下館事件

下館事件
場所 茨城県下館市(現筑西市
日付 1991年平成3年)9月29日
7時ころ (UTC+9)
概要 強盗殺人事件
死亡者 1名
犯人 被害者のスナックで働くタイ人女性3名
刑事訴訟 第一審懲役10年
控訴審懲役8年(確定)
管轄 茨城県警察下館警察署
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下館市の位置

下館事件(しもだてじけん)は、1991年平成3年)9月に茨城県下館市(現筑西市)でタイ人女性が殺害され現金約700万円の入ったバッグなどが持ち去られた強盗殺人事件である[1][2][3]。被害者のスナックで働くタイ人女性3名が逮捕起訴され[4][5][6]、被告人らは、被害者による借金返済を理由とした売春の強要などから逃れるために殺害したもので正当防衛である、また、金品の強奪を目的としたものではなく強盗にはあたらないなどと主張したが[7][8][9]裁判所は強盗殺人罪の成立を認め、第1審では懲役10年[5][10]、控訴審でも懲役8年の実刑判決が下され確定した[5]

犯人のタイ人女性3名は人身売買の被害者であるとして支援のネットワークが広がり、他の同様の事件の支援活動のモデルとなった[11]。また、控訴審判決は、捜査段階での通訳人に必要とされる能力について判示した裁判例としても知られている[12]

概要

1991年平成3年)9月29日朝、茨城県下館市アパートの一室で、スナックを実質的に切り盛りするタイ人女性(当時28歳)が首などを刃物で刺されて殺害され、現金約700万円の入った被害者のバッグなどが奪われた[1][2][13]。警察は、同居していたタイ人女性3名の行方を追い、同日午後に千葉県市原市ホテルに投宿していた3人に任意同行を求めて下館警察署(現筑西警察署)に連行し、強盗殺人の容疑で逮捕した[4][10]。取り調べで3人は、「工場レストランで働くと言われて来日したが、被害者から350万円の借金があると言われて、スナックの客を相手に売春を強要された。パスポートなどは取り上げられ、外出や母国の家族への国際電話も自由にさせてもらえず、日常的な暴言や暴力で被害者に従わせられた。こうした境遇から逃れるために被害者を殺害して逃走した」旨を供述した[14][15][16]。3人は、同年10月21日に強盗殺人の罪で起訴された[6]

裁判では、検察側と弁護側の主張は激しく対立した[17]。罪状認否で被告人3人は、「お金をとるために殺したのではありません。逃げるために殺したんです」と強盗殺人を否認した[4]。弁護団も、強盗殺人ではなく殺人窃盗であり[7][8]、殺人については被害者による監禁や売春の強要から逃れるためにやむを得ず殺害したものであり正当防衛にあたること[7][8]、窃盗については証拠品が令状に基づかずに違法に収集されたものであり証拠能力がないこと[7][8]、捜査段階での通訳人に能力が欠けており供述調書は信用性に欠けることなどを主張した[18]。しかし、1994年(平成6年)5月の第1審判決では、強盗殺人罪を適用して懲役10年の実刑判決が下された[5][10][19]。弁護側は控訴して争ったが、1996年(平成8年)7月の控訴審判決でも、量刑こそ情状に照らして重すぎるとして破棄したものの、強盗殺人罪の成立は認めて懲役8年の実刑判決を言い渡した[5]。弁護側・検察側とも上告せず、確定した[5]

この事件では、犯人とされたタイ人女性3名はむしろ人身売買の被害者であるとして、逮捕直後から様々な団体や個人がネットワークを形成して3人を支援した[5]1992年(平成4年)12月には「下館事件タイ三女性を支える会」(支える会)が発足して組織化された[5][6]。支援活動は、差し入れや面会に始まり、拘置所内での処遇改善を求める申し立て、3人を日本に連れてくるのに関与したブローカーらに対する告発状提出、スナックの日本人経営者に対する未払い賃金請求訴訟の支援、さらには講演会シンポジウムの開催、事件を描いた演劇の上演、3人の手記をもとにした書籍の出版などの啓蒙活動を広く行った[5]。裁判支援と啓蒙活動を両輪で進める支援活動は当時珍しく[5]、支える会の活動は、下館事件の前後に、道後愛媛県)、新小岩東京都)、茂原千葉県)、桑名三重県)、市原(千葉県)、四日市(三重県)などで相次いだ同様の事件での支援活動のモデルとなった[11]

また、控訴審判決では、捜査段階での通訳人は、日常生活で日本語で意思疎通でき一般常識程度の法律知識があれば足りるとされた[12]。これは、捜査段階における通訳人に必要とされる能力について判示した裁判例として知られている[12]

背景

被害者

被害者は、当時28歳のタイ人女性Xであった[20]。彼女は1983年昭和58年)ころから来日するようになり[20]不法残留や不法入国などで2度の強制退去処分を受けていたが1986年(昭和61年)4月に日本に入国していた[21]。事件当時は、日常会話程度であれば日本語を話すことができた[21]

日本では、タイから連れてこられた女性を暴力団関係者などのブローカーから買い取り[22]、彼女らにスナックでの売春を強要して、その金をタイの両親に送金していた[23]。事件当時は、茨城県真壁郡協和町(現筑西市)のスナックに勤め[20]、同スナックの日本人経営者Y1が借りていた下館市アパートの1号室に住んでいた[20][24]。この2Kのアパートで7人のタイ人女性とともに寝起きし[20]、同スナックでの売春を管理していた[21]。また、2号室にも同程度のタイ人女性を住まわせ[20]、多いときには十数人を支配下に置いていた[25]

加害者

来日の経緯

加害者A

加害者Aは、事件当時25歳であった[20][23][26]タイ北部チェンマイ近郊のバンコワで[26]農業を営む両親の[20][27]次女(末娘)として生まれた[26][27]。農家とはいえ農地は持たず、耕作するのはもっぱら借地であり、一家の生活は苦しかった[20][28]。Aは小学校を卒業すると両親の農業を手伝った[20][26][29]。その後、遠方の店舗や工場などに出稼ぎに出たり、実家に戻って農業を手伝ったりしていたが[30]、1989年2月に[26]出稼ぎ先で知り合った消防士の男性と結婚した[26][31]。とはいえ、Aは結婚して仕事を辞めていたため夫婦の生活は決して余裕はなく、結婚後は実家への仕送りはできなくなった[31]。結婚して1年ほど過ぎたころからAは病院の掃除の仕事を始めた[31]。ここで「高校を卒業していれば看護助手になれる」と聞いたAは[32]夜間中学に入学した[26][32]

一方、Aの両親は、Aが結婚する直前から新しい家を建てようとしていた[25][31]。しかし、資金不足から建築は遅々として進まず[25]、屋根や壁こそあったものの室内の仕切りはなく、浴室寝室もなく、家財道具も満足になかった[33]。また、父親は長く喘息を患っており、母親も足腰が悪くなっていた[34]。タイでは伝統的に子どもたち、特に末娘が親の面倒を見る習慣があり[25]、Aは何とか仕送りをして両親に少しでもましな生活を送らせてやりたいと考えるようになっていた[33]。そんな折、知り合いから「日本に行って働かないか」と誘いを受ける[26][35]。日本でレストランウェイトレスとして働けば1か月に15,000バーツ稼げるという話であった[25][36]。Aは家族と相談した上で、中学校は卒業直前の最後の学期を残して中退し、訪日を決めた[25][26][37]

バンコクで知り合いの知人を紹介され[38]パスポートビザ取得の手続きや必要な費用はすべてこの知人が負担した[39]。Aは90日間の観光ビザを取得すると[40]1991年平成3年)3月16日、バンコクで紹介された知人とともにバンコク国際空港からの日本航空機で日本に入国した[41]成田国際空港に到着すると、バンコクを発つときに渡されたパスポートと見せ金の23万円を取り上げられ[42]、Aはともに入国した タイ人女性らとバスタクシーで連れまわされた[43]。そして、バンコクで紹介された知人から何人かの手を渡り、最終的にともに入国したタイ人女性一人とともにXに引き渡された[43]。その際、Aは、Xから最終的にAらをXに引き渡した人物に対して150万円の現金を渡しているのを目撃している[25]。XはAらに「渡航費や日本での4か月分の家賃、食費などで350万円貸してある」と言い[24][44]、売春で借金を返済するよう言い渡した上で[44][45]千葉県佐原市(現香取市)のアパートに連れて行かれた[40][44]

加害者B

加害者Bは、1966年1月生まれ[40]。長女であったが、7歳の時に父と死別している[40]。Bはもっと勉強したいと思っていたが父親のいない家庭では経済的に許されるはずもなく[46]、地元の学校を卒業後はバンコク市内で店員として1年間働いた[40][47]。その後、ナコンパトムの織物工場に移り[40][48]、給料の半分は実家の母への仕送りに充てていた[48]。Bは同じ工場で働いていた男性と知り合って結婚した[40][46]

このころ、Bは工場に出入りする者から日本の工場で働かないかと誘われた[40][48]。渡航には350万円が必要になるが2か月働けば返せるという話であった[40]。Bに相談された夫は本心ではBを日本に行かせたくはなかったが、強く反対はしなかった[49]。Bはバンコク市内の会社を訪れ、日本のラジオテープレコーダーを製造する工場での仕事だと聞かされて訪日を決めた[49]。この会社が費用を負担してパスポートやビザを申請し[50]、観光ビザを入手すると、1991年(平成3年)8月12日にオリンピック航空の旅客機で日本に向かった[40]。同じ飛行機には、同じ会社の仲介で日本に向かう5名のタイ人が同乗しており[40]、その中に、後にともに事件を起こすCもいた[40][50]。BとCは機内で言葉を交わし、Cは日本でウェイトレスをすると話し、Bは工場で働くと答えた[49]

日本に着くと、日本まで同行したバンコクの会社の者に「なくすと仕事ができないし帰れなくなるから」とパスポートを預けるよう求められて従った[51]。その後、4日間ほどホテルなどを転々とし、最終的にBはCとともに「自分のところには工場の仕事もある」などと言うXに引き渡されて[52]茨城県下館市に連れてこられた[44][53][54]

加害者C

加害者Cは、1961年9月に生まれた[40]。10歳で父の実家に預けられ[40]ラムカムヘン大学に進み[55]法学部で学んだ[25]。しかし、3年次のときに[40]父の実家が火災に罹災したため中退している[40][55]

Cは、大学中退とほぼ同時期に軍人と結婚し[40]、一女をもうけたが[40][55]、後に離婚している[40][55]。Cは娘を両親に預け、デパートの店員やホステス、さらにカフェ歌手として働いた[55]。しかし、病気がちの両親や小学校に入学したばかりの娘の教育費などを考えると[25]、もっと割のいい仕事が必要であった[40][56]

1991年4月ころ、友人からの紹介で、日本での仕事を紹介してくれるというバンコクの会社を訪れ[57]、日本のレストランで1日2時間働けば時給1,000円になるという話を聞いて訪日を決めた[25][57][58]。Cは90日間の観光ビザを取得し[53]、Bらと一緒に[53]1991年(平成3年)8月12日にオリンピック航空で日本に入国した[40]。その後、Bと同じ経緯で下館市に連れて行かれた[44][53]

日本での生活

Aの連れて行かれた千葉県佐倉市アパートには、20数人のタイ人女性が暮らしていた[44][59]。Aは佐倉市に着くとすぐにXにシャワーを浴びるように言われ[60]、そのまま迎えの車で佐倉市内のスナックに連れて行かれて[40][61]、その日から日本人客に売春を強要された[40][44][61]。しかし間もなくXとスナックの経営者との間で金銭トラブルとなり[24]、XはAらを引き連れて別の店に移り、さらにいくつかの店を転々とした[44][62]。そして、1991年平成3年)5月下旬に下館市内のアパートに落ち着き[40][44]、ここから車で10分ほどの[24]隣町の真壁郡協和町のスナックに通って客をとらされた[44][63]。同年8月15日の夜にはBとCもこのアパートに連れてこられ[44][64]、翌日から、Xに「タイからの渡航費などで350万円貸してある。だからしっかり働いて早く返せ。客と売春すれば工場なんかで働くより早く返せる」[65]などと言われて[25]、協和町のスナックで売春を強いられた[25][44][66]。加害者らは、Xから日常的に暴言や暴力を浴びせられ[25]、少しでも反抗的な態度を見せると殴る蹴るの暴行を受けた[65]パスポートIDカードは取り上げられ[25][65]、「逃げたら殺す」[67]「タイの両親も殺す」[65]「殺し屋を雇うのは簡単だ」[67]などと脅迫されていた[65][67]。特に、「逃げたら親も殺す」という脅しは、子どもが親を不幸にすれば来世で報いを受けるとする仏教が生活に根付いているタイ人にとっては深刻なものであった[68]

さらに、Xやスナックの日本人ママY2(同スナックの日本人経営者Y1の妻)は「警察やくざは友達」などと言っていたため、加害者らは警察にも頼れなかった[67][69]。アパートからスナックへはY1などが運転する車で移動し[24]、それ以外の外出は買い物でさえもXと一緒でなければ許されないという監禁状態であった[25]。タイから届いた手紙は捨てられ、国際電話を掛けただけで厳しい叱責を受けることもあった[65]

こうした状況の中、加害者らは体調が悪い日も生理の日も売春を強要された[65][67]。日本人客からは屈辱的な行為を要求され[44][67]、断ると暴力を振るわれ[68]、さらに加害者に「サービスが悪い」とクレームを入れられて加害者からも暴言や暴力を浴びせられた[14][68][70]。スナックでのホステスとしての賃金は支払われず[44][67][71]、2時間2万円、泊まり3万円の売春代金は借金返済の名目ですべてXが受け取っていた[65][67]。下館市のアパートの家賃は5万2千円で、この部屋に8人で住んでいたにもかかわらず[25]、一人2万5千円が家賃として借金に加算されていた[25][72]。そのほかに食事代や衣装代から外出時の缶ジュース代までもが借金に加算された[25]。さらに、日本人はやせた女が好きだからと1キロ太ったら2万円[67][73]、3日間客がつかなかったら2万円[67]、7か月たっても借金を完済できなかったら10万円などの罰金が上乗せされ[21][44][74]、借金は容易に減らなかった[67]。加害者らが自由に使えた金は客からのチップだけであったが[21][44]、それもXに見つかれば取り上げられて借金返済に充てられた[67][75]

Xはタイ人同士で話しているのを見ただけで、逃げる計画をしていると勘違いして口汚く罵り、殴りつけることもあったため[21][74]、同じアパートで暮らしていながらタイ人同士で会話を交わすことも少なく、お互いの本名も来日の経緯も知らなかった[21]。それでもAとCは、ある日Aが「辛いねぇ」と漏らしたことをきっかけに親しくなり[21]、時にはXを殺したいとまで言いあうようになっていた[76]。しかし、Xが不在の日に二人が買い物に行ったことを知ったXは、二人が親しくすることを禁じて[68][74]二人が同じ部屋で寝ないよう[68][74]CにXと同じ部屋で寝るよう命じ[44][77]、スナックでも常に監視するようになった[68]。また、Bは同じ飛行機で来日したCを何かと頼りにし[68]、何かあったら二人で一緒に逃げようと話すこともあった[78]

事件発生

犯行

1991年平成3年)9月28日の夜、BとCは2人組の客に買われ、それぞれ同じホテルでの売春を終えて[78]、翌29日3時ころ[44]一緒にアパートに戻った[78]。アパートには、Xと、この日は客の付かなかったAがおり[78]、他のタイ人女性は泊まりの客が付いたなどで不在であった[68]

29日6時ころ[44][79]、AはCを起こし「逃げよう」と声を掛けた[68]。CはBを起こして仲間に加えたが、AはBも一緒に逃げるとは考えておらず、CがBを誘ったことを不審に思ったと後に語っている[68]。7時ころ[44]、3人はありあわせの凶器を持ち寄って寝ているXに近づいた[44][68][80]。Aによれば、この時、部屋に飾ってあったタイ国王の写真に向かって手を合わせ、「もしXの運命もこれまでなのならば、どうか静かに眠ってください」と祈ったという[80]。Xが寝返りを打って上を向いた瞬間、まずBが果物ナイフをXの首の右下に突き刺した[44][81]。次いでAが酒瓶でXの頭部を強打し、酒瓶は割れて飛び散った[44][81]。その後3人はさらに包丁でXを執拗に攻撃した[44][81]

Xが動かなくなると[5][44]、3人はXがいつも肌身離さず持ち歩いていたウェストバッグとカバンなどを奪った[5][44][68]。3人はこの中に自分たちのパスポートが入っていると考えていた[68]。さらに、Xが身に着けていた貴金属を外して持ち去った[44]。そして、急いで自分たちの荷物をまとめるなどして[44][80][81]、一部はXの返り血を浴びた服のままアパートから逃げ出した[4]。うち1人はパジャマであった[68][80]アパートから逃げ出した3人は、近所のスーパーマーケット公衆電話からタクシーを呼んだ[44][81]。そして、Aが以前に働いていた茨城県つくば市スナックに向かった[44][81]。しかし、店は閉まっていたため[44][81]、3人はAがそのスナックでの売春で利用していたラブホテルに入った[4]。そこで血の付いた服を着替えるなどした3人は[4][44][82]、入室してわずか20分後の9時15分ころ[4]、再度タクシーを呼んだ[4][44]。3人は日本の地理は不案内で、どこに逃げたらいいのか全く分からなかった[82]。3人は、Aが以前の店で客からもらっていた名刺をタクシー運転手に示し[4][82]、運転手はそこに記された市外局番を頼りに千葉県市原市に向かい[4][82]、市原市五井ビジネスホテルで3人を降ろした[4]

3人は11時30分ころ[44]ホテルにチェックインするとシャワーを浴びてホテル備え付けの浴衣に着替え[44][82]、途中で買った弁当を食べた[83]。また、Xの血が付いた貴金属類を洗うなどしていた[44]。そして、Xから奪ったカバンなどを開けると、そこには3人のパスポートとともに[68]約700万円もの現金が入っていた[44][68][83]。3人はそれを分け合った[44][83]

捜査

下館警察署(現筑西警察署

事件は、同居していたタイ人女性が帰宅したことで発覚した[4]。この女性はすぐに隣のマンションに住むY1に伝え、Y1は直ちに自分の車でXを下館市内の病院に連れて行ったが、Xはすでに死亡していた[4]。発見当時、Xの右頸部には果物ナイフが突き刺さったままであった[4]。なお、後日Xの遺体は行旅病人及行旅死亡人取扱法にもとづいて火葬された後、その遺骨は11月末になって身元を確認した父親と妹によって引き取られた[4]

事件発覚を受けて茨城県警察は緊急手配を敷いた[20]。早くも事件当日の1991年平成3年)9月29日午後には、3人を市原市ビジネスホテルに運んだタクシーの運転手から情報が寄せられた[20]。ホテルの支配人に問い合わせると、確かにタイ人らしい不審な女性3人が滞在しているということであった[44]。ただちに下館警察署の警察官と市原警察署の警察官がこのビジネスホテルに向かった[4][20][44]

13時ころ、市原警察署の警察官がホテルに到着した[44]。警察官はホテルの支配人と部屋へ向かい、ホテルの支配人が部屋のドアをノックしたが反応がなかったため[44]、捜査令状はとっていなかったがマスターキーで鍵を開けさせて室内に入った[44][84]。部屋に入ると、警察官は3人に英語パスポートの提示を求め、3人からパスポートを受け取った[44]。13時25分ころには下館警察署の警察官も到着し、英語や身振りを交えて所持品を見せるよう求め、バッグの中に血痕の付着している衣類や貴金属類を発見した[44]。そして、3人に身振り手振りで服を着替えるように指示し[84]、英語や身振りで任意同行を求めた[44]。3人は特に抵抗することもなくこれに従った[44]

14時ころ、3人を乗せた捜査車両はホテルを出て市原警察署に向かった[44]。3人をホテルまで運んだタクシー運転手に面通しさせるためであったが、市原警察署に着くと、面通しはつくば中央警察署で行うとの連絡が入り、すぐにつくば中央警察署に向かった[44]。つくば中央警察署でタクシー運転手から、つくば市のホテルから市原市のホテルまで乗せた3人に間違いないとの証言を得た後、3人は下館警察署に連行され、17時5分ころ到着した[44]。下館警察署では、通訳人を介して事情聴取が行われ、所持品を任意提出させて領置手続きをとった[44]。3人は、22時30分ころ強盗殺人の容疑で緊急逮捕され[4][44]、10月21日に同罪で起訴された[20][44]

支える会の結成

事件が新聞で報道されると、これを見た真宗大谷派僧侶である杉浦明道がいち早く支援に動いた[5]。杉浦は、1988年昭和63年)に名古屋入国管理局からの依頼を受けて自殺未遂を起こした仏教徒タイ人女性を寺で約1か月間保護したことをきっかけに、「滞日アジア労働者と共に生きる会」(あるすの会)の事務局員・「仏教国際連帯会議」の女性問題担当としてタイ人女性の支援に関わっていた[85][86]1989年平成元年)には、愛媛県松山市で発生した同様の事件道後事件の支援活動を行った経験もあった[5]。また、同じく新聞報道で事件を知った「つくばアジア出稼ぎ労働者と連帯する会」のメンバーも、10月1日に下館警察署を訪れて面会と差し入れを行っている[20]

杉浦や「連帯する会」のメンバーらは、女性の家HELPの顧問弁護士であった加城千波に弁護を依頼したことを皮切りに、支援体制を構築していった[5][20]。加城は10月11日に加害者と初めて接見したが、ここでBから強制売春の実態を聞かされて衝撃を受けた[87]。さらに、3人は強盗目的や事前の謀議は強く否定した[88]。加城弁護士は、その内容を取り調べで供述することと、自らが話していない内容の調書には署名せず訂正を求めるよう助言した[87]。これに対して彼女らは、調書には自分たちの主張通り書かれているから大丈夫だと繰り返し述べた[87][88]

1992年(平成4年)12月には、「アジア出稼ぎ労働者を支える会」「アジアの女たちの会」「仏教国際連帯会議日本会議」などが呼び掛けて「下館事件タイ3女性を支える会」(支える会)が結成され、在日外国人を支援している様々な民間団体が参加した[5]

第一審

一審の経過

起訴後に開示された供述調書は、弁護団らによってタイ語に翻訳されて3人に渡された[88]。そこには、事前に被害者を殺して金を奪って逃げようと相談して実行したと、3人の主張とは異なる内容が記載されていた[88]。3人は驚き、弁護団に対して「こんなことは言っていない」「『殺しました』『バッグを持って逃げました』と言っただけだ」と供述調書の内容を否定した[88]1991年(平成3年)12月18日、水戸地方裁判所下妻支部で初公判が開かれ[4][87]、3人は罪状認否で「お金をとるために殺したのではありません。逃げるために殺したんです」と強く主張し[4][87]、「強盗殺人」とした起訴状の一部を否認した[17]。弁護団も、場当たり的な犯行や逃走過程からも事前に共謀した事実は認められず[7]、また、「殺害以前に金品を奪う意思はなく、強盗殺人は成立しない」として殺人窃盗であるとし[7][87][89]、殺人は、人身売買暴行強姦の被害から逃れるためのものであり、「合法的な手段での逃亡や救出を期待できない状況下の正当防衛である」と主張した[7][87]。さらに、1992年(平成4年)2月12日の第2回公判では、弁護団が意見書を提出し[7]市原市ホテルで客室や所持品を調べた際に捜索令状もなく警察手帳の提示もされなかったこと[7]通訳が同行していなかったため下館警察署への連行が任意であることも伝えていないことなどから[7][90]検察官が証拠申請している供述調書や3人の所持品は違法に収集されたもので証拠能力がないと主張するなど[7][90]、裁判の冒頭から検察側・弁護側は激しく対立した[7]

7月1日の第6回公判、8月19日の第7回公判には、スナックの日本人経営者Y1とY2が証言に立った[91]。2人は、スナックでは売春行為は厳禁だったと証言した上で[92][93]、スナックの従業員には時給3,000円を払っており[8][93][94]、3人の給料も被害者に渡していたと主張した[8][93]。さらに、被害者と3人は親子のような関係で、時に厳しく接することもあったが[95][96]、事件当時は外出も比較的自由だったとして、3人が監禁状態だったことを否定した[97]。この証言に対して、3人や弁護側は、客が従業員を連れ出す際には店に迷惑料として5,000円を払っており[98][99]、被害者がいないときはY2が代わりに売春代金を受け取っており[100][101]、何より客を売春に誘う言葉を教えたのは経営者らであるとして[100][102][103]、経営者らが売春行為を強いられていたことを知らなかったはずがないと反論している[103]

3人の取り調べには、留学生を含む地元に住む多くのタイ人通訳人として関わっていた[88]1993年(平成5年)2月17日の第13回公判には、取り調べ段階でのCの通訳人が証人として出廷した[97]。このタイ人の通訳人は、メモも取らずに正確に訳したと証言したが[104]、「供述調書の意味が分かりますか?」と問われて、「わかりやすいセツメイ、してもらえますか。わかりません。」と答えた[87]。さらに、Aを担当した別の通訳人は、日本の刑事手続きについては「知りません」と述べ[87]、「『(被害者)を殺したあと現金や貴金属を奪おうと考えた』という文の意味が、『点』をどこに打つかによって二通りの意味になることがわかりますか?」との質問への答えは「イミ、ひとつ。(被害者)死んでる」であった[104]。弁護側は、取り調べ時の通訳人は著しく能力や適性を欠き[89][90]、供述調書はこうした通訳人を通じて誤った内容が記載されたものであるので、供述調書は信用性に欠けると強く主張した[105]。なお、この時Cは「3人が事前に共謀していたと話していたことははっきり覚えている」旨を証言したが、それは「今回証人に立つにあたって、検察から事前に話を聞いた」「今日午前中に検察に行って、検察官から『3人が事件の前に相談をしていたことを覚えていますか?』など、事件についてある程度説明され、そのことが記載されている調書を見せてもらったから」であると述べている[106]

その後、支える会のメンバーの証人尋問などを経て[19]、9月22日の第18回公判以降被告人尋問が行われて第1審の審理を終えた[19]

論告求刑

1994年平成6年)2月6日、第23回公判が開かれ、検察論告求刑が行われた[8][94][95][107]。その内容は、3人の法廷での主張を「弁解のための弁解」であると否定し、供述調書とY1・Y2の証言に拠るものであった[107]

論告では、まず取り調べ時の通訳人について「日本に長期間(短い人で六年間)滞在し十分な通訳能力を有する」と主張し[107]、取り調べ時の通訳人は能力・適正に欠け供述調書には任意性・信用性がないとする弁護側の主張を、「取調べ及び読み聞け時の通訳が客観的かつ正確になされたことは、被告人らの取調べに立会通訳した、四名のタイ人通訳の当公判廷での証言で十分証明されている」と一蹴した[95][107]。供述調書の内容も「内容的にも無理がなく自然なもの」で高い信用性がある一方、被告人らの法廷での「殺害後に初めて財物奪取の意思を生じた旨の弁解は極めて不自然で、到底信用することはできない」と主張した[108]。また、弁護側の正当防衛の主張については、被害者は就寝中に無防備な状態で一方的に殺害されたもので「(被害者)による被告人らに対する急迫不正の侵害など全く存在しなかったことは明らかである」と反駁し[109]、違法捜査の主張にも、「捜査にあたった警察官は適法な捜査をして」いるとして、問題ないとの認識を示した[110]

そして、3人は「売春の明確な目的を持ち若しくはその覚悟で」不法に入国し「逃走資金と多額の利得を得るために、同じタイ国女性である(被害者)を殺害し、現金や貴金属を奪い取ったもの」であると断定し、「犯情は悪質で、被告人らの本件犯行動機に酌量の余地はない」と強調[110]。計画的犯行で、犯行態様も「冷酷にして残虐なもので、極めて悪質」とし[111]、さらに、「スナックで稼働していたタイ人ホステスが、タイ人抱え主(ボス)を殺害し、金品を強奪した事件として新聞などに大きく取り上げられ、社会的影響も大きい」[111]「被告人らのように売春に従事するタイ人ホステスに限らず日本に残留する不法就労者」と「それら外国人による犯罪も増加の一途をたどっている」と指摘し[112]、「それら外国人に対する一般予防の見地も十分に考慮に入れ、司法の厳正な処罰が要請される」として[8][112]、3人に対して無期懲役を求刑した[8][95][112][113]

この論告求刑に対して、弁護団や支える会は 、「タイ人は売春婦だ。好きで売春しているんだ。外国人は犯罪を犯すのがあたりまえ」という差別的な偏見に基づく[114]「驚くべき排外主義的な見解」であると反発した[8]

最終弁論

1994年平成6年)3月30日の第24回公判で、弁護側の最終弁論が行われた[8][115]。弁護団は、改めて、金品を強奪することが目的の強盗殺人ではなく殺人及び窃盗であること、殺人については人身売買強制売春から逃れるための正当防衛であること、窃盗についても証拠品は違法収集されたもので証拠能力がないことを主張し、無罪を求めた[8][9]

弁護団は、まず「下館事件を正しく評価するためには、まず被告人らが受けたこの想像を絶する恐怖、絶望、悲しみ、苦しみ、そして痛みを、同じ人間として理解することが必要である。被告人らの受けたこれら甚大で深刻な被害は、下館事件の重要な背景であるとともに事件の本質でもあり、これを抜きに論ずることはできない」として、人身売買と強制売春の実態から論じた[116]。国際的な人身売買組織とタイ人女性を日本に送り込むシステムの存在を指摘し[117]、「売春の強要」は被告人らの立場から見れば「強姦の被害」であり[118]、そこからの脱出や救出は現実的に極めて困難であると主張した[119]

そして、被告人それぞれの来日に至る経緯や来日後の状況を述べた後[120]、強盗殺人罪で無期懲役を求めた求刑に対して、検察は被告人らが国際的人身売買の被害者であるという事件の本質を否定ないし無視しており[121]、「かりに捜査段階での自白調書をすべて信用するとしても、犯行動機は『被害から逃れること』であり」「重刑を規定した法が予期している『強盗殺人罪』とは異質な犯行であることは明白である」と主張[122]論告の言う「一般予防の見地」「同種事犯の再発を防止するため」とは、被告人らと同様の状況に置かれている人身売買の被害者に対して「『逃亡を企てるなどすべきでない。被害に甘んじるべきだ』と言っているに等しい」と批判した[123]。さらに、事件の過程で莫大な利益を得た人身売買組織のブローカーやY1・Y2といった事件の背後にいる巨悪を放置し、「三女性のみを処罰したり、重刑で臨むことがいかに法の正義にかなわないことか、一見して明白である」「この事件を女性たちと(被害者)との関係にのみ集約することは許されない」と指摘した[124]

最後に、「犯行の動機は、最大限に情状酌量されるべき」[125]「周到な計画的犯行であるとは到底言えない」[126]「彼女たちに前科前歴は」なく「再犯のおそれはまったくない」[127]などの情状を述べた上で、改めて無罪を訴え、「正義にかなった判決」を求めて最終弁論を終えた[9]

一審判決

1994年平成6年)5月23日[10][19][95]、14時過ぎから判決公判が開かれた[10]。小田部米彦裁判長が言い渡した判決は[95]、「被告人三名をそれぞれ懲役一〇年に処する。未決勾留日数のうち八〇〇日をそれぞれの刑に算入する」であった[10][112]

判決は、まず、捜査段階での通訳人の能力について、「これまで相当回数にわたり法廷外における通訳を経験している者であり」[128]、「通訳の正確を期しており、被告人らの述べる言葉、取調官の質問を適当に省略したり、故意に誤訳したりなどしたような形跡は窺われない」[128]「被告人らの立場を理解し、これに同情を寄せている者で、敢えて被告人らに不利に、事実を曲げて通訳をするなどと言うことは到底考えられない」[128]などとして、「通訳の正確性、公正性に疑いを差し挟む余地はない」[128]と弁護側の主張を退けた[95]。また、供述調書の任意性については「任意性を疑うべき余地は全くない」[128]、信用性についても「具体的かつ詳細で、迫真性、臨場感に富んでおり」[129]「前後矛盾なく、極めて自然、かつ、合理的である」[129]「客観的な事実関係や諸状況ともよく符合している」[129]などから「信用性は優にこれを認めることができる」[129]、押収品などが違法収集されたもので証拠能力がないとの主張は「一連の手続きに何ら違法とすべき事情は認められず」[130]「証拠能力を否定すべきいわれは全く存しない」[129]などとしていずれも弁護側の主張を退けた[130]

最大の争点であった金品を強奪する意思の有無についても、「被告人ら三名は、(被害者)を殺害してパスポートや現金、貴金属等を奪うことについて最終的に意思を通じ合い、前記認定どおりの犯行に及んだ」と認定し[131]、「被告人ら三名の間に、本件共謀が成立したもの、と認めるのが相当である」とした[132]。さらに、正当防衛の主張についても、被害者が就寝中の犯行であることから「急迫不正の侵害が現存しなかったことはもとより、防衛の意思すら存在しなかったものであることが明らかであって、正当防衛の概念を入れる余地は」ないとして[132]、これも弁護側の主張を退けた[133][134]

その上で、「翻って本件をみるに、その発端、要因は、非合法なルートを通して被告人らを買い取った被害者において、法外な利益を収めようとして、被告人らに有無を言わせず、前述のような人権を全く無視した非情、苛酷な扱いをしたことにあるのであって、責められるべき点は被害者の側にも多々存するといわなければならない」[135]「被告人らは、無法な人身売買組織の手にかかり日本に入国し、法外な値段で取引の対象とされ、被害者の管理下に置かれ、(中略)その精神的、肉体的苦痛、屈辱、不安は極めて大きかったものと思われる」[135]などとし、特にAは6か月の長期にわたってこのような状況に置かれ「その間の苦痛、屈辱等も想像を絶するものがあったと思われる」と指摘[135]。「広く各地で、右同様、外国人女性に対し被告人らに対すると同様の行為を強いて暴利を得るなどしている者らに対し、改めてその非を悟らしめる契機となったであろうことも優に窺われるところであり、この点も、被告人らの情状を考えるにあたって看過することはできない」などの情状を認定して[135]、「無期懲役刑を選択し、酌量減軽のうえ、被告人らをいずれも懲役一〇年に処する」と判断した[136]

人身売買と虐待の事実を認定し、死刑または無期懲役が法定刑の強盗殺人に対して情状酌量して懲役10年とした判決を、マスコミ各社は「温情判決」と伝えた[8][95]。しかし、裁判長が判決理由の朗読を終え法廷通訳人がタイ語で要旨を読み上げると、被告席からの嗚咽の声が法廷に響いた[10]。3人は何より「強盗殺人」と認定された判決に納得できなかった[113][133][137][138]。6月6日[10]、3人は東京高裁に控訴した[10][19]。支える会の中心メンバーの一人である千本秀樹は、「仮に量刑がもう少し重くても、殺人および窃盗とされていれば、控訴するかどうかについて、もっと悩んだのではあるまいか」と3人の心情を忖度している[138]

支援活動と民事訴訟

支援活動の広がり

脚注

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  1. ^ a b 岡村 1992, p. 130-131.
  2. ^ a b 千本 1994, p. 76-80.
  3. ^ 加城 1994, pp. 38-40.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 岡村 1992, p. 132.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大野 2007, p. 88.
  6. ^ a b c 支える会 1995, p. 217.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 岡村 1992, p. 133.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 千本 1994, p. 84.
  9. ^ a b c 支える会 1995, p. 195.
  10. ^ a b c d e f g h i 千本 1994, p. 76.
  11. ^ a b 大野 2007, p. 86.
  12. ^ a b c 田中 2006, p. 20.
  13. ^ 支える会 1995, p. 203.
  14. ^ a b 大野 2007, p. 87.
  15. ^ 岡村 1992, pp. 128-129.
  16. ^ 千本 1994, pp. 77-79.
  17. ^ a b 岡村 1992, pp. 132-133.
  18. ^ 田中 2006, pp. 19-20.
  19. ^ a b c d e 支える会 1995, p. 219.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 千本 1994, p. 77.
  21. ^ a b c d e f g h 岡村 1992, p. 130.
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  26. ^ a b c d e f g h i 岡村 1992, p. 125.
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参考文献

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  • 寺川潔「下館事件 ―囚われの法廷―」『刑事弁護』第4号、現代人文社、1995年、82-86頁。
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  • 杉浦明道「人権に学ぶ ―タイ女性の救援活動を通じて―」『「人権問題」学習』第3期第2回、真宗 大谷派 名古屋教区第30組、2008年。
  • 齋藤百合子「人身取引被害者の帰国後の社会再統合の課題 ―日本から帰国したタイ人被害者による自助団体の活動からの考察―」『「人身取引」諸問題の学際的研究』、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2014年。

関連項目