ライン川

ライン川
ライン川 2004年7月20日撮影
ライン峡谷(スイスグラウビュンデン
延長 1,233 km
平均の流量 2,300 m³/s
流域面積 185,000 km²
水源 スイスヒンターライン
水源の標高 1,602 m
河口・合流先 北海
流域 スイスの旗 スイス
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン
 オーストリア
ドイツの旗 ドイツ
フランスの旗 フランス
オランダの旗 オランダ
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ライン川の流域地図
ローレライ

ライン川(ラインがわ、:Rhy / : Rhein: Rijn: Rhin: Rhine: Rhenus)は、ヨーロッパを流れる

スイスアルプストーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツフランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボンケルンデュッセルドルフクレーヴェなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川レク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。

全長1,233キロ。そのうちドイツを流れるのは698キロである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語名詞には男性名詞と女性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。

概要

下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。

ライン川流域のマインツからコブレンツの間は「ロマンティック・ライン」と呼ばれ、川辺に立つ数々の古城中世の香りを醸し出している。城がこのように狭い地域に立ち並ぶ様は非常に珍しく、その理由は川を行き来する船から通行税を取るために、領主たちがこぞって城を建てたためで、いわば城は税関であった。先を急ぐ観光旅行の場合はその内のリューデスハイムからザンクト・ゴアール間のおよそ2時間の船旅を利用する。ハイネの詩「なじかは知らねど…」で有名なローレライの岩山は「ロマンチック・ライン」のシンボルとして有名である。この流域はユネスコ世界遺産に登録されている。

なお、ライン川本流にあるは、スイスシャフハウゼンにあるライン滝だけである。

地理

ライン川は、源流域、アルペンライン、ボーデン湖、高ライン、上ライン、中ライン、下ラインといったいくつかの地域に分けられる。トーマ湖から流れ出るライン源流はフォルデルライン(前方ライン)と呼ばれ、70km下流のライヘナウで、南のラインヴァルトホルン山から流れてくるもう一つの源流、ヒンターライン(後方ライン)と合流する。ここまでがライン川の源流域といえる。トーマ湖からライヘナウまでの70kmで標高差は1700mあり、ここまでの流れは非常に激しい。

ライヘナウで合流してからはラインはほぼ北に流れ、リヒテンシュタインおよびオーストリアスイスの国境を一部なした後、ボーデン湖へと流れ込む。ここまでのラインをアルペンラインと称する。

いったんボーデン湖に流れ込んだライン川は西へと向きを変え、シュタインから流れ出しバーゼルへと向かう。バーゼルまでの区間を高ラインという。この区間の中央部に位置するスイスのシャフハウゼンには、ライン本流唯一の滝であるライン滝がある。

バーゼルで、ライン川は再び向きを北へと変える。バーゼルからは流れも穏やかになると同時に水量も増え、ここから河口までは3000t級の船の往来ができる。そのため、バーゼルはスイス唯一の国際貿易港となっており、スイスの貿易のかなりの部分がこの港を通して行われる。

バーゼルからはライン川はフランスドイツの国境をなしたのち、マインツマイン川と合流する。ここまでが上ラインと呼ばれる。マイン川をさかのぼると、1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。

マインツからボンまでは中ラインと呼ばれる。この地域は丘陵に囲まれた中を流れ、特にマインツからモーゼル川の合流するコブレンツまでの間は風光明媚なことで知られ、多くの観光客が訪れる。中ラインの中ほどには難所として知られたローレライがある。

ボンから下流になると丘陵は姿を消し、広々とした平野の中を流れるようになる。ここから河口までを下ラインと呼ぶ。この下流域には、ケルンデュッセルドルフを中心とするルール地方の諸都市といった大都市が集中し、工業地帯となっている。なかでもルール地方西端でラインに面するデュースブルクはルールの玄関口となっており、ヨーロッパ最大の内陸港となっている。

ルールを過ぎるとライン川は西へと向きを変え、オランダに入る。オランダ領ではライン川はいくつもの支流に分かれ、網の目のようにオランダ南部に水路を広げる。もっとも大きな支流はワール川である。河口近くのゼーラント州付近のライン川はしばしば大氾濫を起こし、また北海の高潮でも大被害を受けることが多くあったが、1953年の大洪水を機にライン川・マース川・スヘルデ川の三角州地域の河口をすべて塞いでしまう、デルタ計画と呼ばれる大治水工事が1958年に開始され、1986年に完成した。この計画によって、主要港であるロッテルダム並びにアントウェルペンを除くすべての河口が堤防または可動堰によって有事には閉塞が可能になり、両主要港沿岸の堤防は大幅にかさ上げされた[1]1986年に完成した。河口近くにはロッテルダムがあり、ユーロポートはラインの河川水運と北海や大西洋の海運の結節点として、ヨーロッパ最大の港となっている。

レース(オランダ)におけるライン川の流量(m³/s)
1930年から1997年の平均データ)[2]

歴史

古代

古くはライン川を境界として、西岸はケルト人、東岸はゲルマン人が主に居住していた。しかしユリウス・カエサルのガリア侵攻によって西岸はローマ帝国領となり、ライン川はローマとゲルマンの境界となった。彼を継いだローマ皇帝アウグストゥスはライン東岸へと侵攻したものの、9年トイトブルク森の戦いにおいてローマ軍は敗北し、帝国の前哨線はライン川へと戻り、以降ローマ領が東岸に広がることはなかった。ローマ帝国はライン西岸に国境警備のための砦や駐屯地として都市を数多く建設し、これらの都市にはローマ文化が定着した。ケルン、コブレンツ、マインツなどはこの都市が元となって現在まで存続した都市である。こうした都市は川の対岸のゲルマン人たちとの交易を経済基盤としていた。各駐屯地の軍によってライン川の河川航行も安全を保障され、ライン川は交易路としても利用されるようになっていた。

中世

しかしやがてローマ帝国は衰えを見せ始め、4世紀に入ると東岸のゲルマン人がローマ国境を越え、次々と西岸へと侵入した。ゲルマン民族の大移動である。これにより西岸もゲルマン化されていき、やがてライン川周辺地域を中心として、フランク王国が勢力を拡大していく。フランク王国はカール大帝の時代に最盛期を迎えるも、その孫の代に分裂し、843年ヴェルダン条約によってライン川西岸は中部フランク王国ロタール1世に、東岸は東フランク王国ルートヴィヒ2世に与えられ、ライン川は再び国境となった。ロタール1世が855年に死去すると、中部フランク王国はさらに3分割され、ライン川西岸はロタール2世のロタリンギアに与えられた。しかしロタール2世も869年に死去すると、870年メルセン条約によってロタリンギアは東フランク王国と西フランク王国によって東西に分割され、ライン川西岸も東フランク王国領となった。

東フランク王国はやがて神聖ローマ帝国となるが、同国においては諸侯が大きな力を持ち、ライン沿岸にも多くの諸侯が割拠した。諸侯だけでなく、マインツやケルン、トリーアなどの大司教、司教といった聖界諸侯もこの地域には多数存在し、いずれも各地に城郭を建て、関所を設けてライン川を通航する商船から通行税を取り立てて財源とした。一方西方の西フランク王国はやがてフランス王国となり、徐々に中央集権化を強めて強国となっていく。この過程でフランスは諸侯の乱立するライン川沿岸へと徐々に東進し、勢力を強めていった。そうしたなかで、フランスの国境をライン川へと求める、いわゆる自然国境説がフランスで有力となっていき、以後フランスの多くの為政者がライン川沿岸にフランス国境を伸ばすことを狙うようになっていった。一方、ライン河口域においてはネーデルラント諸州が北海バルト海交易を握って経済力を強めていたが、カルヴァン派の強いこの地方はカトリック支配の強化を狙う領主のスペイン王国と対立し、1568年八十年戦争が勃発する。この戦いの中でネーデルラントはネーデルラント連邦共和国として独立し、17世紀には黄金時代を迎えた。

17世紀前半に入ると、ルイ13世と宰相リシュリューのもとでフランスは三十年戦争に参戦して、1648年ヴェストファーレン条約によってライン沿岸のアルザス南部を獲得し、ラインへの橋頭堡を手に入れる。この動きは次のフランス国王ルイ14世にも引き継がれ、大同盟戦争の講和条約である1697年レイスウェイク条約によって、フランスは要衝ストラスブールおよびアルザス北部を獲得し、以降アルザス地域はドイツ語圏であるにもかかわらず、基本的にはフランス領として推移していくこととなる。またこれにより、一部ではあるがライン川はフランスの国境となった。

近代

その後100年ほどは大きな動きはなかったものの、フランス革命が勃発し、1792年フランス革命戦争がはじまると様相は一変した。フランスはまず南ネーデルラントへ侵攻し、1794年には南ネーデルラントとラインラントをほぼ占領した。さらに1795年にはオランダを占領してバタヴィア共和国を建国させ、ライン川以南を割譲させた。同年にはバーゼルの和約によってプロイセン王国もフランスと講和し、ラインラントの諸小国はをフランス共和国へと併合された。以後20年ほどは自然国境説の通り、ライン川がフランスの国境となっていた。1806年にはフランスの圧力のもと、ライン東岸の諸公国が連合してライン同盟が設立され、ライン両岸はフランスの影響下に置かれることとなった。このときに沿岸の群小諸侯の領土はかなりが整理され、ある程度の大きさの諸公国へとまとめられていった。しかし、1813年ライプツィヒの戦いにフランスが敗れるとともにライン同盟は空中分解し、結局1815年ウィーン会議によって国境はフランス革命以前の線にまで戻り、フランスはアルザスこそ確保したもののラインラントとネーデルラントを手放した。ライン両岸には、新しくゆるやかな連合体であるドイツ連邦が成立し、ラインラントは新たにプロイセンの領土となった。

19世紀中ごろになると、資源と水運に恵まれたライン中流域、とくにルール地方が大工業地帯となった。1816年にはイギリスの蒸気船がライン川をはじめて航行し、1827年には定期航行が開始された[3]。一方、ライン川の航行に関してはギルドによる制限が1831年まで続いていた[4]が、19世紀に入るとライン川の安定航行を求める声が高まり、1831年にはフランス、オランダ、プロイセンバイエルンバーデンヘッセンナッサウのライン沿岸7カ国によってストラスブールにライン水運中央委員会が設立され、これによって協定が結ばれて円滑なライン川の航行が行われるようになった。この委員会は参加国消滅後も後継国家によって引き継がれ、また新規参加もあって、21世紀に入っても存続している。

19世紀後半になると、この地域の政治情勢は再び大きく動く。ドイツ統一への動きが高まる中、1866年の普墺戦争で勝利したプロイセンはドイツの主導権を握り、同年北ドイツ連邦を結成してライン中部の諸邦を事実上併合した。この動きに警戒心を高めたフランス帝国との間で1870年普仏戦争が起こるもののプロイセンは大勝して、1871年に南部ドイツ諸邦をも含めたドイツ帝国が成立。ドイツはライン東岸のほとんどの部分を自国領とし、さらに同年のフランクフルト講和条約においてフランスはドイツにアルザス=ロレーヌを割譲。ライン沿岸からフランスは駆逐され、下流と上流の一部を除くライン本流の大部分がドイツ領となった。

ドイツ領となったアルザス=ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)であるが、この地方はドイツ帝国政府の直轄統治下におかれ、居住するドイツ系のアルザス人の間には二級市民扱いされる不満があり、1913年にはツァーベルン事件がおきてこの地方の政治は大きく動揺する。しかし、翌年の第一次世界大戦の勃発により、この対立が致命的なものとなることはなかった。

第一次世界大戦はフランスを含む協商国の勝利に終わり、1919年ヴェルサイユ条約においてフランスはアルザス=ロレーヌを奪回し、さらにライン川左岸50kmの非武装化をドイツに認めさせた。しかしこの条約はドイツに非常に強い不満を呼び起こし、やがてアドルフ・ヒトラーナチスの台頭を招く一因となった。1936年にドイツはラインラント進駐をおこない、ラインラントを再武装化する。これに対しフランス側はライン川にほぼ沿う形でマジノ線を建設し、ドイツ側もこれに対抗すべくジークフリート線を建設して両軍は対立の度を深める。1940年にはナチス・ドイツのフランス侵攻が起こり、勝利したドイツはアルザス・ロレーヌを再び併合した。しかし第二次世界大戦はドイツの敗北に終わり、1945年にはフランスは再びアルザス・ロレーヌを奪回し、現在の国境線がここで確定した。

現在のライン川付近は、スイスとリヒテンシュタインオーストリアフォアアールベルク州の一部、およびドイツ、ドイツとフランスの自然国境となっている。

流域にある主な都市

スイスの旗 スイス

フランスの旗 フランス

ドイツの旗 ドイツ

オランダの旗 オランダ

主な支流

流域延長について

ライン川については1932年に初めて1320キロと記載された事典が出版されており、ケルン大学の学者が20世紀初頭の事典に1230キロとあるのに気づき、自分で分析したところ1233キロ前後であるとの結論を得た。百と十の位を書き間違えたうっかりミスが原因で、誤った数字が定着したとみられる[5][6]

脚注

  1. ^ 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』p125 河出書房新社、2012年。
  2. ^ GRDC - Rhine Basin Station: Rees
  3. ^ 「商業史」p184 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  4. ^ 「商業史」p180 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  5. ^ ライン川、90キロ短かった? 2010年3月29日6時52分配信・時事通信[リンク切れ]
  6. ^ 「ライン川、本当は90キロ短かった――1932年の事典が記載ミス」『朝日新聞』2010年4月1日付朝刊、第13版、第9面。

関連項目