チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード

チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード
Charles Villiers Stanford
生誕 1852年9月30日
アイルランドの旗 アイルランド ダブリン
死没 (1924-03-29) 1924年3月29日(71歳没)
イングランドの旗 イングランド ロンドン
学歴 ケンブリッジ大学
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家指揮者オルガニスト

サー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードSir Charles Villiers Stanford, 1852年9月30日 - 1924年3月29日)はアイルランド人の作曲家、教師、指揮者である。ダブリンの裕福で音楽的教養の高い一家の生まれたスタンフォードは、ライプツィヒベルリンで音楽教育を受ける以前はケンブリッジ大学で学んでいた。そのため、彼は国際的に著名な演奏家を招きケンブリッジ大学音楽部との共演を実現させることで、同楽団の地位を引き上げる立役者となった。

スタンフォードはまだ学部生だった時期に、トリニティ・カレッジのオルガン奏者に任命されている。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任した彼は、その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとった。1887年からはケンブリッジ大学の音楽科教授も兼任した。教育者として、スタンフォードはモダニズムに懐疑的な姿勢を示しており、彼の講義は主にブラームスの音楽が好例となるような古典的な原理に基づいて行われた。スタンフォード門下からは、彼自身をも凌ぐほどの名声を得た、ホルストヴォーン・ウィリアムズなどといった作曲家が輩出した。また彼はバッハ合唱団[n 1]やリーズ音楽祭[n 2]の指揮者であった。

スタンフォードは7つの交響曲を含むかなりの数の楽曲を作曲しているが、最も記憶されているのは聖公会伝統の様式による、教会での演奏用に書かれた合唱曲だろう。彼はオペラも精力的に作曲したが、完成させた9つのオペラは一般的なレパートリーとはなり得ていない。批評家の中にはパリーマッケンジーなどとともに、スタンフォードを英国音楽の復活の立役者であると見る者もいる。しかしながら、彼の音楽は19世紀の最後の20年においてこそ大きな成功を収めたものの、その後20世紀に入るとエルガー並びに彼自身の門弟たちの活躍の陰に隠れてしまうことになるのである。

生涯

幼少期

スタンフォードはダブリンの生まれで、ジョン・ジェームズ・スタンフォード(John James Stanford)の二番目の妻であるメアリ(Mary(旧姓ヘンHenn))との間に生まれた唯一の息子である[1]。父のジョンはダブリンでは名の通った弁護士、大法官府裁判所の証人尋問官、そしてミース州の官吏であった[2] 。彼の妻はアイルランドの大法官高等裁判所長であったウィリアム・ヘン(William Henn)の三女である[3]。夫妻はともにアマチュアの音楽家であった。夫のジョンはチェリストであるとともに、1847年メンデルスゾーンエリヤのアイルランド初演時のタイトル・ロールを務めるほどのバス歌手でもあった[4][n 6]。妻のMarieはアマチュアのピアニストで、ダブリンで行われるコンサートでは協奏曲ソリストを務めるほどであった[4]

スタンフォードは少年期、ダブリンの私立学校で特筆すべきところのない一般的な教育を受けたが、学校を経営していたヘンリー・ティルニー・バセット(Henry Tilney Bassett)は他の学問を差し置いて西洋古典学に没頭していた人物であった[6]。スタンフォードの両親は彼の早熟さに目をつけ、ヴァイオリンピアノオルガン作曲というように次々教師を雇い、彼の音楽的才能を伸ばそうとした。それら教師のうち三人はイグナーツ・モシェレス門下であり、エリザベス・ミーケ(Elizabeth Meeke)もその一人だった。スタンフォードは後にこう回想している。「私が12歳になる前、彼女は私に初見で演奏することを教えた。(中略)彼女は毎日レッスンの最後に、私にショパンマズルカを一曲弾かせたが、間違ってもそこで止まることを決して許さなかった。(中略)52曲のマズルカを全て終えたとき、私は大抵どんなレベルの曲でもかなり指を楽な状態にして取り組めるようになっていた[7]。」少年スタンフォードの最初期の作品の一つである行進曲変ニ長調は、3年後にダブリン王立劇場[n 7]でのパントマイムの中で演奏された[8]。9歳の時、彼は客を招待してのピアノリサイタルを行い、ベートーヴェンヘンデル、メンデルスゾーン、モシェレス、モーツァルトバッハの作品を演奏した[4]。彼の歌曲の一つはダブリン大学の合唱部に採りあげられ、好評を博した[9]

パッティ

1860年代には、ダブリンに国際的な有名人が時折訪れた。そのため、スタンフォードはヨーゼフ・ヨアヒムアンリ・ヴュータン、アデリーナ・パッティ[n 8]といった著名な音楽家の演奏を耳にすることができた[10]ロンドンからは毎年イタリアオペラの会社が興業に訪れており、Guilia GrisiGiovanni Matteo、後年は Thérèse Tietjens[n 9]によって率いられたこの団体は、スタンフォードに一生涯残るオペラの妙味を味わわせたのであった[n 15]。10歳の夏、彼は両親に連れられてロンドンへ赴き、そこでメイフェアに住む母の叔父の元に滞在した[12]。彼はそこで、作曲家であり教師でもあったアーサー・オーリアリー(Arthur O’Leary)の作曲の講義を受けると同時に[13]王立音楽アカデミーのピアノ科教授であったエルンスト・パウアー[n 16]にピアノを習った[14]。彼がダブリンへ戻ると、名付け親はアイルランドを去ってしまっており、彼はヘンリエッタ・フリン(Henrietta Flynn)のレッスンを受けることになる[14]。この人物もライプツィヒ音楽院でのモシェレスの教え子であった。その後、聖パトリック大聖堂オルガニストであったロバート・スチュアート(Robert Stewart)、また三人目となるモシェレス門弟のミシェル・クオーリィ(Michael Quarry)からも教えを受ける[15]。二年後、二度目となるロンドン滞在中に作曲家のアーサー・サリヴァンと、音楽管理者で作家であるジョージ・グローヴに出会い、彼らは後々スタンフォードの人生において重要な人物となるのである[4]

父のジョンは自らと同じく法律の専門家になってもらいたいと願っていたが、スタンフォードの音楽で生きていきたいという希望を受け入れた[16]。ただし、音楽留学したいのであれば、その前に一般的な大学教育を修了すること、という条件を付けた[16]。スタンフォードはケンブリッジ大学のトリニティ・ホール[n 17]で西洋古典学の奨学金を得ようとしたが、うまくいかなかった[17]。しかし、ケンブリッジ大学のクイーンズ・カレッジ[n 18]でオルガンの奨学金を得ることができ、さらに後になって西洋古典学でも奨学金を得られた。ケンブリッジへ向かうことになるまでに、彼は宗教的なもの、非宗教的なものの両方の形式の合唱曲と、管弦楽作品(チェロと管弦楽のためのロンドと演奏会用序曲)を含むかなりの数の楽曲を書いていた[1]

ケンブリッジ時代

スタンフォードは大学時代に、ラテン語ギリシア語の勉強を疎かにしてまで音楽に熱中した。彼は宗教的、世俗的な声楽曲を作曲したほか、ピアノ協奏曲ロングフェローの演劇「スペインの学生」への付随音楽を書いた。1870年の秋には、彼はケンブリッジ大学音楽部(CUMS)との共演でピアノ独奏者を務め、まもなく指揮者助手と委員会メンバーとなった。音楽部の技量は1843年の創設以降衰えていっていた。合唱団は男声少年合唱のみで構成されており、女声がいないことで音楽部の演奏曲目は非常に制限されていた。スタンフォードは女声を入れるよう委員を説得したが失敗に終わったため、ミュージカル・タイムズ誌が「無血革命」と呼んだ、ある試みを企てる。1872年の2月、彼はアマチュア・ヴォーカル・ギルドという混声合唱団を立ち上げ、その団の演奏がCUMS合唱団の演奏を瞬く間に影に追いやったのである。CUMSの委員はすぐに考えを改め、両団を合併させるとともに、女性に音楽部の賛助委員としての資格を与えることを認めた。

合併後の合唱団の指揮者は、トリニティ・カレッジのオルガニストでもあったラーキン・ホプキンス(Larkin Hopkins)であった。彼は病に倒れ、1873年に指揮者の職をスタンフォードに譲り渡した。スタンフォードはまた、トリニティのオルガニストとしてもホプキンスの代役となり、1873年の4月にクイーンズからトリニティへと移った。同年夏に、彼は初のヨーロッパ大陸への旅行に出かけた。ボンで行われていたシューマン記念祭に行った彼は、その地でヨアヒムブラームスに出会っている。当時、音楽愛好家達は古典派陣営と、リストワーグナーに代表される現代派陣営に二分されており、シューマンやブラームスの音楽に対する愛着を募らせていた彼は古典派とみなされていた。しかしスタンフォード自身はどちらの陣営に属するかということで、流儀を強制されることはなかった。それは彼がニュルンベルクのマイスタージンガーを高く賞賛していたことからも伺える。もっとも、ワーグナー作品の中には熱狂できないものもあったようではあるが。ボンを離れた後、彼はスイスを経てパリマイヤベーアの「預言者」を鑑賞して帰国した。

ホプキンスの病は致命的なものとなり、彼の死後トリニティの重役たちはスタンフォードを後継のオルガニストとして招聘した。彼は、毎年しばらくの間はドイツで音楽を学ぶために自由な時間を持てるようにする、という条件付きでこれを承諾することにした。委員会は1874年2月21日にこれを議決した。

チャールズ・ヴィラーズ・スタンフォード(大学の学部生)は今後二年間に渡り、オルガニストに任命され、100ポンドの給料、および在職中の寝所とCommonsが与えられる。オルガニストは上記二年間の間、ドイツに音楽教育を受ける目的での休暇を1学期分取ることを許可されており、彼の不在中の代行者の選定は大学が行うものとする。

スタンフォードは任命の二日後、西洋古典学の学位試験を受けた。順位は66人中65番目で、第三種学位を授与された。

ライプツィヒ時代

ケンブリッジ大学音楽科教授を退き王立音楽アカデミー監督になっていたウィリアム・スタンデール・ベネットの推挙により、スタンフォードは1874年の夏期、ライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽院の作曲科、ピアノ科教授であったカルル・ライネッケのレッスンを受けた。作曲家のトマス・ダンヒルが述べたところによると、1874年というのは「ライプツィヒの覇権の終焉であった。メンデルスゾーンの偉大なる伝統が失われつつあったのだ」。にもかかわらず、スタンフォードは学びの地に別の場所を選ぶことを真面目に考えようとはしなかった。ダブリンもロンドンも、ライプツィヒに並ぶような音楽教育の場とはなり得なかったからだ。英国で最も名高い音楽学校である王立音楽アカデミーはその頃、旧態依然で極めて保守色の強い状態だった。

スタンフォードはライプツィヒで、ベネットが自分を推薦した相手が王立アカデミーの教授陣に負けず劣らず革新性のないドイツ人の衒学者であったことを知り、うろたえた。スタンフォードはライネッケについてこう言ったのだった。「私がこれまでに知っている無味乾燥な音楽家の中でも、彼は最も干からびている。彼が現代の作曲科に関して好意的な言葉を発するのを聞いたことがない。・・・ワーグナーは気が進まないと言えば・・・ブラームスに対しては鼻で笑っており、何に対しても熱意というものを持ち合わせていないんだ。」これについてスタンフォードの伝記を記したパウル・ロッドメル(Paul Rodmell)の考えるところによれば、ライネッケの「超」がつくほどの保守主義は予想外に生徒にいい影響を与えたのではないか、「なぜなら、スタンフォードはそのせいで伝統をなぞるスタイルと袂を分かつことになったのだろうから」。ライプツィヒでの期間、スタンフォードは聖ニコラス教会[n 19]のオルガニストであったロベルト・パッパーリツ(Robert Papperitz)(1826-1903)にピアノを習ったが、これは彼にとってより有意義なものであった。

1874年にスタンフォードが作曲した中に、ロングフェローの「黄金伝説 The Golden Legend」という詩を基にしたものがある。彼は詩全体に対して曲をつけようとしたが、ロングフェローの「たくさんの無関係な登場人物たち」に負け、これを諦めた。スタンフォードはいっぱしの作曲家となって作品番号の割り当てを行った時、これや他の初期作品を無視した。彼の公式目録に掲載されている最初の作品は、1875年のピアノのための組曲とピアノのためのトッカータである。

スタンフォードは1875年に、二度目のライプツィヒ滞在をしてライネッケのもとで過ごしたが、これは一回目同様に非生産的なものであった。その後彼はヨアヒムより、次の年はベルリンに来てフリードリヒ・キールのに付いて学んではどうかと勧められる。キールに関して、スタンフォードは「同情的で腕の立つ達人だとすぐにわかった。・・・私は3か月の間に、3年間で他の誰から学んだことよりも多くのことだった。」と述べている。

作曲家として頭角を現す

ドイツで研鑽をつむ合間にケンブリッジに戻ったスタンフォードは、CMUSでの指揮者の仕事を再開する。音楽部は彼の代理のイートン・ファニング[n 20]の下で良い状態になってきており、演奏困難な新たな音楽にも取り組めるようになってきていた。1876年にブラームスのドイツ・レクイエムの英国初演を行った。1877年にブラームスの交響曲第1番の英国初演を行った際には、CMUSは国中の注目の的となったのである。

同じ頃、スタンフォードは作曲家としても名前が知られ始めていた。彼は多作家であったが、後年この年代の作品を引っ込めてしまう。その中にはヴァイオリン協奏曲も含まれており、ロッドメルによればそれは「平凡な主題要素」のために上出来とは言えなかったのだという。1875年に、スタンフォードはアレクサンドラ・パレスで開かれた英国の作曲家による交響曲の大会で2等賞を獲得するが、初演まではその後2年を待たねばならなかった。同じ年に、彼はCUMSの演奏で行われた自作のオラトリオ「復活 The Resurrection」の初演を指揮した。スタンフォードはアルフレッド・テニスンの依頼を受けて戯曲『メアリ女王』への付随音楽を作曲し、それは1876年の4月にロンドンのライセウム劇場[n 21]で演奏された。

スタンフォードは1878年に父の反対を押し切り、ジェーン・アンナ・マリア・ウェットン(Jane Anna Maria Wetton)と結婚した。彼女はジェニーとして知られており、彼とは彼女がライプツィヒで勉強をしている時に知り合った。二人は1883年に娘のジェラルディン・メアリー(Geraldine Mary)を、1885年に息子のガイ・デズモンド(Guy Desmond)を授かっている。

1878年1879年にはスタンフォードは、友人のウィリアム・バークレイ・スクワイヤー(William Barclay Squire)の台本による初のオペラ「神秘の預言者 The Veiled Prophet」に取り組んでいた。これはトマス・ムーア[n 22]の詩に基づく作品で、純潔の尼僧と神秘の預言者が登場し、話は毒を盛り突き刺す場面で最高潮になる。スタンフォードはオペラ興行主のカール・ローザにこのオペラの公演を打診したが、断られてドイツでの公演を考えた方がいいと言われてしまう。「もし海外公演が成功したら、ここでの公演も成功する可能性が高まる。」というのである。Rosaはさらにサリヴァンの喜劇が大人気となっていることに言及し、こう付け加えた。「もし作品が Pinafore(訳注:サリヴァンの喜劇)形式だったら、事情は変わってくるのだが。」スタンフォード自身もサリヴァンの Cox and Box(訳注:サリヴァンの喜劇)を大いに楽しんではいたが、『神秘の預言者』は劇的要素とロマンスに溢れた真剣な内容にするつもりでいた。スタンフォードはドイツに滞在している間に多くの有用なコネを築いており、彼の友人であるErnst Frankがこの作品を1881年ハノーバーのKönigliches Schauspielで取り上げてくれた。ミュージカル・タイムズ誌への論評として、スタンフォードの友人のJ.A. Fuller Maitlandはこう記した。「スタンフォード氏の楽器法は・・・多かれ少なかれシューマンのそれに依っている。一方、彼の劇的要素の扱いは巨匠らの中ではマイヤベーアのものに類似している。」他の論評はまちまちであり、結局彼のオペラがイングランド初演を迎えるのは1893年のことであった。にもかからず、スタンフォードは彼の生涯を通じて、オペラでの成功を追求し続けた。一生オペラに対して情熱を燃やし続けた彼と、一度はオペラを作曲しようとしたものの、あとにそれを放棄してしまった同時代のパリーとでは、違いが際立っている。

1880年代までには、スタンフォードは英国音楽界を代表する人物になりつつあった。彼の主なライバルと目されるのは、サリヴァン、フレデリック・コーウェン、パリー、アレキサンダー・マッケンジーアーサー・トーマスのみであった。サリヴァンは大規模な楽劇ではなく喜劇を作っていたため、意識の高い音楽家のサークルからは当時疑問視されていた。コーウェンは作曲家というより指揮者であると見なされていた、また、他の三人は有望視されてはいたが、まだスタンフォードほどに目立った活躍はしていなかった。スタンフォードはパリーに対して特に知名度が上がるよう協力しており、ケンブリッジ公演のアリストパネス鳥 (喜劇)への付随音楽や交響曲(交響曲第2番「ケンブリッジ」)委嘱するなどした。スタンフォードはケンブリッジにおいて、ヨアヒム、ハンス・リヒターアルフレッド・ピアッティエドヴァルド・ダンロイターなどの客演を取り付け、自分自身とともにCUMSの名声の向上に貢献し続けた。音楽部はパリー、マッケンジー、トーマスや他の作曲家の作品を初演し、さらに注目を浴びるようになっていった。スタンフォードはまた、Trinityでのオルガニストとしての技量で人びとに印象を与え、音楽的水準を引き上げ、さらに彼の伝記作家であるJermy Dibbleが「特に注目に値する教会音楽」と呼んだ礼拝音楽変ロ長調(1879年)、讃美歌 『主は私の羊飼い』(1886年)、モテット『神に従う人の魂はJustorum animae』(1888年)などを作曲した。

1880年代前半、スタンフォードは2つのオペラ、「サヴォナローラ Savonarola」と「カンタベリーの清教徒たち The Canterbury Pilgrims」で作家のGilbert à Beckettと協力関係にあった。前者は1884年4月のハンブルグ初演において好意的な評を受けたものの、同年7月のロイヤル・オペラ・ハウスでの公演では散々に酷評された。パリーは私的にこう述べている。「そのオペラは全然練られておらず、公演向けとしてはひどい構成の出来だった。音楽は清涼でよく作られていたものの、印象が薄く劇的な情感に乏しかった。」最も辛辣な公開批評を加えたのは劇場内の人間で、その評によると「『サヴォナローラ』の台本は陳腐かつ大袈裟で、劇性という観点からは弱かった。しかし、劇に付された音楽はそれにも増してやかましくうんざりするようなものだった。そのような『サヴォナローラ』を鑑賞したが、私には(スタンフォードの)方向性はこのようなものだとしか思えず、それならば早く劇場を辞して大聖堂での仕事に専念してくれた方が、彼の名声のためでもあるのにと思わずにはいられなかった。」『カンタベリーの清教徒たち』は『サヴォナローラ』のロイヤル・オペラ・ハウス公演の3か月前、1884年4月にロンドンで初演を迎えた。これは『サヴォナローラ』よりは好評を受けたものの、公演評はスタンフォードがマイスタージンガーから受けている影響を指摘し、愛の音楽に情感が不足していることに不満を述べている。ジョージ・グローヴはパリーに宛てた書簡で、批評家に同意しつつ「チャールズの音楽に唯一欠けているものは感情だ。愛情は聴いていて微塵たりとも感じられなかった。(中略)それにもっと音色が豊かであった方がいい。メロディーは決して悪いものではないのだから。」と述べている。1896年にある批評家が記したところによると、そのオペラの「台本は故Alfred Cellier(1844 - 1891)になら、よく合ったことだろう。彼なら、それを使って軽いイギリスオペラを作っただろうからだ。しかしスタンフォード氏はあの台本で、拡大された理論を開示する道を選んだ。我々はそれが彼の持ち前であると了解しているが、その音楽を聴いた我々には、彼がマイスタージンガーを下敷きとしたのだろうという印象が残ってしまった。この組み合わせは、幸福な効果をもたらさなかった。」

教授として

1883年、短期間で失敗に終わった国立音楽訓練学校(National Training School for Music; NTSM)に代わるものとして王立音楽大学が設立された[18]。NTSMもより長く続いた王立音楽アカデミーもプロのオーケストラ団員に適するような訓練を施すことができなかったため[n 23]、設立者で総監督であったジョージ・グローヴはそれが可能な新たな機関を設置することを決めた[18]。彼のこの決定に味方したのは、主にヴァイオリニストHenry Holmesとスタンフォードである。大学設立に関する論考中で、David Writeはスタンフォードがグローヴの目標に力添えをしたのは、主に二つの理由からであったと指摘している。第一に、学生が自分で作曲した作品を音にする経験を得るために、有能な大学オーケストラの存在が不可欠であるという彼自身の信条があった。第二に、ドイツとイングランドのオーケストラの演奏水準に、顕著な差がみられたことである[18]。彼はグローヴによる、作曲の教授と大学オーケストラの指揮者(これはHolmesも同様だった)への招聘に応じた[18]。彼はその後、教授職にとどまり続けた。彼の多くの教え子の中で特に有名なのはサミュエル・コールリッジ=テイラーグスターヴ・ホルストレイフ・ヴォーン・ウィリアムズジョン・アイアランドフランク・ブリッジアーサー・ブリスなどである[13][n 24]

スタンフォードは、決して甘い教師ではなかった。彼はマンツーマンの個別指導体制を敷いて、学生には多くの課題を与えた。ハーバート・ハウエルズはこう述懐する。「誰でもいいからスタンフォードの生徒を角に追いつめ、先生に見つけられてしまった自分の罪の中で最も忌み嫌っているものを白状させるんだ。'秩序を欠いていること'、'下品さ'などと答えるだろう。こういった学生たちが教授室に入って、出てきたときにはひどく傷ついていたものだ。スタンフォードは疑わしい作品や技量に対して妥協を見せることを、頑として許さなかったのだ[22]。」もう一人の生徒であるエドガー・ベイントンはこう語っている。

スタンフォードの指導には方法論や計画性がないように思えた。彼の評価は大部分が「これはいいね、君」もしくは「これはひどいよ、君」で成り立っていたのだ(もっとも、後者が大半であったが)。おそらく、こうした中にも、そうするだけの価値はあったのだろう。彼は保守主義であり、音楽的にも政治的にも強く熱心な保守主義者であったにもかかわらず、驚くほどあらゆる国や時代の音楽作品に精通していた。そのため彼の意見は重みがあり、かえって腹立たしいものになっていたのだ[22]

スタンフォードは、作曲家として高い名声を得た自分の生徒の多くが、自分が説いた古典的でブラームス風の道から逃げ出してしまったことを残念がっていた。彼はそこにライネッケの保守主義に反発した自分の姿を重ねたのだ[22]。作曲家のジョージ・ダイソンはこう記している。「ある意味で、彼が戦ってきた反抗(者)こそが、彼の方法論の最も明らかな成果である。そして反逆者の幾人かがそれ以来成し遂げたことを考えたならば、果たして生徒に色々なやり方で革命を起こさせる以上に教師としてうまいやり方があるだろうか、と思わずにはいられないのである[22]。」スタンフォードの生徒の中には、ホルストやヴォーン・ウィリアムズのようにその作品が英国の一般的なレパートリーになった者もおり、これはスタンフォードにはついに成し遂げられなかったことだ[28]。スタンフォードの死後長らく、スタンフォードの最大の名声は教師としてのものであるとさえ考えられていた[28]。彼のRCMでの功績には、毎年少なくとも1つはオペラ作品を制作する、オペラクラスの新設もある。1885年から1915年の間に32作品が生まれ、スタンフォードはそれらすべてを指揮したのである[29]

1887年10月に死亡したジョージ・マクファーレン( George Alexander Macfarren)の後任として、スタンフォードはケンブリッジ大学の音楽科教授に任命された[30]。この時まで、ケンブリッジ大学は学部に所属していない者にも、大学が課す音楽の試験を受けて合格するだけで音楽の学位を授けていた。スタンフォードはこの慣習を廃止することを決定し、6年後には大学の重役を説得してこれを認めさせた。大学で3年間学ぶことが、音楽学士(Bachelor of Music)の試験を受験するために必須となった[1][n 25]

指揮者、作曲家として

19世紀の終盤頃には、スタンフォードの学術的な業務は作曲や演奏の妨げにならない程度になっていた。彼は1885年、初代指揮者であるオットー・ゴールドシュミットの跡を継いで、ロンドンのバッハ合唱団(en)の常任指揮者になった[33]。彼は1902年までそのポストを務めている。1888年1月にはハンス・フォン・ビューローがスタンフォードの「交響曲第3番 アイリッシュ」のドイツ初演をハンブルグで指揮し、強い印象を受けたビューローは直後にベルリンの公演でも同曲をプログラムに組み込んだ[34]。この曲はリヒターがウィーンで演奏しており、その後マーラーニューヨークで指揮している[35][n 26]。スタンフォードはケンブリッジの王立歌劇場のためにアイスキュロスの「オレステイア」中の「慈しみの女神たち」への付随音楽(1885年)、ソポクレスの「オイディプス王」への付随音楽(1887年)を作曲した。タイムズ紙は前者に関してこう評している。「スタンフォード氏の音楽は劇に重要な役割を果たし、またそれ自体も美しいものだった。さらに、音楽の質は現代の作曲家の中において非常に稀なものだった。その形式である[37]。」両作品においてスタンフォードはワーグナー流のライトモティーフを多用しており、タイムズ紙は「オイディプス王」のワグネリアン的性格を指摘している[38]

1890年代に「ザ・ワールド」の批評家であるバーナード・ショウは「バセットホルン」と例えて、スタンフォードに対する入り混じった感情を表現した。ショウの考えでは、スタンフォードの最良の作品は抑制されないアイルランド風のものである[39][40]。ショウはスタンフォードの厳粛なビクトリア朝の合唱音楽には軽蔑的な立場をとっていた。1891年7月のショウのコラムはスタンフォードの勇壮な曲を作る才能への賛辞に満ちており、リチャード・ドイリー・カート(Richard D'Oyly Carte[n 27]サヴォイ・オペラのサリヴァンの後継としてスタンフォードを雇うべきだ、とまで述べた[41]。ところが同年10月には、彼はスタンフォードのオラトリオ「エデン Eden」を非難し、パリーやマッケンジーらと一括りにした上で彼らが内輪で褒め合う団体を組織し[42]、「偽クラシック」を作っていると述べている。

高名な音楽家たちを非難するなんて、私は自分が信じられない。もしエデンに疑問を抱いたならば、パリー氏やマッケンジー氏にたずねてみることだ。彼らは天まで届くほどの拍手をするだろう。マッケンジー氏の意見は決定的なものに間違いない。だって彼は来たりし創造主(Veni Creator)ではなく、スタンフォード教授とパリー氏に認められた素晴らしい音楽家じゃないか。パリーが誰なのか知りたいって?この祝福された二人の歌姫[n 28]の作曲者について知っておいて何の得があるかは、マッケンジー氏とスタンフォード教授に聞いて欲しい[43]

フラー・メイトランド[n 29]にとっては、ショウに風刺された三人組はイングランド音楽のルネッサンス[n 30]の牽引役であった(もっとも、スタンフォードもマッケンジーもイングランドの生まれではなかったが)[44]。この見方は、いくつかの学術サークルの中では何年にもわたって残り続けた[42]

作品

生涯に7つの交響曲を遺した他、アイルランドの民俗音楽を取り入れた楽曲も書いており、6つの『アイルランド狂詩曲』(Irish Rhapsody)は、その代表的な作品である。多岐にわたる分野において多くの曲を書いており、作品番号の総数は190を超える。器楽曲において作風はおおむねブラームスに似る。宗教曲を中心とした声楽曲はパーセルメンデルスゾーンを模範としているが、和声や転調に工夫が見られ、再評価されつつある。ブラームスやサン=サーンスなどの作曲家と親交があった。

交響曲

  • 交響曲第1番変ロ長調
  • 交響曲第2番ニ短調
  • 交響曲第3番ヘ短調 op.28『アイリッシュ』
  • 交響曲第4番ヘ長調 op.31
  • 交響曲第5番ニ長調 op.56
  • 交響曲第6番変ホ長調 op.94
  • 交響曲第7番ニ短調 op.124

管弦楽曲

  • アイルランド狂詩曲第1番ニ短調 op.78
  • アイルランド狂詩曲第2番ヘ短調 op.84
  • アイルランド狂詩曲第3番 op.137
  • アイルランド狂詩曲第4番イ短調 op.141『ネイ湖の漁師と彼が見たもの』
  • アイルランド狂詩曲第5番ト短調 op.147
  • アイルランド狂詩曲第6番 op.191

協奏曲・協奏的作品

  • ヴァイオリンと管弦楽のための組曲 ニ長調 op.32
  • ピアノ協奏曲第1番ト長調 op.59
  • ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 op.74
  • クラリネット協奏曲イ短調 op.80
  • ピアノ協奏曲第2番ハ短調 op.126

室内楽・器楽曲

  • 4つのアイルランドの踊り op.89
  • セレナード ヘ長調 op.95
  • クラリネット・ソナタ op.129

声楽曲

  • 3つのラテン語のモテット op.38
  • レクイエム op.63
  • 海の歌op.91
  • スターバト・マーテル op.96
  • 海軍の歌op.117
  • 8つのパートソング op.119(op.119-3は「青い鳥(The Blue Bird)」)
  • レンスターの歌op.140

著書

  • 喜多村進編『作曲の最近傾向を論ず』(門馬直衛訳/南葵文庫音楽部/1923年)
  • 作曲法(門馬直衛訳/岡田日栄堂/1925年)

録音

外部リンク

脚注

注釈

  1. ^ ロンドンを本拠地とする合唱団。ロンドンや各地で演奏を行っており、歌い手には3年ごとにオーディションが課される。(Bach Choir
  2. ^ リーズの市民ホール(en)の完成を祝って1858年に始まった音楽祭。1874年からは3年ごとに開催され、1985年まで続いた。(Leeds triennial music festival
  3. ^ 訳注:イタリア生まれの英国のオペラ歌手、指導者。(Domenico Crivelli
  4. ^ 訳注:フランス人とアイルランド人の血を引くイタリア人歌手。「半分同郷」はこのことを指す。(Luigi Lablache
  5. ^ 訳注:バス歌手が演じるオペラの道化役。
  6. ^ スタンフォードは父のバスの声についてこう記している。「ハイFからロウCまでの音域を持ち、私があらゆる場所で耳にしたなかでも質と流儀は最良のものの一つだった。彼はドメニコ・クリベッリ[n 3]に付いて学び、パリではネイティブのようにイタリア語を話し、半分同郷のルイージ・ラブラッチェ[n 4]に少なからず似ていた(それがよくわかる人々の意見である)。(中略)彼の解釈の幅はオラトリオから極めて早口のブーフォ[n 5]までに及び、それらを軽々と流暢なイタリア語でこなしていた[5]。」
  7. ^ 訳注:違法な上演を行っていないという王室からの特許を得ていた劇場を「王立劇場」と称し、ダブリンには4か所の王立劇場がある。そのいずれであるかは原文からは明らかでない。(Theatre Royal, Dublin
  8. ^ 訳注:19世紀に活躍したソプラノオペラ歌手。(Adelina Patti
  9. ^ 訳注:いずれもオペラ歌手。
  10. ^ 訳注:ケルビーニのオペラ(Les deux journées)。「水運び Le porteur d'eau 」とも。
  11. ^ 訳注:マイアーベーアのオペラ。ショパンチェロとピアノの二重奏の題材としたことで知られる。(Robert le diable
  12. ^ 訳注:マイアベーアのオペラ。(Les Huguenots
  13. ^ 訳注:ドニゼッティのオペラ。(Lucrezia Borgia
  14. ^ 訳注:グノーのオペラ。(Mireille
  15. ^ スタンフォードは記憶を辿り、ダブリンでこの会社が興行した中で聴きに入ったオペラの演目を列挙している。「フィガロの結婚」、「魔笛」、「フィデリオ」、「セビリアの理髪師」、「二日間[n 10]」、「悪魔ロベール[n 11]」、「ユグノー教徒[n 12]」、「魔弾の射手」、「オベロン」、「連隊の娘」、「ルクレツィア・ボルジア[n 13]」、「リゴレット」、「ハムレット」、「ファウスト」、「ミレイユ[n 14]」である[11]
  16. ^ 訳注:オーストリアのピアニストでモーツァルトの実子であるフランツ・クサーヴァー・モーツァルトにピアノを、ジーモン・ゼヒターに作曲を師事した。(Ernst Pauer
  17. ^ 訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1350年創立で、ケンブリッジ大学で5番目に古いカレッジ。(Trinity Hall
  18. ^ 訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1448年創立。(Queens' College
  19. ^ 訳注:1165年創建。ライプツィヒで最も有名な教会。(en
  20. ^ 訳注:イギリスの作曲家、教師。サリヴァン等に学んだ。(Eaton Faning
  21. ^ 訳注:ロンドン、ウェストミンスター市のウェスト・エンドの劇場。現在の建物は1834年開場。(The Lyceum Theatre
  22. ^ 訳注:アイルランドの詩人。The Minstrel Boyなどで知られる。( Thomas Moore
  23. ^ In 1870 it was estimated that fewer than ten per cent of professional instrumentalists in London had studied at the Royal Academy.[18]
  24. ^ スタンフォードの他の教え子で作曲家だったのは エドガー・ベイントン,[19] アーサー・ベンジャミン,[1] ラトランド・ボートン,[13] ハーバート・ブリューワー,[20] ジョージ・バターワース,[1] レベッカ・クラーク,[21] ワルフォード・デイヴィス,[13] トマス・ダンヒル,[22] ジョージ・ダイソン,[13] アイヴァー・ガーニー,[1] ハーバート・ハウエルズ,[13] ウィリアム・ハールストーン,[1] ゴードン・ジェイコブ,[23] アーネスト・モーラン,[1] アーサー・サマヴェル,[24] そして チャールズ・ウッド (ケンブリッジで教授となった)である[25]。後に指揮者として知られるようになった教え子は ユージン・グーセンス,[1] レスリー・ヒュアード,[26]レオポルド・ストコフスキーである[27]
  25. ^ ケンブリッジ大学が、イングランドで初めて非在学生への音楽学位授与を取りやめた大学であるが[31]、この慣習は他の大学では20世紀になっても続けられていた。1914年マルコム・サージェントダラム大学から、全く在籍実績なしに試験を受けに行っただけで音楽学士を授与されており、1919年には同大学より同じ方法で音楽博士を得ている[32]
  26. ^ マーラーは前向きにスタンフォードの音楽を紹介したが、これに対する見返りはなかった。ロッドメル(Rodmell)が述べるところによると、指揮者としてのスタンフォードは通常マーラーの作品を無視しており、それはドビュッシーラヴェルストラヴィンスキーの作品に対しても同じであった[36]
  27. ^ 訳注:サヴォイ・オペラの興行主。英国喜劇の普及のためサリヴァンらを率いた。
  28. ^ 訳注:パリー 1887年作のオーケストラ伴奏合唱曲  Blest Pair of Sirens
  29. ^ 訳注:英国の音楽批評家。イングランド音楽のルネッサンス(en)を提唱した。(Fuller Maitland
  30. ^ 訳注:19世紀後半から20世紀初頭にかけて、主に王立音楽大学で学んだ音楽家たちがヨーロッパ音楽からの影響から解き放たれ、自国の語法をもって大陸の音楽に引けを取らない作品を生み出した時期を指す

出典

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  2. ^ "Stanford, Sir Charles Villiers", Who Was Who, A & C Black, 1920–2008; online edition, Oxford University Press, December 2007, accessed 11 December 2011 (Paid subscription required要購読契約)
  3. ^ Rodmell, p. 9
  4. ^ a b c d "Charles Villiers Stanford", The Musical Times and Singing Class Circular, Vol. 39, No. 670 (December 1898), pp. 785–793 (Paid subscription required要購読契約)
  5. ^ Stanford (1914), pp. 27–28
  6. ^ Willeby, p. 264
  7. ^ Stanford (1914), p. 58
  8. ^ Rodmell, p. 28
  9. ^ "University of Dublin Choral Society", Freeman's Journal and Daily Commercial Advertiser, 16 February 1867, p. 3
  10. ^ Stanford (1914), pp. 61–62
  11. ^ Stanford (1914), p. 91
  12. ^ Stanford (1914), p. 70
  13. ^ a b c d e f Firman, Rosemary. "Stanford, Sir Charles Villiers (1852–1924)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 11 December 2011 (Paid subscription required要購読契約)
  14. ^ a b Dibble, p. 25
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  16. ^ a b Stanford (1914), p. 103
  17. ^ Stanford (1914), p. 105
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  19. ^ Jones, Michael. "Bainton, Edgar Leslie (1880–1956)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 21 December 2011 (Paid subscription required要購読契約)
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  22. ^ a b c d e 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「pupils」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  23. ^ Wetherell, Eric. '"Jacob, Gordon Percival Septimus (1895–1984)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 21 December 2011 (Paid subscription required要購読契約)
  24. ^ Dibble, Jeremy. "Somervell, Sir Arthur (1863–1937)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 22 December 2011
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  26. ^ Jones, Michael. "Heward, Leslie Hays (1897–1943)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 21 December 2011 (Paid subscription required要購読契約)
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  29. ^ Rodmell, p. 306
  30. ^ Rodmell, p. 134
  31. ^ Rodmell, p. 173
  32. ^ Reid, pp. 59–60 and 86
  33. ^ Rodmell, p. 114
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  36. ^ Rodmell, p. 346
  37. ^ "Aeschylus at Cambridge", The Times, 2 December 1885, p. 6
  38. ^ "Oedipus at Cambridge", The Times, 23 November 1887, p. 6
  39. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「anderson」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  40. ^ Shaw, p. 389
  41. ^ Shaw, pp. 389–390
  42. ^ a b Eatock, p. 90
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参考文献

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参照

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