ヒヴァ・ハン国

ヒヴァ・ハン国
Xiva Xonligi
ジョチ・ウルス 1512年 - 1920年 ホラズム人民ソビエト共和国
ヒヴァ・ハン国の国旗
(国旗)
ヒヴァ・ハン国の位置
ヒヴァ・ハン国の領域(1600年)
公用語 ウズベク語
首都 クフナ・ウルゲンチ
ヒヴァ
ハン
1511年 - 1518年 イルバルス1世
1644年 - 1663年アブル=ガーズィー
1804年 - 1806年イルテュゼル
1806年 - 1825年ムハンマド・ラヒーム
1918年 - 1920年サイード・アブドゥッラー
変遷
建国 1511年
コンギラト朝の確立1804年
ロシアによる征服1873年8月12日
滅亡1920年2月2日
ヒヴァ・ハン国の国旗(1917年)

ヒヴァ・ハン国(-こく、ウズベク語: Xiva Xonligi)は、1512年から1920年にかけて、アムダリア川の下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝シャイバーニー朝シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる[1][2]。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある[3]

歴史

シャイバーニー朝

1510年にウズベク国家のブハラ・ハン国シャイバーニー朝)の君主ムハンマド・シャイバーニー・ハーンサファヴィー朝との戦闘で敗死したとき、シャイバーニー朝が領有していたホラズム地方はサファヴィー朝の支配下に入った。1512年にイルバルスは、サファヴィー朝に一時奪われていたホラズム地方を奪回し、麾下のウズベク諸部族を中核として、トルクメン系遊牧民、オアシス都市イラン系、テュルク系の定住民を支配下に置き王朝を樹立した[2]

17世紀前半にはカザフジュンガル(カルムィク)といった遊牧民の侵入と王室の内訌に苦しみ[4]、イランの王朝やブハラ・ハン国との抗争で内情は不安定な状態に置かれていた[2]1593年1594年)にホラズム地方はブハラ・ハン国によって一時的に占領される[5]

また、1570年代にアムダリヤの水路の変化によって首都のクフナ・ウルゲンチは衰退し[6]、17世紀前半のアラブ・ムハンマド(在位1603年 - 1621年)の治世の末期にヒヴァに遷都された[1]

1643年に即位したアブル=ガーズィーは1645年に国内のトルクメン人を虐殺し[7]、彼らに代わってウズベク族出身のアミール(軍事貴族)を要職につけて国内を安定させる[4]。1645年にはクフナ・ウルゲンチの商業機能を受け継いだ新ウルゲンチが南に建設され、交易都市として発展していく[8]。アブル=ガーズィーは内紛で混乱するブハラ・ハン国に7回の遠征を行い[4]ロシアなどの近隣の国家と通交した[9]

1714年からロシア帝国ピョートル1世の命令を受けたチェルケス人将校ベコヴィチ・チェルカスキー(デヴレト・ギレイ)が、中央アジアのカスピ海東岸地域を調査し、現地に要塞を建設していた。1717年にベコヴィチがヒヴァ遠征を行った際、当時のハン・シール・ガーズィーはベコヴィチを欺いてロシア軍を壊滅させ、彼を殺害した[10]

18世紀には遊牧民の侵入、王家の内紛に加えて、ウズベクとトルクメンの対立とロシアの介入がハン国を苦しめた[4]。ヨムト部族をはじめとするトルクメンの略奪によって、ハン国の領土は荒廃する[11]。1728年には、チンギス・ハーンの後裔であるカザフ族のイルバルス2世がハンに選出される。1720年代末からイランで台頭したナーディル・シャーの攻撃に対して、ブハラとは反対にヒヴァは激しく抗戦した[12]1740年にヒヴァがナーディル・シャーに占領されると、イルバルス2世は処刑された。

18世紀後半に入ったころのハン国は領内が荒廃しており、ヒヴァの建造物は廃墟となって住民の数は減少した[13]。カザフ出身のハン・カイプは王権を回復するために実権を握っていたアミールのアタリク・フラズ・ベクと、彼の出身部族であるマンギト部の人間を処刑した[14]。しかし、課税に反発したハン国の住民が暴動を起こしたため、カイプはカザフスタンに逃亡した[15]。新たにハンとなったカイプの兄弟カラバイは、ブハラ・ハン国の仲裁によって、1757年1758年)にブハラの傀儡であるテムル・ガーズィーをハンとすることで反乱者と和解した[16]

1763年からは、コンギラト族出身のイナク(宰相)のムハンマド・アミーンが実権を握った[4][17]。国内の反乱によってムハンマド・アミーンは一時的にブハラに退避するが、ブハラのアタリク(宰相)であるダーニヤール・ビーより支援を受けることができた。1770年にムハンマド・アミーンはトルクメンのヨムド部族に勝利し、国内の安定を回復してヒヴァの再建に着手した。ヒヴァの歴史家たちは、ムハンマド・アミーンの勝利がハン国の復興の転機となったと考えた[18]

イナク朝

ロシアの画家ワシリー・ヴェレシュチャギンが描いた、1873年のヒヴァ攻撃

ハン国の実権を握るイナクたちは北方に居住するチンギス・ハーンの子孫を傀儡の君主として擁立・廃位した[12]1804年にムハンマド・アミーンの孫イルテュゼル(イルタザル)はハンを称し、チンギス裔をハンとしないイナク朝を創始した。イルテュゼルの簒奪に反対したウイグル族の長アタリク・ベク・プラドは殺害され、アタリクの一族はブハラに亡命する。イルテュゼルに対するウイグルの抵抗は、次代のムハンマド・ラヒームの治世まで続いた[18]

1806年にイルテュゼルがブハラとの抗争で戦死すると、彼の弟のムハンマド・ラヒームが跡を継いだ。ムハンマド・ラヒームはアブル・ガーズィー5世を復位させるが、1806年末に再び彼を廃位し、あらためてハンとなった[19]。ムハンマド・ラヒームはカラカルパク人を服属させ、ホラーサーン遠征を成功させた。1821年にブハラとの戦争が再開され、1825年に結ばれた和議ではヒヴァのトルクメニア支配が強化された[20]。次代のアッラーフ・クリの時代にも領土の拡張は続いた[1]。18世紀半ばまでヒヴァ、ブハラ、イランのカージャール朝がトルクメニアの支配権を巡って争い、現地のトルクメンは状況に応じて同盟者を変えた[20]

ブハラやトルクメンとの抗争で国力は衰退し、軍事力を背景としたロシア帝国からの要求に従わざるをえなくなった[2]1873年にハン国はコンスタンティン・フォン・カウフマン英語版が率いるロシア軍の攻撃を受け、ヒヴァは陥落する。南下政策に対するイギリスの批判を抑えるとともに現地のムスリムの反乱を防ごうとするロシアの思惑によりハン国は保護国とされ[21]、領土を縮小された。

中央アジアでジャディード運動が展開する中、ヒヴァでは「青年ヒヴァ人」を称する知識人たちが活動を展開していた。ロシア革命後、1920年に最後の君主サイード・アブドゥッラーは廃されてハン国は滅亡し、ホラズム人民ソビエト共和国が成立した[1]。しかし、革命はトルキスタン赤軍の介入によって引き起こされたものであり、ヒヴァのジャディートたちは権限を制約される[22]。その後、ヒヴァ・ハン国の領域はトルクメニスタンウズベキスタンカラカルパク自治州に分割された。

社会

王族には所領が分割され、アミール(貴族)と軍人には封土(ソユルガル)が授与された[2]。部族制の概念はブハラ・ハン国よりも深く根付いており、遊牧生活を営んでいた部族集団は定住生活に移行した後もなお部族単位で居住していた[12]。国内にはコンギラト、マンギト、キプチャクなどの部族集団の名前を冠した都市が存在していた[12]

歴史を通して王権は概ね弱かったが、中にはアブル=ガーズィーのように内政と外政の両方で実績を残したハンもいた[2]。ハンたちは「サイイド」(預言者ムハンマドの子孫)の称号を得るため、土着のホージャ(サイイドや聖者の子孫)の娘と結婚し、19世紀にはハンの多くが「サイイド」を称していた[23]。イナク朝の創始者であるイルテュゼルは自らの家系の権威を高めるため、ホージャの一族の娘を略奪して後宮に入れた[19]

アミール(軍人貴族)とスーフィー教団のシャイフ(指導者)が強い影響力を有しており、文官は彼らに次ぐ立場に置かれていた[24]。ハンとアミール・シャイフの対立はブハラ・ハン国よりも深刻であり、17世紀のイスファンディヤールの治世には大規模なウズベクの虐殺が行われた[25]。イスファンディヤールの虐殺に協力したトルクメンへの報復として、1645年にアブル=ガーズィーによるトルクメンの殺戮が行われた[7]

経済

ヒヴァ・ハン国を支えていたのは農業であり、遊牧民のウズベク族がホラズム地方に根付いていた農業技法に及ぼした悪影響は小さかった[3]。ヒヴァの農業はアムダリヤの水系に支えられ、18世紀末からホラズム地方では灌漑水路の建設と修復が行われた[26]

一方、各地の領主が領内を通過する商人や使者に税を課したため、商業の停滞を招いた[3]

文化

カルタ・ミナル

16世紀から18世紀の間にヒヴァ・ハン国内で建てられた施設は実用性を重視したものであり、芸術性は低いとみなされている[7]。この時期を代表する建設物に、アヌーシャ(在位1663年 - 1685年)が建設したシャーハーバード要塞と要塞に惹かれた水路などが挙げられる。17世紀のヒヴァでは文芸活動は停滞し、君主であるアブル=ガーズィー自らが歴史書を編纂した背景には、宮廷に国史の編纂を任せられる人材の不在がある[7]

19世紀のイナク朝の時代になると、ハン国の学芸に発達が見られる[27]。王朝の創始者であるイルテュゼルは若年の文人シール・ムハンマド(ムーニス)に国史の編纂を命じた。ティムール朝の歴史家ミールホーンドの著書をペルシア語からトルコ語に訳するよう命じられたシール・ムハンマドは国史の編纂を中止するが、翻訳を終えることなく病没した[28]。シール・ムハンマドの死後、1839年1840年)に彼の甥であるムハンマド・リザー(アーガヒー)が編纂事業を継承し、ムハンマド・ラヒーム(在位1864年 - 1910年)の治世に至るまでの国史を書き上げた[29]

イナク朝時代の建築物には芸術性も備わり、イナクのラフマーン・クリが建てたハザーラスプの宮殿やアブル=ガーズィー・ムハンマド・アミーンのミナレット(カルタ・ミナル)はヨーロッパからの来訪者にも驚きを与えたと言われる[30]

歴代君主

ウルゲンチのシャイバーニー朝

  • ヤーディガール(? - 1512年)
  1. イルバルス・ハン(1512年 - 1517年)
  2. スルターン・ハージー(1518年 - 1519年)
  3. ハサン・クリ(? - 1524年)
  4. ブチュカ
  5. スフィヤーン
  6. アワナシュ
  7. カル
  8. アカタイ
  9. ユーヌス
  10. ドースト
  11. ハージー・ムハンマド(ハージム)(1558年 - 1603年)
  12. アラブ・ムハンマド(1603年 - 1621年)
  13. ハバシュ(1621年 - 1622/23年)
  14. インバルス(1621年 - 1622/23年)
  15. イスファンディヤール(1622/23年 - 1641/42年)
  16. アブル・ガーズィー(1644年 - 1663年)
  17. アヌーシャ(1663年 - 1685年)
  18. フダーイダード(1685年 - 1687/88年)
  19. アルン(アラング)(1687/88年 - 1694年)
  20. チチャク(ジョチ?)(? - 1694/95年)
  21. カバクル(?年 - 1696年)
  22. カル・ムハンマド(?)(1696年 - ?)
  23. シャー・ニヤーズ(1698年 - 1701年?)
  24. アルン・ムハンマド(?)(1701年? - ?)
  25. ムーサー(1702年 - 1712年)
  26. ヤーディガール(1712年 - 1713年)
  27. ハージー・ムハンマド(1714年頃)
  28. イシム(1713年頃 - 1714年頃)
  29. シール・ガーズィー(1714年 - 1726/28年)
  30. シャー・テムル(1728年?)
  31. サリク・アイギル(ママイ)(1728年) - カザフ・ハン国
  32. バトゥル(1728年)
    • 小ジュス1748年 - 1771年
  33. イルバルス2世(1728年 - 1740年)
  34. エル・ガーズィー(1735年 - ?) - 本家
  35. アブルハイル(1740年) - カザフ・ハン国系
    • 小ジュス1710年 - 1748年
  36. ターヒル(1740年 - 1741年) - 他家
  37. ヌラル(ヌール・アリー)(1741年 - 1742年?) - カザフ・ハン国系
  38. アブル・ガーズィー2世(1742年 - 1747年)
  39. カイプ(1747年 - 1757/58年)
    • 小ジュス1786年? - 1789/91年)
  40. カラバイ(アブドゥッラー)(1756/57年)
  41. テムル・ガーズィー(1757/58年 - ?) - 他家
  42. タウケ(1763年 - 1764年)
  43. シャー・ガーズィー(1764年 - 1767年) - カザフ・ハン国系
  44. アブル・ガーズィー3世(1767年 - ?) - 本家
  45. ヌール・アリー(1768年 - ?) - カザフ・ハン国系
  46. ジャンギル(? - ?)
  47. ボレケイ(1769年?)
  48. アグム(アブドゥッラー)(1770年 - 1771年)
  49. アブルガズ(アブドゥル・アズィーズ)(1756年 - ?年)
  50. アルトゥク・ガーズィー(? - ?) - 本家
  51. アブドゥッラー(? - ?) - カラカルパク王家
  52. アグム(アブドゥッラー)(復位)(1771年 - 1772/73年?) - カザフ・ハン国系
  53. ヤーディガール(1772/73?年 - 1775年?) - カラカルパク王家
  54. アブル・ファイズ(? - ?) - カザフ・ハン国系
  55. ヤーディガール(1778/79年 - 1781/82年) - カラカルパク王家
  56. プラド・ガーズィー(1781/82年 - 1783/84年) - カザフ・ハン国系
  57. ヤーディガール(1783/84年 - 1790年) - カラカルパク王家
  58. アブル・ガーズィー4世(1790年 - 1802年)
  59. アブル・ガーズィー5世(1802年 - 1804年、1806年)

イナク朝

  1. イルタザル・イナク(1804年 - 1806年)
  2. ムハンマド・ラヒーム・バハドゥール(1806年 - 1825年)
  3. アッラーフ・クリ・バハドゥール(1825年 - 1842年)
  4. ムハンマド・ラヒーム・クリ(1842年 - 1846年)
  5. アブル・ガーズィー・アミン・バハドゥール(1846年 - 1855年)
  6. アブドゥッラー(1855年)
  7. クトルフ・ムハンマド・ムラド・バハドゥール(1855年 - 1856年)
  8. マフムード(1856年)
  9. サイード・ムハンマド(1856年 - 1864年)
  10. ムハンマド・ラヒム・バハドゥール(1864年 - 1910年)
  11. イスファンディヤル・ジュルジ・バハドゥール(1910年 - 1918年)
  12. サイード・アブドゥッラー(1918年 - 1920年)

脚注

  1. ^ a b c d 本田「ヒヴァ・ハン国」『アジア歴史事典』8巻、1-2頁
  2. ^ a b c d e f 堀川「ヒヴァ・ハン国」『中央ユーラシアを知る事典』、439-440頁
  3. ^ a b c バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、245頁
  4. ^ a b c d e 堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、170頁
  5. ^ 堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、159頁
  6. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、244頁
  7. ^ a b c d バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、247頁
  8. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、244-245頁
  9. ^ 堀川徹「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、30頁
  10. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、313頁
  11. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、249頁
  12. ^ a b c d バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、248頁
  13. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、249頁
  14. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、267頁
  15. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、267-268頁
  16. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、268頁
  17. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、268-269頁
  18. ^ a b バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、269頁
  19. ^ a b バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、270頁
  20. ^ a b バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、270-271頁
  21. ^ 小松「ロシアと中央アジア」『中央アジア史』、191頁
  22. ^ 小松久男「現代の中央アジア」『中央アジア史』、211-212頁
  23. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、251-252頁
  24. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、246頁
  25. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、246-247頁
  26. ^ 小松「ロシアと中央アジア」『中央アジア史』、188頁
  27. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、271頁
  28. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、272頁
  29. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、272-273頁
  30. ^ バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、273頁

参考文献

  • 小松久男「ロシアと中央アジア」「現代の中央アジア」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 堀川徹「民族社会の形成」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 堀川徹「ヒヴァ・ハン国」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 本田実信「ヒヴァ・ハン国」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
  • V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)

関連項目