂関家の人物が印相と真言を伝授する行為は、宗教的な儀式というよりも摂関家の家業としての色彩が強い。即位灌頂の伝授と実修から聖職者は排除されており、この点が、聖職者が即位する君主に対して行う儀式である塗油との違いである[24]

即位灌頂を行うことにより、天皇は大日如来と同一化し、極めて高い宗教的な権威を得ることになるが、その過程で高僧など聖職者の介在がないということは、天皇は宗教界の統制なくして高い宗教的権威を持つことであり、天皇の権威の隔絶性を意味するとされる[25]

もっとも即位灌頂が始まった鎌倉時代~室町時代については、僧侶が印明伝授をした例があることが指摘されており[26]、即位灌頂の成立からその完成に至る過程の解明が期待される。

 即位灌頂の終焉 

江戸時代の後期になると、国学が盛んになるなどの社会の動きに対応して、仏教神道が結びついた神仏習合に批判的な意見が見られるようになった。そのような中、即位式の仏教儀礼である即位灌頂に非難が集まるようになった。1847年孝明天皇即位の際に行われた即位灌頂では、多くの公家たちが即位式に即位灌頂を行うことに拒否感を示した[27]

1868年明治天皇即位に際し、即位式から仏教的な色彩は全て追放され、その結果、即位灌頂は廃止されることになった。

 脚注 

  1. ^ 上川通夫 「中世の即位儀礼と仏教」 『日本仏教形成史論』、校倉書房、2007年、408頁
  2. ^ 松本郁代 「中世の即位灌頂と天皇」 『中世王権と即位灌頂』、2005年、99~101頁
  3. ^ 平雅行 「日本中世社会と仏教」 『中世仏教の成立と展開』、塙書房、1992年、462頁
  4. ^ 上川通夫 「中世の即位儀礼と仏教」 『日本仏教形成史論』、校倉書房、2007年、427~429頁
  5. ^ 松本郁代 「中世の即位灌頂と天皇」 『中世王権と即位灌頂』、2005年、109~111頁
  6. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、175頁
  7. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、691頁
  8. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、691、692頁
  9. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、151、152頁
  10. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、153、154頁
  11. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、148~154頁
  12. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、151~154頁
  13. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、154~158頁
  14. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、170~171頁
  15. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、160~162頁
  16. ^ 松本郁代 「中世の即位灌頂と天皇」 『中世王権と即位灌頂』、2005年、83~85頁
  17. ^ 松本郁代 「中世の即位灌頂と天皇」 『中世王権と即位灌頂』、2005年、88~91頁
  18. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、707、708頁
  19. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、708~717頁
  20. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、717~723頁
  21. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、723~730頁
  22. ^ 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年、736頁
  23. ^ 山口和夫 「近世即位儀礼考」 『別冊文芸 天皇制』、河出書房新社、1990年、278頁
  24. ^ 上川通夫 「中世の即位儀礼と仏教」 『日本仏教形成史論』、校倉書房、2007年、426頁
  25. ^ 上川通夫 「中世の即位儀礼と仏教」 『日本仏教形成史論』、校倉書房、2007年、427~429頁
  26. ^ 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年、156~161頁
  27. ^ 山口和夫 「近世即位儀礼考」 『別冊文芸 天皇制』、河出書房新社、1990年、281頁

参考文献

山口和夫 「近世即位儀礼考」 『別冊文芸 天皇制』、河出書房新社、1990年 平雅行 「日本中世社会と仏教」 『中世仏教の成立と展開』、塙書房、1992年 橋本政宣 「即位灌頂と二条家」 『近世公家社会の研究』、吉川弘文館、2002年 小川剛生 「即位灌頂と摂関家」 『二条良基研究』、笠間書院、2005年 松本郁代 「中世の即位灌頂と天皇」 『中世王権と即位灌頂』、2005年 上川通夫 「中世の即位儀礼と仏教」 『日本仏教形成史論』、校倉書房、2007年

関連項目