ホウカム・ホール

ホウカムホール (: Holkham Hall[1])は、イギリスノーフォーク、ホウカム (Holkham) (英語版) 近郊にある18世紀に建てられたカントリー・ハウスである。この建物は初代レスター伯爵 (第5期) トマス・クック (Thomas Coke, 1st Earl of Leicester、1697年-1759年) (英語版)[注 1][注 2]パッラーディオ様式により、建築家ウィリアム・ケント (1685年-1748年) の設計で、建築家で貴族バーリントン伯爵 (1694年-1753年) の支援を受けて建てた。

ホウカムホール。 厳格なパッラーディオ様式によるイオニア式ポルティコのある南側ファサード

ホウカムホールはイングランドにおける最も美しいパッラーディオ建築復興様式による建物の一つであり、そのデザインの厳格さはその時期の他の多数の同様式による建築物の中で最もパッラーディオの理想に近かった。ホウカムエステートは一族の資産を最初に築いたエドワード・クック (1552年-1634年) により作り上げられた。1609年にエドワードは、ニールズ荘園 (英: Neales manor) の他、ノーフォークの不動産を多数購入した。これは、彼の6人の息子たちに与えるためのもので、結局エドワード自身はこの土地に住まなかった。彼の四男のジョンは不動産を承継し、1612年にその父の相続人のメリエル・ウィートリー (英: Meriel Wheatley) と結婚した。彼らはメリエルが相続していたヒルホール (英語版) [注 3]を居宅とし[2]、ジョンは1659年までに3つのホウカム荘園全ての完全な所有権を持つに至った。それはクック家つまりホウカムのレスター伯爵家に代々受け継がれる居宅となった。

ホールの内装は華麗なものだったが、とはいえ現代の基準から考えるといたってシンプルに飾り付けられ配置されたものである。その装飾には、プライベートルームと来客用特別室 (State room) (英語版) の両方を、前者に負担をかけることなく同じスタイルで飾り付けるという制限があった[3]:237。中央玄関はマーブル (大理石) ホールを通り、そこはダービーシャー産のピンクアラバスターで作られている。それはピアノ・ノビーレと一階の来客用特別室に繋がっている。これらの部屋の中で最も印象的なのは大広間 (Saloon) で、そこには赤のベルベット地の壁紙が貼られている。主要な特別室はそれぞれレイアウトとデザインが対称となっており、一部の部屋ではそのバランスのとれた効果を完全に達成するためにダミーのドアが配置されている。

ホウカム・ホールの位置(ノーフォーク内)
ホウカム・ホール
ノーフォークにおける位置

建築家とパトロン

ホウカムホール。 正面右から見た風景 (4つある同デザインの第2ウィングの内のひとつ)

ホウカムホールは初代レスター伯爵トマス・クック (Thomas Coke, 1st Earl of Leicester、1697年-1759年) (英語版) [4][注 2] により建てられた。文化的であり裕福だったクックは青年時代にグランド・ツアーに行き、1712年から1718年の6年間イングランドを離れた。彼は1715年にイタリアで、イングランドにおけるパッラーディオ建築復興ムーブメントの最前線にいた貴族・建築家のバーリントンウィリアム・ケントに出会い、パッラーディオ様式によるホウカムの邸宅のアイディアが考案されたと思われる[5]。クックは新しく得た蔵書だけではなく、彼が計画した新しい邸宅を飾る美術や彫刻のコレクションと共にイングランドに戻った。しかしながら彼は帰国後無気力な生活を続け、飲酒とギャンブルと狩猟[5]、及び闘鶏に興じた[6]。彼は南海会社 (South Sea Company) へ悲惨ともいえる投資を行い、1720年の南海泡沫事件 (英: South Sea Bubble) の結果として生じた損失はクックの新しい邸宅の建築計画を10年以上遅らせることとなった[5]。クックは1744年にレスター伯爵位を創設し、1759年に死没した。それはホウカムホール完成の5年前で、経済的損失から十分には回復していなかった。クックの妻レディ・マーガレット・タフトン (Lady Margaret Tufton, Countess of Leicester、1700年-1775年) は、その後邸宅の仕上げや配置の監督を行うこととなった[7]

初代レスター伯爵
トマス・クック

1720年代の初めにトマス・クックはコーレン・キャンベル (Colen Campbell、1676年-1729年) を雇ったが、最も古いホウカムホールに関する業務及び建築計画は、トマスの下でマシュー・ブレッティンガム (1699年-1769年) により1726年に書かれたもので、それはバーリントンとケントにより策定された指針や理想に沿ったものであった。選択された建築様式はこの時点で、イングランドにおいてパッラーディオ建築を復活させるものだった。パッラーディオ建築は内戦前のイングランドで一時期流行したもので、イニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年) によって導入された[8]。しかしながら王政復古の後それは民衆の人気という意味でバロック建築に取って代わられた。18世紀に人気だった「パッラーディオ復興」は16世紀のイタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオ (: Andrea Palladio、1508年-1580年) の作品の外観に概ね基づいたものだったが、それはパッラーディオの「比率」(proportion) に関する厳格なルールには従っていなかった。この様式は最終的には、一般にジョージア様式建築 (英語版) [9]と呼ばれ、今日のイングランドでも未だに人気の高い様式に進化した。それは市街地・郊外双方の数多くの邸宅で採用された様式だったが、ホウカムホールはデザインの厳格性、及びパッラーディオの理想に最も近づいたという点で別格だった。

トマス・クックはプロジェクトを監督したが、現場の建築業務は現場管理者として雇用されたノーフォークの建築家マシュー・ブレッティンガムに委託した。ブレッティンガムは既に建築家として伯爵領の建物の管理料として年50ポンド (2016年現在の貨幣価値で約7,000ポンド[10]) を受け取っていた[11]。ウィリアム・ケントは主に南西棟の内装、及び家族の生活のための区画、特に「ロング・ライブラリー」 (Long Library) を担当していた。ケントはクックが望んでいたものよりも遥かに豊富な装飾を提案し、多様な外装を施した。ブレッティンガムはホウカムホールを「私の人生における偉大な仕事」と考えており、 "The Plans and Elevations of the late Earl of Leicester's House at Holkham" [注 4]を出版したときには、ケントの関与に言及することなく、不遜にも自分自身を唯一の建築家として記述した。しかしながらこの著作の後の版では、ブレッティンガムの息子は、「全体的なアイディアは、最初ウィリアム・ケント氏の支援を受けてレスター伯爵とバーリントン伯爵により出された」ことを認めた[11]

1734年、最初の建物の基礎部分が作られた。しかしながら建築は、1764年に立派な邸宅が完成するまで30年間続いた[12]:204

マーブルホール内の正面玄関の上の碑文には次の言葉が刻まれている。

THIS SEAT, on an open barren Estate

Was planned, planted, built, decorated.
And inhabited the middle of the XVIIIth Century

By THO's COKE EARL of LEICESTER

(荒れた大地で計画し植栽し建築し、装飾した。そして18世紀半ばに住むこととなった。
レスター伯爵トマス・クック[13])

設計

ホウカムホールのピアノ・ノビーレの略図。主要区画の各角の4つの対称のウィングを示す。「A」マーブル (大理石) ホール、「B」大広間、「C」彫像ギャラリー、「D」ダイニングルーム、「E」南ポルティコ、「F」自己完結型家族棟のライブラリー。

パッラーディオ様式はトマス・クックなど、自身のアイデンティティ古代ローマに探し求めていたホウィッグ党員に称賛された。ウィリアム・ケントはホウカムホールの外観を担当したが、彼はそのデザインの基本を、パッラーディオの未完成のヴィラ・モセニゴ (Villa Mocenigo) (伊語版) に置いていた[14]。そのヴィラはパッラーディオの「建築四書」 ( I Quattro Libri dell'Architettura) (英語版) に掲載されていたが、既に荒廃していた。

ホウカムホールの設計プランは、2つのフロアーだけの広い中央区画があり、2つの中庭 (courtyard) の周りに左右対称にバランスよく配置された来客用特別室 (State room) (英語版) の並びのあるピアノ・ノービレがある。中庭は外部からは見えず、それはレクリエーションあるいは建築的価値のためというよりも、明るさを確保するために設けられている。この大きな中央区画は4つの小さな長方形区画、ウィング[注 5]に隣接しており[15]、それぞれの角は中央棟に長いコロネード (それはパッラーディオ建築の規範となっただろう) ではなく、唯一のベイ (bay) [注 6] (英語版) の短い2階建てのウィングによって繋がっている[5]

外装

ホウカムホールの外装は、古代ローマ建築による巨大な宮殿と表現するのが最もふさわしい[16]。しかしながら多くの建築設計と同様、それはそれほど単純な話ではない。ホウカムホールはパッラーディオ建築による邸宅であるが、パッラーディオの基準によってでさえ、その外観は質素で装飾性 (ornamentation) (英語版) に欠けている。その理由はほぼ確実にトマス・クック自身に求めることができる。現場の総括建築家マシュー・ブレッティンガムが語るところによれば、クックは快適さとして感じることができる「広大な空間」 (commodiousness) を必要とし求めていた。各部屋は適切に1つの窓からだけ光が入るようになっており、2つ目の窓は建物の外観を改善するかもしれないが部屋を寒くしてしまうということで、窓は1つだけだった。その結果、ピアノ・ノビーレの数少ない窓は左右対称にバランス良く配置されたものの、レンガの海の中に埋もれている。とはいえ、これらの黄色の煉瓦はわざわざホウカムホールのために、古代ローマの煉瓦の正確なレプリカとして作られたものだった。ピアノ・ノービレの窓の上には、真のパッラーディオ建築において中二階の窓の上がそうであったように、何もなかった。その理由はピアノ・ノービレの来客用特別室は2倍の高さがあったからであるが、そのような場合パッラディーオ自身の作品でもよく見られたように、ファサードの厳格性 (severity) を柔らげるために隠し窓は認められていた。1階では、ラスティケーション (rustication) [注 7] (英語版) による壁に、大邸宅というよりも刑務所を想起させる小さな窓が横一列に配置されている。建築評論家のナイジェル・ニコルソン (Nigel Nicolson、1917年-2004年) (英語版)プロイセン乗馬学校のように機能的に見える邸宅であると述べている[3]:234

マシュー・ブレッティンガムの「The Plans, Elevations and Sections of Holkham in Norfolk 」 (1761) に掲載されたホウカムホール

主要な南側ファサードの長さは104.9メートル (344フィート) で、その厳格性はピアノ・ノビーレの部分だけ6本の (Column) (英語版) からなるポルティコにより柔らげられていた。中央区画のそれぞれの端にはわずかな突起があり、約1世紀前にウィルトンハウス (Wilton House) (英語版)イニゴー・ジョーンズが採用したものと同様の平屋建ての正方形の塔と天井によるヴェネティア風窓を配置していた[17]。ほぼ同様のポルティコイニゴー・ジョーンズとアイザック・ドゥ・コー (Isaac de Caus、1590年-1648年) (英語版) [注 8] によりウィルトンハウスのパッラーディオ風正面玄関用に設計されたが、それは建築されなかった。

隣接するウィングには使用人用の部屋などがあり、家族用ウィングは南西、来客用ウィングは北西、チャペルウィングは南東、そしてキッチンウィングは北東にある。それぞれのウィングの外観は同じであり、立面図 (elevation) によると3つのベイ[注 6]はそれぞれ他のベイと狭小なスペースで区切られていて、各ベイには飾り気のないペディメントが乗っている。4つの区画の石や踊り場、様々なペディメント煙突による組み合わせは、ジョン・ヴァンブラ卿 (John Vanbrugh、1664年-1726年) (英語版) によりシートン・デラヴァル・ホールで採用された[18]、10年ほど前から人気のイギリスバロックスタイル (English Baroque) (英語版) を彷彿とさせる。これらのウィングの一つ一つは、後のケドルストンホール (Kedleston Hall) (英語版) がそうであるように、来客用特別室と中央区画を使っていないときに、家族を収容する自己完結型のカントリーハウスであった。

北の中央玄関の一階にあるポーチ[注 9]は1850年代にサミュエル・サンダース・テューロン (Samuel Sanders Teulon、1812年-1873年) (英語版) によって設計されたものであるが、そのスタイルは18世紀の建物と区別がつかない。

内装

マーブルホール

邸宅の内部ではそのパッラーディオ様式が、イングランドの他の邸宅では滅多に見ることのできない高さと壮大さに達している。それは実際のところ「イングランドにおける最高のパッラーディオ風内装」と考えられている[3]:230。内装の壮大さは過剰な装飾を排除することにより得られており、「簡素な外観の持つ雄弁さ」(the eloquence of a plain surface) はケントの長いキャリアから来る味わいを映し出している[19]。内装工事は1739年から1773年にかけて行われた。最初に作られた居室は家族用ウィングにあり、1740年から使われた。最初の主要な内装となったロング・ライブラリーは1741年に完成した。完全なレディ・レスターの監督下で最後に完成したのは、アラバスター製の装飾壁 (reredos) (英語版)[注 10] のあるチャペルである。邸宅にはマーブル (大理石) ホールを通って入るようになっており、(メインの壁紙はダービーシャー産のピンクアラバスターで作られていたが)それは古代ローマのバシリカ式によりケントが作ったものだった。部屋の床から天井までの高さは15メートル (50フィート) を超え、周囲のギャラリーや柱廊に続く白い大理石の広い階段がある。ここにあるアラバスター製のイオニア式の柱は、古代ローマパンテオンに触発されたイニゴー・ジョーンズのデザインを模倣した金箔が貼られた格天井 (coffer) を支えている。溝付きの柱もまた古代ローマポルトゥヌス神殿にあるもののレプリカであると考えられている。ホールの周囲の壁龕 (へきがん) には彫像が置いてあり、これらは主に古典的な神々を石膏によりかたどったものである。

ホールの階段はピアノ・ノービレと来客用特別室に繋がっている。最も壮大な大広間 (saloon) は美しいポルティコのすぐ後ろに配置されていて、その壁にはパターン化された赤色のカフォイ (caffoyウールシルクの混合物) が貼られ、天井は金箔が貼られた格天井になっている[12]:206。この部屋にはルーベンス (1577年-1640年) の "Return from Egypt" (意味:エジプトからの帰還)がかけられている。トマス・クックはグランドツアーギリシアローマの彫像の複製品のコレクションを購入し、それは邸宅の南北いっぱいの幅のある大規模な彫像ギャラリーに置かれた。

グリーン・ステート・ベッドルーム

北のダイニングルームは一辺8.2メートル (27フィート) の正方形の部屋で、そこには天井の柄のパターンを完全に映したアキスミンスター・カーペット (Axminster carpet) (英語版) が敷かれている。この部屋の壁の壁龕 (へきがん) に置かれたカエサルの胸像は、グランドツアーの途中ネットゥーノで修復中のところを見つけたものだった。古典的なアプスはその部屋にほとんど神殿のような雰囲気をもたらしている。実際はアプスには邸宅の離れたキッチンや使用人達のエリアに繋がる迷路のような回廊や狭い階段への通路が隠されている。主要区画の東側のそれぞれの角には大きなヴェネティア風窓から光が入る正方形の広間がある。その中の一つ「ランドスコープ・ルーム」にはクロード・ロラン (1600年頃-1682年) とガスパール・デュゲ (Gaspard Dughet、1615年-1675年) (英語版) の絵画が飾られている。全ての来客用特別室は左右対称の壁を有し、中には本物のドアとダミーのドアを組み合わせているものもある。主要な部屋には精巧な白と多様な配色の暖炉があり、ほとんどの部屋には彫刻と彫像がある。それらの大半はトーマス・カーター (Thomas Carter) の作品だが、彫像ギャラリーにある暖炉の彫刻はジョセフ・ピックフォード (Joseph Pickford、1734年-1782年) によるものである[4]。来客用特別室の家具の大半はウィリアム・ケントのデザインで、風格のある古典的なバロック様式によるものである。

来客用特別室の内装の飾りつけはとても抑制的、あるいはジェームズ・リーズ・ミルン (James Lees-Milne、1908年-1997年) [注 11] の言葉によると「貞淑」(chaste) であったため、家族のプライベート用の南西ウィングにある、より小さくより多い密接した部屋は、特別室の内装と同様、過度に力が入っていない飾りつけとなっていた。ロングライブラリーはウィングの全長を占め、トマス・クックがイタリアへのグランドツアーで購入した書籍のコレクションを収容している。彼はイタリアでパッラーディオ様式ヴィラを初めて見ており、ホウカムホールはこれに触発されたものである[5]

グリーン・ステート・ベッドルームは主要な寝室で、絵画やタペストリーで飾られておりその中にはポール・サンダース (Paul Saunders) やジョージ・スミス・ブラッドショウ (George Smith Bradshaw) の作品も含まれる[20]メアリー王妃 (Mary of Teck、1867年-1953年) が訪問したとき、ギャビン・ハミルトン (Gavin Hamilton、1723年-1798年) (英語版) [注 12] の "Jupiter Caressing Juno"(意味:ジュノーを愛撫するジュピター)の「淫らな」描写は女性の目にはふさわしくないと考えられ、その絵は屋根裏に追いやられたと言われている[21]

庭園

凱旋門

ウィリアム・ケントによる庭園の設計は、邸宅の建築が始まる数年前の1729年に着手された。それを記念して庭園の一番高い場所に24メートル (80フィート) のオベリスク (記念碑) が建てられた[4]。それは邸宅の中心から南に向かって0.8キロ (0.5マイル) を越えたところに位置していて、並木道はオベリスクから南に1.6キロ (1マイル) 以上広がっている。数千本の樹木が吹きさらしだった土地に植えられ、1770年までに庭園は6.1平方キロメートル (1,500エーカー) に広がった。ケントにより設計された他の庭園内の構築物には、並木道のはずれに近いところにある、1739年に設計されて1752年まで完成しなかった凱旋門 (Triumphal Arch) や、オベリスクの近くの森の中にある1730年から1735年にかけて建てられたドーム型のドーリア式祭祀場 (temple) がある。

レスター伯爵の甥で相続人である初代レスター伯爵 (第7期) トマス・クック (1754年-1842年) の下で庭園の大規模な改修が行われ、彼が1842年に亡くなるまでに庭園は12平方キロメートル (3,000エーカー) を越えるまでになった。100万本を超える植栽がされ、またクックは様々な建物の設計のために建築家サミュエル・ワイアット (Samuel Wyatt、1737年-1807年) (英語版) を雇用した[22]。その建物の中には、一連の農場の建物や新古典主義による簡素化された農家や、1780年代には24,000平方メートル (6エーカー) をカバーした壁で仕切られた新しい菜園 (Kitchen garden) (英語版) などがあった。庭園は湖の西にあり、そこにはいちじくワイン用のブドウ及びその他の果物を栽培する温室があった。ワイアットのデザインの最高傑作は1790年のグレート・バーン (Great Barn、偉大なる納屋) で、それは庭園の中のオベリスクから南東に0.8キロ (0.5マイル) のところにあった。それぞれの農場の費用は1,500ポンドから2,600ポンドの範囲内であった。元は北海に繋がる沼地のような入り江だった、邸宅の西にある湖は、1801年から1803年にかけて造園家ウィリアム・イームズ (William Emes、1729年-1803年) (英語版) [注 13]によって作られた。

ホウカム湖

クックの死後、彼のためにウィリアム・ドンソーネ (William Donthorne、1799年-1859年) (英語版) [注 14] の設計で1845年から1848年にかけて、不動産の借地人からの負担金4,000ポンドによりモニュメント (記念碑) が建てられた[23]。そのモニュメントは37メートル (120フィート) の高さのあるコリント式で、ジョン・ヘニング・ジュニア (John Henning, Jr.) [注 15] による浮彫りの彫刻が施された台座に支えられた円筒に乗っていて、台座の角は牛・羊・をかたどった彫刻を支えている。農家の収穫量を増加させるために行ったクックの施策により、不動産の借地料は1776年から1816年までの間に2,200ポンドから20,000ポンドに増え、イギリスにおける農業の方法に重要な影響を与えた。

1850年、第2代レスター伯爵トマス・クック (Thomas Coke, 2nd Earl of Leicester、1822年-1909年) (英語版) はパルテール (parterre) (英語版) [注 16] をデザインしていたウィリアム・ニスフィールド (William Andrews Nesfield、1793年-1881年) (英語版) [注 17] との連携により邸宅の東に新しい厩舎を建てさせるために、建築家のウィリアム・バーン (William Burn、1789年-1870年) (英語版) [注 18] を呼び寄せた。建築は邸宅の周りのテラスと同時に始められた。建築作業は1857年まで続き、その中で邸宅の北の方向に、チャールズ・レイモンド・スミス (Charles Raymond Smith) による「1849-57」の日付入りの「聖ジョージとドラゴンの物語」(Saint George and the Dragon) (英語版) の彫刻の入った記念碑的な噴水も作られた。邸宅の東にはバーンは大きな石製のオレンジ用温室を作り、それはウィングに隣接した3つのベイ[注 6]を備えていた。その温室には現在屋根も窓もない。

現在のホウカムホール

ホウカムホールの建設費用は90,000ポンドを越えていたと考えられる[24]。この莫大な費用は初代伯の相続人達をほとんど破滅させ、その結果彼らは邸宅をその嗜好に合わせて改良することも、経済的に不可能だった。したがってこの邸宅は1764年の完成以来ほとんど手を加えられていない。今日、この厳格なパッラーディオ建築のサンプルは、100平方キロメートル (25,000エーカー) の私有地の中心に存在している[21]。日曜日・月曜日と木曜日は一般公開されているが、ホウカムホールは今もまだレスター伯爵の家族の邸宅である[25]

注釈

  1. ^ 初代レスター伯爵トマス・クック(1697年–1759年)、ホウカムの建設者、甥の息子も初代レスター伯爵トマス・クック(1754年–1842年)である。息子を残さずに死んだので伯爵家は彼で絶えた。ホウカムはその後トマス・クックの甥であるウェンマン・ロバーツに渡され、ロバーツがクックの姓を継いだが、伯爵家は継げなかった。「ノーフォーク・カウンティにあるホウカムのレスター伯爵」の称号が1837年に創設されたのは、1754年に生まれていたロバーツの息子、トマス・クックに対してだった。この新しい称号はクックの政治と農業への貢献を認めて顕彰されたものだった。この伯爵家は新設のものであるので、彼も「初代」だった。今日ホウカムに住んでいるのは、その子孫である第8代レスター伯爵トマス・クックである。姓の "Coke" はクック("Cook")と発音される。
  2. ^ a b レスター伯爵家はこれまで7度創設された。ホウカムの建設者であるトマス・クックは第5創設のレスター伯爵家初代である。その甥の息子は第7創設のレスター伯爵家の初代である。
  3. ^ ヒルホールはエリザベス朝に外交官トマス・スミス (Thomas Smith、1513年-1577年) (英語版) により建てられたマナー・ハウス。現在はイングリッシュ・ヘリテッジが管理している。
  4. ^ 意味:『故レスター伯がホウカムに建てた邸宅に関する計画と立面図』
  5. ^ ウィングとは、建物の中心部から側面に伸びた部分を指し、翼棟ともいう。
  6. ^ a b c ベイとは建築用語で、各建築要素の間のスペースを言う。日本家屋の梁間・柱間に相当する。
  7. ^ ラスティケーション (田舎風) とは、建築において切石積みと呼ばれる正方形、または長方形にカットし表面を滑らかにした石を積んで壁を作る手法の特徴として使われる言葉。
  8. ^ アイザック・ドゥ・コーはフランス人の造園家建築家。1612年にイングランドに渡り、ジェームズ1世チャールズ1世に仕えた。ゴーハンベリーハウス (Gorhambury House) (英語版) やカムデンハウス (Campden House) の外装を手掛け、ウィルトンハウス (Wilton House) (英語版) の建築を担当した。主な著作に1644年発刊の "Nouvelle invention de lever l’eau plus haut que sa source, avec quelques machines mouvantes par le moyen de l’eau, et un discours de la conduite d’ycelle" (英題:New invention to lift water higher than its source, with some moving machinery by means of water, and a speech driving ycelle) がある。
  9. ^ ポーチとは屋根のある玄関。
  10. ^ レレドスは教会で祭壇の後ろにある祭壇画や装飾。
  11. ^ ジェームズ・リーズ・ミルンはイギリスの建築史家・小説家伝記作家カントリーハウスの専門家。1936年から1973年までナショナル・トラストで勤務していた。
  12. ^ ギャビン・ハミルトンはスコットランド人新古典主義歴史画家。
  13. ^ ウィリアム・イームズはイギリスの造園家。ケドルストンホール、カルク・アビー、ロッコホールなど多数の邸宅等の庭園を手掛けた。
  14. ^ ウィリアム・ドンソーネはイギリスの建築家。王立英国建築家協会の創立メンバーの一人である。
  15. ^ ジョン・ヘニング (John Henning、1771年-1851年) (英語版) の息子。ジョン・ヘニングはスコットランド人の大工で後に彫刻家となった。代表作は "Parthenon friezes""Bassae friezes" の20分の1スケールによる彫刻。
  16. ^ パルテールは造園方法の一つで15世紀にフランスで始められた。
  17. ^ ウィリアム・ニスフィールドはイギリスの造園建築家で芸術家。
  18. ^ ウィリアム・バーンはスコットランド人の建築家で、 スコットランド男爵式建築 (Scottish baronial architecture) (英語版) のパイオニア。

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ "Holkham Hall" Collins Dictionary. n.d. 2016年2月15日閲覧
  2. ^ Aristocratic Splendour Money and the World of Thomas Coke, Earl of Leicester 2016年8月5日閲覧
  3. ^ a b c Nicolson, Nigel (1965). Great Houses of Britain. London: Hamlyn.
  4. ^ a b c Hiskey, Christine. "The Building of Holkham Hall: Newly Discovered Letters". Architectural History. Volume 40, 1997. p.144–158.
  5. ^ a b c d e Wilson, Michael I.William Kent: Architect, Designer, Painter, Gardener, 1685–1748. Routledge, 1984. p.173-176. ISBN 0-7100-9983-5
  6. ^ Hugh Montgomery-Massingberd, Christopher Simon Sykes. Great houses of England and Wales . London: Laurence King Publishing, 1994. p.336. ISBN 1-85669-053-9
  7. ^ Holkham History 2016年2月15日閲覧
  8. ^ Lees-Milne, James. The Age of Inigo Jones. London: B. T. Batsford, 1953. p.54–56.
  9. ^ Downs, Joseph. "The Tower Hill Room". Bulletin of the Pennsylvania Museum. Volume 21, No. 96, October 1925. p.4–11.
  10. ^ UK CPI inflation numbers based on data available from Gregory Clark (2015), "The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)" MeasuringWorth. 2016年2月17日閲覧
  11. ^ a b Colvin, H. M. "A Biographical Dictionary of English Architects, 1660-1840". Cambridge, MA: Harvard University Press, 1954. 91.
  12. ^ a b Summerson, John (1954). Architecture in Britain, 1530 to 1830. Baltimore, MD: Penguin Books.
  13. ^ Benjamin, Clarke. "The British Gazetteer, Political, Commercial, Ecclesiastical, and Historical. Illustrated by a Full Set of Accurately Laid Down County Maps with All the Railways". H. G. Collins, 1852. p. 488.
  14. ^ Watkin, David. "A History of Western Architecture". Laurence King Publishing, 2005. 375. ISBN 1-85669-459-3
  15. ^ Jones, Nigel R. "Architecture of England, Scotland and Wales". Greenwood Press, 2005. p.145. ISBN 0-313-31850-6
  16. ^ Prior, Nick. "Museums and Modernity: Art Galleries and the Making of Modern Culture". Berg Publishers, 2002. 73. ISBN 1-85973-508-8
  17. ^ Turner, Jane. The dictionary of art. Grove Publications, 1996. p. 225. ISBN 1-884446-00-0
  18. ^ John Piper (1903 - 1992) Renishaw Hall. 2016年2月18日閲覧
  19. ^ Sicca, Cinzia Maria. "On William Kent's Roman Sources". Architectural History, Volume 29, 1986. p. 134–157.
  20. ^ The Green State Bedroom Coke Estates Ltd. 2016年2月18日閲覧
  21. ^ a b Holkham Hall: Green State bedroom BBC 2016年2月18日閲覧
  22. ^ Martins, Susanna Wade. "A Great Estate At Work: The Holkham Estate and its Inhabitants in the Nineteenth Century". Cambridge University Press, 1980. p. 155. ISBN 0-521-22696-1
  23. ^ Hassall, W. O. "Ilexes at Holkham". Garden History, Volume 6, No. 1, 1978. p. 58–60.
  24. ^ Dickinson, H. T. "A Companion to Eighteenth-century Britain". WileyBlackwell, 2002. p. 321.
  25. ^ "A Microcosm of Old England". Evening Gazette, Middlesbrough, England. 24 September 2005. 22.

参考文献

  • E. Angelicoussis, The Holkham collection of classical sculptures (2001. Mainz)
  • Brettingham, Matthew (1761). The Plans, Elevations and Sections, of Holkham in Norfolk. London: J. Haberkorn.
  • Cropplestone, Trewin (1963). World Architecture. London: Hamlyn.
  • Halliday, E. E. (1967). Cultural History of England. London: Thames & Hudson.
  • Hiskey, Christine (1997). "The Building of Holkham Hall: Newly Discovered Letters." Architectural History vol. 40.
  • Hussey, Christopher (1955). English Country Houses: Early Georgian 1715–1760 London, Country Life. (Pages 131–146.)
  • Hussey, Christopher (1967). English Gardens and Landscapes 1700–1750 London: Country Life. (Pages 45–6.)
  • Nicolson, Nigel (1965). Great Houses of Britain. London: Hamlyn.
  • Pevsner, Nicholas, and Bill Wilson (1999). Norfolk 2: North-West and South. The Buildings of England. London: Penguin. (Pages 413–424.)
  • Robinson, John Martin (1983). Georgian Model Farms: A Study of Decorative and Model Farm Buildings in the Age of Improvement 1700–1846. Oxford: Oxford University Press. (Page 127.)
  • Schmidt, Leo and others (2005). "Holkham". Munich, Berlin, London, New York: Prestel.
  • Summerson, John (1954). Architecture in Britain, 1530 to 1830. Baltimore, MD: Penguin Books.
  • Wilson, Michael I. (1984). William Kent: Architect, Designer, Painter, Gardener, 1685–1748. London, Routledge & Kegan Paul.

外部リンク

座標: 北緯52度56分58秒 東経0度48分26秒 / 北緯52.94939度 東経0.80728度 / 52.94939; 0.80728