二階堂トクヨ

二階堂 トクヨ
人物情報
全名 二階堂 トクヨ
別名 小笠原トクヨ(養子として)[1]
桜菊女史(筆名)[2]
二階堂登久[3]
生誕 二階堂 トクヨ
(1880-12-05) 1880年12月5日
日本の旗 日本宮城県志田郡桑折村[4](現・大崎市三本木桑折)
死没 (1941-07-17) 1941年7月17日(60歳没)
日本の旗 日本東京府東京市四谷区信濃町(現・東京都新宿区信濃町) 慶應義塾大学病院[5]
胃ガン[3]
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京女子高等師範学校文科[4]
配偶者 なし[6]
両親 父:二階堂保治[4]
母:二階堂キン[4]
養父:小笠原貞信[7]
子供 二階堂美喜子(養女)[8]
学問
時代 明治 - 昭和
活動地域 日本の旗 日本
研究分野 体育学
研究機関 東京女子高等師範学校二階堂体操塾
主な指導学生 人見絹枝[9]
称号 勲六等瑞宝章[4]
主な業績 日本へのホッケークリケットの紹介[10]
主要な作品 『体操通俗講話』、『足掛四年』
影響を
受けた人物
マルチナ・バーグマン=オスターバーグ
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二階堂 トクヨ(にかいどう トクヨ、1880年12月5日 - 1941年7月17日)は、宮城県大崎市(旧三本木町)出身の教育者日本女子体育大学創設者[9][10]。「女子体育の母」と称される[9][11]。日本初の女子オリンピック選手である人見絹枝のほか、8名のオリンピック選手を育てた[12]

経歴

体操嫌いの文学少女(1880-1904)

1880年(明治13年)12月5日宮城県志田郡桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる[4][13]。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している[14]1887年(明治20年)、父の赴任地・松山の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する[14]。三本木小では尋常科4年・高等科4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な学問は不要」と考える当時の風潮[注 1]からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える[14]。高等科4年生(1894年=明治27年)の夏休みに叔父の佐藤文之進(仙台市立立町小学校教師)から『日本外史』を習ったことで学問に目覚め[16]、文学少女に成長した[4]。なお、小学校時代の8年間、トクヨは体操体育)の授業を受けたことがなかった[17]

1895年(明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会を経て、同年11月10日尋常小学校本科准教員の免許を取得する[18]。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった[19]。坂本分教場では老教師が教えていたため、「鬼ごっこをしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた[19]。分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、宮城県尋常師範学校(宮城師範、現・宮城教育大学)は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった[20]。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない福島民報に手紙を送って福島県尋常師範学校(福島師範、現・福島大学人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した[21]。福島師範には福島県民でないと入学できなかったことから、戸籍養子縁組すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して1896年(明治29年)3月に福島民報の社長小笠原貞信の養女となり、小笠原トクヨを名乗った[7]。こうして同年4月に福島師範へ入学、1899年(明治32年)3月に高等小学校本科正教員の資格を得て卒業[注 2]した[22]。卒業後の赴任地は安達郡油井村の油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)で、トクヨは訓導として尋常科2年生の担任になった[23]。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科1年生の智恵子とも親しくなった[24]。智恵子とは、後に高村光太郎の妻になる高村智恵子のことであり、下宿を訪ねたり、一緒に安達ケ原を散歩したりするなどトクヨに懐いていた[24]

1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、女子高等師範学校(女高師、現・お茶の水女子大学)文科に入学する[25]。当時の女高師は高嶺秀夫が校長を務め、和歌尾上柴舟、体操の坪井玄道をはじめ、安井てつ[注 3]後閑菊野らの授業を受けた[28]。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった[29]。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた[30]

女高師時代のトクヨは毎年学年末に不運に見舞われるというジンクスがあった[30]。1年生の時は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、2年生はチフスに感染して4か月間茅ヶ崎の病院に入院、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した[31]。このうち1・2・4年生の時には学年末試験を受けることができなかった[32]。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級している[32]。特に4年生の試験は卒業がかかったものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた[32]。こうして1904年(明治37年)3月、教育倫理・体操・国語地理歴史漢文の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した[33]

体操教師への覚醒(1904-1912)

女高師の卒業後は教師となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)であった[33]。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長[注 4]からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した[36]。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから[注 5]であった[33]。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う[注 6]、とまで思っていた[39]。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌1905年(明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした[40]。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている[注 7]ことを発見し、夏には井口阿くり[注 8]が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ[45]

井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった[46]。幸運にも、体操専門学校を卒業したカナダ人宣教師のミス・モルガンが金沢市キリスト教を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた[47]。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった[48]。ついには石川県立高等女学校の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ[注 9]に至り、石川県の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった[50]。この頃の教え子に時の石川県知事村上義雄の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て運動会ではプロの楽隊を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けてカドリーユを踊らせたりした[51]。この運動会では、入場券を得られなかった第四高等学校(現・金沢大学)の学生が塀を乗り越えて乱入し、警察官が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ[51]

1907年(明治40年)7月、トクヨは高知県師範学校(高知師範、現・高知大学教育学部)への出向を命じられた[52]。しかし高知市に来てすぐにマラリアに感染し、入院を余儀なくされた[52]。教諭兼舎監[注 10]に着任し、歴史1時間、体操18時間[注 11]を受け持った[52]。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、ウィリアム・シェイクスピア戯曲を語り、生徒を喜ばせた、という逸話が残っている[54]高知県でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・高知新聞)に取り上げられた[55]。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では第9師団、高知では歩兵第44連隊で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった[56]。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている[56]1909年(明治42年)7月31日、トクヨは二階堂姓に戻った[57]1910年(明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校[注 12](東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た[58]。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた[59]。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して[60]1911年(明治44年)春に東京女高師助教授に着任した[43]。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった[43][61]

東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・永井道明両教授の補佐であった[60]。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した[注 13]ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった[60]

英国留学(1912-1915)

1912年(大正元年)10月1日、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた[62][54]。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた[62]11月20日曇り空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、高村光太郎ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った[63]。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった[64]

1913年(大正13年)1月15日ロイヤルアルバートドック英語版に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした[65]。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・グリニッジ大学英語版)の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った[66]。学校側は「アシスタント・プロフェッサーが留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった[67]。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た[68]

キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では生理学解剖学衛生学など、実科では教育体操・医療体操・舞踊競技などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった[69]。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった[70]。トクヨが最も影響を受けたのは、校長のマルチナ・バーグマン=オスターバーグであった[71]。学校の長期休暇中は、ロンドン市内の女子体操学校を参観し、チェシャー州オルトリンガム英語版夏季学校での水泳練習、ロンドンの舞踊塾でのダンス練習に励んだ[72]。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し[注 14]学年1位の成績を得た[73]

キングスフィールド体操専門学校で1年3か月学んだ[注 15]後、トクヨはイギリス国内の体操専門学校を渡り歩いた[75]。当初の留学予定では、イギリス巡歴の後、ヨーロッパ各国を巡ってスウェーデンで半年学び、帰路アメリカに立ち寄ることになっていた[76]。しかしこの頃、第一次世界大戦が勃発し、イギリスでもドイツ軍による空爆が行われるような緊張状態であったため、トクヨは各国巡回を諦めイギリスにとどまることにした[77]。ところが日本から急きょ帰国せよとの電報が届いたため、やむなく1915年(大正4年)3月14日にイギリスを発ち[77]、ドイツ軍の潜水艦攻撃に怯えながら行きと同じ航路を取って[78]4月4日に日本へ戻った[77]

イギリス留学を通して、トクヨは自らの体を女子体育に、国に捧げるという覚悟を決め、その意志は終生揺らぐことはなかった[79]

女子体育は女子の手で(1915-1922)

メイポールダンス(スペインエイバル

1915年(大正4年)5月、東京女高師教授となり[54]、第六臨時教員養成所教授を兼任する[4]。同年6月には文部省講習会講師[注 16]教員検定臨時委員に就任、1916年(大正5年)7月には文部省視学委員になり、夏休みには自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回った[54]。また著書『体操通俗講話』、『足掛四年』、『模擬体操の実態』を1917年(大正6年)・1918年(大正7年)に立て続けに出版[81]東京女子大学学長となっていた安井てつに請われて、1918年(大正7年)5月から1922年(大正11年)3月まで同学で授業を行った[54]。女高師と臨時教員養成所では共に家事科の生徒に体育を教え、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行った[82]。この時の教え子に、女子体育の指導者となる戸倉ハル、加藤トハ(旧姓:内田)がいる[83]。戸倉はこの頃のトクヨが「女子体育は女子の手で」と口癖のように言っていたことを証言している[84]

授業では、イギリスから持ち帰ったメイポールダンス、クリケットホッケー[注 17]を取り入れ、生徒を肋木にぶら下げておいてゆっくりと説明するのが常であった[86]。この頃の体操指導は、上司の永井道明が苦労してまとめ上げた『学校体操教授要目』に従うことが求められていたが、その体操はドリルを中心とした味気ないものであり、トクヨは要目よりもオスターバーグから習ったイギリス式の生き生きとした体操を強引に実施していた[87]。また、永井はダンスの価値をほとんど認めておらず、女高師の体操着も永井受け持ちのクラスがブルマーだったのに対し、トクヨのクラスはキングスフィールド体操専門学校と同じチュニックを採用するなど、永井とトクヨの間に対立が生じていった[88]。永井は自身の後継者としてトクヨに期待していただけに、裏切られた格好となり、トクヨは体操の資格がないクラスに配置転換されてしまった[89]。さらに永井との対立は、東京女高師でのトクヨの孤立に至り、ノイローゼとなって鎌倉に引きこもってしまったこともある[90]。この時は安井てつの助力により、無事に東京女高師に復帰した[90]。一方で、オスターバーグからかけられた「ここ(キングスフィールド体操専門学校)にちなみを持ったクイーンズフィールド体操専門学校を建てるように祈ります」の言葉を胸に抱き、学校を建てる構想を温め続けていた[91]

まず、トクヨは1919年(大正8年)の体操女教員協議会(東京女高師で開催)の場で女子の体操教師120人に呼び掛けて「全国体操女教員会」(後に体育婦人同志会に改称)を立ち上げ、自ら会長に就任した[92]。全国体操女教員会を率いたトクヨは、スウェーデンの国立中央体操練習所[注 18]やイギリスのキングスフィールド体操専門学校のような体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」を設立すべく10万円を目標に寄付を募り始めた[94]。しかし1921年(大正10年)に文部大臣官房が「体育研究所」の設立議案を策定し、その経費が150万円と発表されると、トクヨは10万円では到底研究所を作れないことを悟り、また「国がいつか建ててくれるなら」と人々に思われたことで3,300円しか募金は集まらなかった[94]。そこでトクヨは、構想を温めてきた自身の体操塾を設立する資金に募金を振り向けることに決め、寄付者に理解を求めた[95]。次に、1921年(大正10年)5月に雑誌『わがちから』を創刊し、女子体育の重要性を社会に訴えた[96]。『わがちから』は毎号1,000冊印刷し、平均500冊ほど販売していた[97]関東大震災による中断をはさんで1925年(大正14年)1月に『ちから』に改題、1927年(昭和2年)4月の『ちから第51号』を最後に発行を停止した[98]。この雑誌発行により、トクヨは講習会や講演会を開く余裕がなくなり、視学委員の仕事も返上した[97]

二階堂体操塾創立と晩年(1922-1941)

1922年(大正11年)4月15日[99]、私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた[4]。創立構想時には「日本女子体操学校」の名で1年制の学校とし、入学試験がない代わりに1か月後に本入学試験を課して見込みのある者のみ残す方針[注 19]であった[101]校舎は東京・下代々木(後の小田急小田原線参宮橋駅付近[注 20])に借りた庭園付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた[101]。しかし開校前になって校名を「二階堂体操塾」に、仮入学制度をやめて選抜を行うこととした[102]。また、卒業しても何の資格も得られないが、中等教員として体操科教師となれるだけの能力を身に付けさせることは請け負うし、体操科教師の不足している現状では無資格でも教師職を得て最低でも月給60円を得るだろうと宣言した[103]。定員は22人と定めていざ募集をかけてみると、予想を上回る4倍の出願があり、約40人に入学を許可[注 21]した[103]。二階堂体操塾は全寮制を敷くことにしていたため、トクヨが借りていた邸宅だけでは不足し、隣家も借り受け、2棟を新築して校舎兼寄宿舎に充当した[106]。もっとも広い21畳の部屋は、学科教室、講堂体育館音楽室、自習室、食堂寝室と7種の用途があったことから「七面鳥のお部屋」と呼ばれた[107]。運動場が不足したため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた[108]

開校初年の時間割は以下の通りであった[106]。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や軍医ら軍関係者、野口源三郎大谷武一ら体育界の重鎮も教鞭を執った[109]。また、トクヨの母・二階堂キンとお手伝いさん2人が家事を行って塾生を支えた[110]

 
1 体操
2 体操
3 競技 英語 競技 英語 英語 倫理
4 競技 心理 競技 和歌 英語 倫理
5 体育史 音楽 解剖 競技 衛生  
6     生理 遊技 救急法  

開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった[108]。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した[105]。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった[111]。しかもうち半数は(3学期制の)2学期の末までに就職先が決まっており、トクヨの指導力が社会的に評価されていたことが窺える[112]。トクヨは卒業生に次の言葉を送っている[113]

学校を我が家と心得、校長を親と思うて大切に仕へよ、同僚を師と仰ぎ、生徒を国宝と思へ、常に職を励みて業を成し、倹を行ひて身を立て、道を崇めて国家に奉仕を怠るべからず、かくて汝の生命をして最も幸福ならしめよ。

塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、1923年(大正12年)6月時点で72人が在籍していた[114]。同年9月1日に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事[注 22]であった[117]。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った[118]。トクヨは荏原郡松沢村松原(現・世田谷区松原二丁目日本女子体育大学附属二階堂高等学校の位置)に移転を決め、1924年(大正13年)1月25日バラックの塾舎へ移転した[118]。当日は代々木から松原まで約6 kmの道のりを塾生が椅子を抱えて行進した[118]

3期生には1928年のアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、陸上800m走で同じく日本女子史上初となる銀メダルを獲得した人見絹枝が入学した[9][119]。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気は毛頭なく、塾生がスポーツエリート意識を持つことを嫌い、特定の種目に特化した生徒に特別な配慮をすることもなかった[120]テニスの腕を磨きたかった人見は退塾したいと思うこともあったが、夏休みに帰省した際に教師となることを家族に期待されていると感じて考え直し、トクヨの方も岡山県から人見に陸上競技大会への出場要請が来たことで、トップアスリートの養成が女子体育の発展に必要であると認識を改める契機となった[121]。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)でも週1回教え始めた[122]。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の専門学校昇格を目指しての学習・準備を兼ねていた可能性がある[122]

1926年(大正15年)3月24日[123]、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した[124]。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった[125]1928年(昭和3年)6月4日、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、卒業と同時に体操科の中等教員が取得できるようになった[126]。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り丸坊主になったりしたエピソードが関係者の間で知られている[124]。来客時にはかつらを着用したが、慌ててかぶるため、眉毛の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった[127]。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった[128]。文部省が審査のために来校した時には、慶応義塾大学や東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育短期大学)から図書や備品を借りて審査をやり過ごした[129]

体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった[6]。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するのは1人の理事しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した[130]。社会が戦争へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年将校を愛し、将校の側もそれを分かっていて軍事演習の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した[130]。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという[6]。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も国家主義国粋主義的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった[131]

1941年(昭和16年)4月7日、体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・東京共済病院)に入院、後に本人の希望で慶應義塾大学病院に転院した[3]。病名は胃ガンで、ほかに糖尿病白内障などの持病があった[3]。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、輸血を申し出たが、一切断っている[132][注 23]。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった[134]。当日は稀に見るような暑さであったという[124]。生涯独身であった[6]

死後

死後、勲六等瑞宝章が贈られた[4][124]。墓所は築地本願寺和田堀廟所[4][135]。すぐ近くには作家樋口一葉の墓がある[135]

トクヨは養女の美喜子に遺言書を口述筆記させ、その中で体専の学生募集を停止し、全生徒の卒業・就職を待って閉校するよう要望したが、弟の清寿が2代目校長に就任して学校を引き継いだ[136]。清寿は「体育のタの字も知らない」ような人物であったため、学生は反発したものの、太平洋戦争の激化でボイコット運動をしているような時代ではなくなったことや、長年の学校行政手腕を発揮して同窓会「松徳会」[注 24]を組織するなどして反発を収束させていった[137]

顕彰

郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、トクヨの胸像が設置されており[10]2019年3月17日には二階堂トクヨ先生を顕彰する会[注 25]と館山公園を復活させる会が協同してトクヨを顕彰する看板を設置した[9]。また、母校の三本木小学校では、2018年(平成30年)より校内縄跳び大会を「二階堂トクヨ杯」と銘打って開催し、「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」の会員も観覧に来ている[140]

トクヨが創設した日本女子体育大学では、学部1年生の教養演習でトクヨの生涯について見識を深める授業を行っている[141]。この授業は従来、テキストを読んで問いに答えるという「テストの読解問題」のような形式[注 26]をとっていたため学生から不評であったが、2012年(平成24年)に外部講師を招いて、学生がシナリオ作りをするという方式で開講したところ、学生がトクヨに人間としての生き生きとしたイメージを持つようになったという[141]

親族

  • 父方の祖父:二階堂清三郎
    • 元・仙台藩士[142]。二階堂家は須賀川発祥の由緒ある家柄であると清三郎は語っていたが、真偽は謎で二階堂氏との関係も不明である[143]戊辰戦争の折に伝家の宝刀を抜こうとしたが、引き上げ命令が出たため、使うことはなかった[144]明治維新以後は桑折村合の沢で開拓農民となり、農閑期に刀剣磨きや「雉子おき」作りの副業をしていた[144]
  • 父方の祖母:二階堂やえ[145]
  • 父:二階堂保治(やすじ)[146]
    • 幼少期から書を好み、20歳頃に志田・玉造郡役所書記に就任、松山戸長を経て三本木に戻り、戸長・村長を務める[146]。しかし途中で挫折し、酒に溺れ、一家離散の原因を作った[147]1904年(明治37年)、48歳で死去[148]
  • 父方の叔母:佐藤トリノ[145]
  • 父方の叔父:佐藤文之進[15]
    • トリノの夫で小学校教師[15]。トクヨに『日本外史』を教え、トクヨの勉学の才能を開花させた[15]
  • 母方の祖父:小梁川正之助[148]
    • 元・藩士、士族[148]黒川郡大松沢村(現・大郷町)新田に居を構えた[148]。トクヨの福島師範進学の際にトクヨに付き添って養父となる小笠原に挨拶し、トクヨの留学出発前には「外つくにの 学びの園に あそぶとも ゆめな忘れそ 大和国ふり」という励ましの短歌を記した短冊を贈った[149]
  • 母:二階堂キン[148]
    • 小梁川正之助の長女[148]。18歳で保治と結婚する[147]。気丈で男勝りな性格であり、畑仕事は得意であったが文字は読めず、裁縫もできなかった[148][150]。しかし字面の雰囲気でほぼ正確に内容を読み取り、古川の裁縫塾に通って裁縫を身に付けたという[148][150]。夫亡き後は1人で家を支え、後に二階堂体操塾の運営も手助けした[148]。1943年(昭和18年)、85歳で死去[148]
  • 養父:小笠原貞信[7]

著書

  • 體操通俗講話』東京寶文館、1917年8月31日、776頁。全国書誌番号:43009663
    • 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった[151]。一般向けのユーモアを交えた体育書かつ珍しい女性執筆者の本であるということで注目された[152]。スウェーデン体操の入門書であり、創始者のペール・ヘンリック・リング英語版スウェーデン語版の体操観、4つの体操領域について詳しく記述している[153]
  • 足掛四年 英國の女學界』東京寶文館、1917年9月26日、392頁。全国書誌番号:43010445
    • 表紙の著者名は「櫻菊女史」[注 27]名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである[155]
  • 男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際』東京敎育研究會、1918年5月22日、151頁。全国書誌番号:43009681
    • 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。子供のための体操指導例を示した本である[156]。児童の自発性を重視しており、大正自由教育を反映したものとなっている[157]

その他

東京女子高等師範学校の生徒時代には安井てつの指導を受けた[64]。安井は後に二階堂体操塾の理事を務めることでトクヨを支えた[64]

金沢で初めて洋服を着た人であると言われている[43]

二階堂が油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)で訓導をしていた頃に親しくなった高村智恵子は、後に高村光太郎と結婚し、二階堂のイギリス留学に際して2人で横浜港まで見送りに行っている[158]。見送り時、まだ2人は結婚前である[63]

イギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、クリケットホッケー日本に初めて紹介した[10][85]。トクヨはこの2競技を女子のスポーツとして日本に持ち帰った[85]

演じた人物

脚注

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注釈

  1. ^ 三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった[15]
  2. ^ 在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった[22]
  3. ^ 安井はクリスチャンであり、トクヨは安井の下で聖書の勉強をし、『ヨブ記』を英語で読みこなすことができた[26]。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった[27]
  4. ^ 当時の校長は体操伝習所の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった[34]。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた[35]
  5. ^ 実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる[37]
  6. ^ トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった[38]
  7. ^ この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである[41]。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである[42]。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった[43]
  8. ^ 井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった[44]
  9. ^ 本業の国語でも50人の作文指導を行っている[49]
  10. ^ 舎監として、夜中に高知師範女子寄宿舎に侵入した泥棒薙刀で追い払った[53]。トクヨに武士の血が流れていることを示すエピソードである[53]
  11. ^ 本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった[38]
  12. ^ 女子高等師範学校から改称していた。
  13. ^ 井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある[60]。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている[60]
  14. ^ 水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である[73]。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた[73]
  15. ^ キングスフィールド体操専門学校は、トクヨの2年間のイギリス留学を同校で2年学ぶものと誤解していたため、学校を去る時にひと悶着あった[74]。同校は2年制の学校であり、オスターバーグ校長はトクヨを学校に留めおきたかったのであった[74]
  16. ^ スウェーデン体操の普及と女子体育の振興を図った[80]
  17. ^ トクヨは日本で初めての女子スポーツとしてクリケットとホッケーを持ち帰った[85]
  18. ^ スウェーデン語: Gymnastiska Centralinstitutet[93]、現・スウェーデンスポーツ健康科学大学(スウェーデン語: Gymnastik- och idrottshögskolan)。スウェーデン体操の創始者・リングが設立した体操指導者養成施設で、永井道明の留学先であった[93]
  19. ^ トクヨの留学先のキングスフィールド体操専門学校を模範としたものである[100]
  20. ^ 二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、京王線神宮裏駅(現存せず)が最寄駅であった[100]。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには代々木練兵場(ワシントンハイツを経て代々木公園となる)があった[100]
  21. ^ 1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の採れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった[104]。『わがちから』によると1期の卒業生は49人であった[105]
  22. ^ 塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、余震の不安から代々木練兵場に避難していた[115]。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった[116]
  23. ^ 週1回、放射線治療のために病室から移動する際に運搬車を押す際に補助することは例外的に認められた[133]看護師の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという[132]
  24. ^ 「しょうとくかい」と読み、学校所在地・松原の「松」とトクヨの「徳」をとって命名した[137]。「しょうとくかい」の音は「頌徳会」と同じであり、「トクヨを讃える」の意味合いをかけたものであった[138]
  25. ^ 元・三本木町長を会長、大崎市の行政関係者が理事などの役員に就任して2016年(平成28年)12月3日に発足した[139]
  26. ^ 例えば「トクヨが、金沢でノイローゼ同然になった原因を簡潔に説明しなさい」など[141]
  27. ^ 桜菊(おうぎく)はトクヨの号(ペンネーム)であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた[154]。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した[154]

出典

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外部リンク