ビラ・スタンモーア夜戦

ビラ・スタンモーア夜戦
USS Denver (CL-58) enters Havannah harbour (Éfaté Island) on 22 April 1943.jpg
米軽巡洋艦モントピリア
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年3月5
場所:ソロモン諸島、コロンバンガラ島
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
橘正雄大佐 アーロン・S・メリル少将
戦力
駆逐艦2 軽巡洋艦3
駆逐艦3
損害
駆逐艦2沈没、 なし
ソロモン諸島の戦い

ビラ・スタンモーア夜戦太平洋戦争中の1943年3月5日にソロモン諸島で生起した海戦ケ号作戦(ガダルカナル撤退)後、日本軍の新たな拠点となったコロンバンガラ島への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没。アメリカ軍側の呼称はブラケット水道海戦ブラケット水道とはコロンバンガラ島とアルンデル島英語版の間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、クラ湾に接した海域で行われた。

背景

ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る[1]。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイルで[1]、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった[2]零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる[2]。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで[3]、第一期工事は二週間ほどで終了した[3]。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった[3]。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた[4]

そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った[5]。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた[2]。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず[6]、日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「東京急行」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、日本の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった[7]。一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた[8]

ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊であった[5][9]。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した[5]。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた[5]。ハルゼーは過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた[10]。メリルの第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する[11]。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」[12]3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた[11]。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「コロンビア」 (USS Columbia, CL-56) は修理を行う必要があったため作戦から除外された[13]

海戦参加艦艇

日本海軍

  • 第四水雷戦隊
第二駆逐隊:駆逐艦村雨
第九駆逐隊:駆逐艦「峯雲

アメリカ海軍

  • 第68任務部隊
軽巡洋艦:「モントピリア」(任務部隊旗艦)、「クリーブランド」、「デンバー
駆逐艦:「ウォーラー」、「コンウェイ」、「コニー

戦闘経過

「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分にブイン沖に到着して一息ついた後、16時に出撃してコロンバンガラ島へ向けて出撃した[14]。ブインを出撃した「村雨」と「峯雲」は、ベララベラ島東方からベラ湾とブラケット水道を通過して21時30分に泊地に到着[14]。直ちに揚陸作業を行い、1時間後には全ての作業が終了した[14]。「村雨」と「峯雲」は速力26ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く[15]。しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており[11][16]、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた[11]。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む[11]。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、23時1分に魚雷を発射[11]。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した[11]。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する[17]。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す7月4日の独立記念日みたいだった」と回想している[17]。「村雨」がニュージョージア島の方向に稲妻のような閃光を目撃した直後、周囲には爆発音に続いて水柱が林立したのを確認[15]。最初は夜間爆撃と判断して「対空戦闘」を令したが、すぐに第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に入る[15]。この時点で「峯雲」は艦橋より後部が被弾により炎上し[15]、間もなく沈没。「村雨」も艦橋を中心に多数被弾して23時25分には航行不能に陥り、23時30分に沈没していった[18]。「村雨」は第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長種子島洋二少佐以下乗員134名がコロンバンガラ島の日本軍に救助された後ラバウルに帰還[19][20]。「峯雲」は乗員45名が救助されたのみで[19]、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗員は戦死した。朝になり、コロンバンガラ島からの報告を受けて偵察機が飛来したものの、当該海域では油紋と少数の漂流物しか確認できなかった[15]

第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」に対する砲撃を止め、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する[11]。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施[11]。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された[11]。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された[11][17]。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった[21]。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った[11]。フェーイー曰く、「ハドソン川をさかのぼってニューヨークの町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かう」[21]ような作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した[13]

海戦の後

ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった[22]。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護の下、少なくとも4月までの「東京急行」は概ね成功していた[23]。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、第三艦隊の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した(い号作戦)。

また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた[24]。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日のブーゲンビル島沖海戦までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった[24]。しかし、エインスワース少将はクラ湾夜戦(7月5日、6日)とコロンバンガラ島沖海戦(7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった[25]。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践したベラ湾夜戦(8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった[26]。ビラ・スタンモーア夜戦も、アメリカ側に一つの損害もなかった完勝劇だったにもかかわらずである。

脚注

  1. ^ a b ポッター, 313ページ
  2. ^ a b c 佐藤, 192ページ
  3. ^ a b c 佐藤, 189ページ
  4. ^ ニミッツ、ポッター, 165ページ
  5. ^ a b c d ニミッツ、ポッター, 165ページ
  6. ^ ポッター, 344ページ
  7. ^ 『戦史叢書96』74ページ、木俣、204ページ
  8. ^ 木俣、305ページ、O'Hara, p.167
  9. ^ ポッター, 344、345ページ
  10. ^ O'Hara, pp.166-167
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 『戦史叢書96』76ページ
  12. ^ ニミッツ、ポッター, 172ページ
  13. ^ a b フェーイー, 38ページ
  14. ^ a b c 『戦史叢書96』74ページ
  15. ^ a b c d e 『戦史叢書96』75ページ
  16. ^ フェーイー, 35ページ
  17. ^ a b c フェーイー, 36ページ
  18. ^ 『第四水雷戦隊戦時日誌』C08030116400, pp.15
  19. ^ a b 『第四水雷戦隊戦時日誌』C08030116400, pp.17
  20. ^ 木俣, 307、308ページ
  21. ^ a b フェーイー, 37ページ
  22. ^ ポッター, 345ページ
  23. ^ 木俣, 308ページ
  24. ^ a b ニミッツ、ポッター, 170ページ
  25. ^ ニミッツ、ポッター, 171ページ
  26. ^ ニミッツ、ポッター, 174ページ

参考文献

『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第四水雷戦隊戦時日誌』 第四水雷戦隊司令部、C08030116400
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 佐藤和正「ソロモン・ニューギニア作戦 I 」『写真・太平洋戦争(第5巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2079-8
  • Vincent P. O'Hara, The U.S. Navy Against the Axis: Surface Combat 1941-1945, Naval Institute Press, 2007, ISBN 978-1-59114-650-6

関連項目