カナダ侵攻作戦

カナダ侵攻作戦
Death of Montgomery.jpg
ケベック攻撃でのモントゴメリー将軍の死
(by ジョン・トランブル, 1786年)
戦争アメリカ独立戦争
年月日1775年6月 - 1776年10月
場所シャンプレーン湖 及び セントローレンス川渓谷
結果:大陸軍の侵攻失敗
イギリス軍の反撃
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗大陸軍
カナダ人連隊
イギリスの旗イギリス軍
カナダ民兵
指導者・指揮官
フィリップ・スカイラー
リチャード・モントゴメリー
ベネディクト・アーノルド
ジョン・サリバン
デイビッド・ウースター
ジョン・トーマス
ガイ・カールトン
ジョン・バーゴイン
戦力
約10,000[1] 700から10,000以上[2]
損害
戦死約400
負傷約650
捕虜約1,500
総計: 2,500
戦死約100
負傷約230
捕虜約600
総計: 930
アメリカ独立戦争

カナダ侵攻作戦 (カナダしんこうさくせん、: Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて、新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。

大陸軍から2つの遠征隊が派遣された。1隊はリチャード・モントゴメリー将軍の指揮で8月下旬にタイコンデロガ砦から出発し、9月半ばにモントリオールの南にある主要防御地点であるセントジョンズ砦の包囲を始めた。11月にこの砦を落とされた後で、イギリス軍ガイ・カールトン将軍はモントリオールを放棄してケベック市に逃亡した。モントゴメリーはモントリオールを占領したときにカールトン将軍をもう少しで捕まえるところだった。しかし、徴兵期間が明けるために勢力はかなり減少した。もう1隊はベネディクト・アーノルドの指揮でマサチューセッツ湾植民地ケンブリッジを出発し、メインの荒野を艱難辛苦して通り抜けてケベック市に達した。荒野を通る大変な行軍のために残っている兵士は飢えており、物資や装備も欠けていた。

2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘は大陸軍にとって悲惨な敗北になった。モントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷した。市を守るイギリス軍はほとんど損失が無かった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始め、その間にロイヤリストの情報宣伝活動で守備側の意気は上がり、モントリオールを管理していたデイビッド・ウースター将軍のまずさで大陸軍の支援者も中傷者をも悩ませることになった。

イギリス軍1776年5月にケベック地方を補強するために、ジョン・バーゴイン将軍とドイツ人傭兵を含む数千名の援軍を派遣した。カールトンは反撃を試み、天然痘で弱り組織が乱れていた大陸軍をタイコンデロガ砦まで押し戻した。アーノルド指揮下の大陸軍はイギリス軍の歩みを遅らせることに成功し、1776年の間はタイコンデロガ砦への攻撃をできないようにした。この侵攻作戦の終了後、バーゴインがハドソン川流域の支配を目指した1777年サラトガ方面作戦に続いた。

作戦の名前

アメリカの軍事作戦の目的であるイギリス領ケベックの支配は1775年の「カナダ」と呼ばれることが多い。例えば第二次大陸会議によるフィリップ・スカイラー将軍に対する作戦の承認文は、もしも「カナダ人にとって同意できないものでない」のであれば、「即座にセントジョン砦、モントリオールおよびかの国の如何なる所も占領し」、「カナダで如何なる手段を追求しても」植民地の「平和と安全を促進」することだという言葉遣いがあった[3]。この作戦を詳細に語る比較的現代の歴史書であっても、その表題にカナダを使っている。イギリスがケベックと呼んだこの領土は、フレンチ・インディアン戦争が正式に終わった1763年まで概してフランス領カナダ植民地と呼ばれていた(フランスの指導層は1760年にこの植民地についてイギリス軍に降伏していた)[4]。本稿で使う「ケベック」という名前は、具体的に「カナダ」と言及する引用を除いて、この歴史的な使われ方と現代のカナダという国に関する使われ方の間の混同を避けるためである。

背景

1775年の春、レキシントン・コンコードの戦いを契機に、アメリカ独立戦争が始まった。その後すぐに戦況が膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いた。1775年5月、イギリス軍のタイコンデロガ砦が防御が甘く、しかも重火器が置いてあることに気付いたベネディクト・アーノルドとイーサン・アレンがタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦を占領し、セントジョンズ砦を襲撃した。これらの砦は全て当時はほんのわずかな手勢で守られていた[5]。タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦は6月にベンジャミン・ハインマンの指揮するコネチカット民兵1,100名によって守られることになった[6]

大陸会議の承認

1774年に会した第一次大陸会議は、10月26日付けの公式書簡で1775年5月に開催される第二次会議にフランス系カナダ人も加わるよう招請していた。第二次大陸会議も1775年5月にそのような2度目の手紙を送ったが、どちらの手紙にも実質的な反応は無かった[7]

タイコンデロガ砦の奪取に続いてアーノルドとアレンは、イギリス軍がアメリカ植民地を分割しようという試みに対してタイコンデロガ砦を防御線として守る必要性を主張し、併せてケベックの守りが薄いことも報せていた。彼らはそれぞれにケベックに対する遠征を提案し、1,200から1,500名程度の小さな軍隊でもケベック植民地からイギリス軍を追い出すには十分なことを示唆していた。大陸会議は当初タイコンデロガなどの砦の放棄を命令し[8]、ニューヨークとコネチカットの各植民地には基本的に防衛の目的で軍隊と物資を出すように促した。ニューイングランドニューヨーク植民地からの大衆の声により、大陸会議にその姿勢を変えるように迫った。ケベック総督のガイ・カールトンがセントジョンズ砦の防御を強化しており、ニューヨーク植民地北部のイロコイ族インディアンを巻き込もうとしていることも明らかになったとき、大陸会議はより積極的な姿勢が必要なことを決断した。1775年6月27日、大陸会議はフィリップ・スカイラー将軍にその地域を調査するよう認め、適切と考えられるならば侵略を始めることを承認した[9]。ベネディクト・アーノルドは自分の指揮官職務を辞してボストンに向かい、ジョージ・ワシントン将軍を説得して、アーノルドの指揮で別働隊をケベックに向けて派遣させることにした[10]

ケベック防衛の準備

カールトン将軍はセントジョンズ砦の襲撃があった後に、南から侵略される危険性を痛切に感じ取り、ボストンにいるトマス・ゲイジ将軍からの援軍を要請した。カールトンはモントリオールとケベック市の防衛のために地元の民兵隊立ち上げに取り掛かったがほとんど成功しなかった[11]。タイコンデロガ砦が捕獲されセントジョンズ砦が襲われたことに反応して、モントリオールの南、リシュリュー川沿いにあるセントジョンズ砦を守る為に700名の部隊を派遣し、シャンプレーン湖で使う為の船舶建造を命令し[12]、またその防衛を援けさせるためにモホーク族インディアン約100名も徴募した。カールトン自身はモントリオールの防衛を監督し、主な防御はセントジョンズ砦に頼っていたので僅か150名の正規兵を連れただけだった[10]。ケベック市の防衛は副総督のヘクター・クラマヘの指揮に委ねた[13]

インディアンの支援を求めた交渉

ニューヨーク植民地モホーク川流域に住むロイヤリストでイギリスのインディアン代理人だったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民地のイロコイ族と極めて親密にしており、愛国者側の感情がニューヨークを支配したことが明らかになった後で、自身と家族の安全が心配だった。もはやイギリスとの商売を安全に行うことができなくなったと確信すると、200人の追随者やモホーク族の支持者等とともにニューヨークの領地を離れた。まずはオンタリオ砦に向かい、6月17日にインディアン部族の指導者達から(大半はイロコイ族とヒューロン族)地域の物資と通信の供給線を保つことを助け、「敵による困りごと」があるときはイギリスを支援するという約束を取り付けた[14]。そこからはモントリオールに向かい、カールトン将軍や1,500名以上のインディアンとの会談で、同様な合意を交渉し、「いつでも臨戦態勢を取れるように」戦争の帯を配った[15]。しかし、これら合意事項に加わった者の大半はモホーク族だった。イロコイ連邦の他の部族はこれらの協議を避け、中立であろうとした。会議後もモホーク族の多くはモントリオール地域に留まった。しかし1775年に大陸軍が現実に侵略を開始するか不確かに思えたとき、その大半は8月の中旬までに故郷に戻った[16]

大陸会議はイロコイ連邦の6部族を戦争の局外に置いておこうとしていた。1775年7月、オネイダ族に影響力のあった伝道師サミュエル・カークランドが、「私たちはあなた方が故郷に留まり、どちらの軍にも加わらず、戦いの手斧を深く埋めておくことを望む」という大陸会議からの声明文を持って行った[15]。オネイダ族やタスカローラ族は公式に中立を守ったが、オネイダ族の個人では多くがアメリカ側への同調を表明した[15]。ジョンソンがモントリオールで会議を開いたという報せを聞いたスカイラー将軍はやはりオネイダ族に影響力があったので、オールバニでの協議会を招集し、8月半ばに開催した。この会合には約400人のインディアン(主にオネイダ族とタスカローラ族、さらに幾らかのモホーク族)が参加し、スカイラーと他のインディアン・コミッショナーがイギリスから植民地を分かつ問題を説明し、植民地人は自分達の権利を守る為に戦うこと、征服を意図しているのではないことを強調した[17]。集まった酋長達は中立を守ることに合意し、モホーク族のある酋長は「これは家庭内の問題である」と言い、彼らは「じっと座ってあなた方が戦っているのを見る」ことにすると言った[18]。しかし、彼らはインディアンの土地に白人開拓者が侵入してくることに対するような打ち続く苦情に対処してくれる約束を含め、アメリカ側からの譲歩を引き出しもした[19]

モントゴメリー遠征隊

侵略の主力部隊はスカイラー将軍が率い、シャンプレーン湖を上ってモントリオールとケベック市を襲撃することになった。遠征隊はニューヨーク、コネチカットおよびニューハンプシャー各植民地からの部隊で構成され、セス・ワーナーのグリーン・マウンテン・ボーイズもニューヨークから供給される食糧で参加することになった[20]。しかしスカイラーは過度に慎重であり、8月半ばまでにカールトン将軍がモントリオール郊外に防衛陣地を強化し[21]、インディアン部族の幾らかがイギリス軍に加担したという報告を受け取ることになった[22]

セントジョンズ砦への接近

スカイラーがまだインディアンと協議していた8月25日、モントゴメリーはセントジョンズ砦で建造中の船舶が完成間近である報せを受け取った。モントゴメリーはスカイラーが不在であること(さらには行動を承認する命令が無かったこと)を利用し、タイコンデロガ砦で集めた兵士1,200名を率いてリシュリュー川沿いのイル・オ・ノワにある前進基地に向かい、9月4日に到着した[23]。このとき病気になっていたスカイラーは途中でこの部隊に追いついた。スカイラーはその地域でアメリカ側を支援するために地元の民兵隊立ち上げの準備をしていたカナダ人ジェイムズ・リビングストンに伝言を送り、モントリオール南の地域を巡回するよう伝えた。翌日、この部隊は川を下ってセントジョンズ砦に向かい、その防御の度合いを視察し、両軍共に損失を出した簡単な小競り合いの後でイル・オ・ノワまで撤退した。この小競り合いのとき、イギリス軍側は大半がインディアンが戦っており、砦の方からは支援が無かったので、インディアン達にこの対立から身を退かせることになった[24]。イギリス軍に対する別の援軍はオネイダ族が地域に折りよく到着して遮られた。オネイダ族はモホーク族戦士隊がコーナワガからセントジョンズ砦に向かっていたのを妨害した。モホーク族戦士隊はガイ・ジョンソン、ダニエル・クラウスおよびジョセフ・ブラントが来てモホーク族の援助を得ようとしたものだったが、オネイダ族は彼らを村に戻るよう説得した。オネイダ族はジョンソンやクラウスと直接会うことは拒否し、ブラントやモホーク族の面々にオールバニでの同意事項の条件について説明した[25]。ブラントとイギリスの代理人は支援の約束をすることも無く、その場を去った(イギリスのより公式な扱いでは、ガイ・ジョンソンが7月にイロコイ族に与えた戦いの帯は1775年12月にアメリカ側インディアン・コミッショナーに渡された)[26]

捕虜になったイーサン・アレン

この最初の小競り合いの後でスカイラーの病気が重くなり、指揮を続けられなくなったので、指揮権をモントゴメリーに譲った。スカイラーは数日後にタイコンデロガ砦に引き返した[27]。モントゴメリーは、もう一度出発に失敗した後、コネチカット、ニューハンプシャーおよびニューヨークからの支援部隊800ないし1,000名とグリーン・マウンテン・ボーイズの幾らかが到着したので、9月17日に遂にセントジョンズ砦とその傍の町の包囲を開始し、モントリオールとの通信を遮断し、砦に向かう物資を捕獲した。翌週、イーサン・アレンは単に地元の民兵を徴募しろという指示で過剰に動き、少数の部隊でモントリオールを占拠しようとして、ロングポイントの戦いで捕虜になった[28]。この出来事によってイギリス軍を支援する民兵には短期間の好転になったが、効果は長続きせず、その後には脱走者が続出した[29]

セントジャン砦はシャンプレーン湖の北端にあり、リシュリュー川を通ってカナダに入る要衝だった。砦にはチャールズ・プレストン少佐の指揮で300名の歩兵正規軍がおり、この植民地では最も防御を構えた町だった。大陸軍は病気、悪天候、兵站の難しさに災いされたが、迫撃砲を据えて砦の中まで貫通弾を打てるようになった。砦の弾薬は十分にあったが、食糧などの物資は乏しくなった。プレストンは、2,000名の部隊と共にモントリオールに駐屯しているガイ・カールトン将軍からの援軍を要請した。しかし、カールトンはケベック市の安全を損なうことに気が進まず、援軍を送ることを拒絶した。この判断ミスによってカールトンはモントリオールを失い、後にはケベックシティで彼自身が包囲されることになる。

10月18日、大陸軍はイギリス軍の小さな前哨基地シャンブリー砦を落としたことで、プレストンを完全に孤立させた。セントジョンズ砦は毎日砲撃され、砦の中は着実に破壊されていったが、プレストンは砦の守備を続けた。10月30日にガイ・カールトンが砦の包囲を解こうとした試みが失敗し、結局、プレストンは10週間の包囲後の11月3日に、援軍のあてがなく、来るべき冬の厳しさに備えて住民の助命を望み降伏した。[30]

モントリオール占領の開始

モントゴメリーは部隊を率いて北に進み、11月8日にセントローレンス川にあるセントポール島を占領し、翌日には対岸のポイントセントチャールズに渉り、解放者として迎えられた[31]11月13日、取り立てて抵抗を受けることもなくモントリオールが陥落した。ガイ・カールトンはモントリオール市が守れないと判断し、さらにセントジョンズ陥落の報せにかなりの数の民兵が脱走したこともあってモントリオールから撤退した。大陸軍が市の下流側で川を渡って上陸し、風のためにカールトンの戦隊が直ぐに出発できなかったので、危うく捕まりそうになった。この戦隊がソレルの町に近付いたとき、白旗を掲げた1隻のボートが現れた。そのボートは降伏の要求書を運んできており、さもなければ下流の砲台でその船団を破壊すると伝えてきた。カールトンは実際にそのような砲台があるかはっきりとは分からなかったので、もし降伏が必要になったときのために火薬や砲弾を捨てさせた後で、船団を密かに発信させる道を選んだ。実際に砲台はあったが、その主張していたほど強力ではなかった[32]。イギリス戦隊は降伏し、カールトンは平民の服装に身を窶して[33]ケベック市に向かって逃げた。捕獲した船にはイギリス軍が捉えていた捕虜も乗っていた。その中にマサチューセッツ生まれでセントジョンズ砦近くに土地を持っていた国外居住者モーゼス・ヘイズンがおり、イギリス軍に粗略に取り扱われたので、イギリスに背いていた。ヘイズンはフレンチ・インディアン戦争での戦闘体験があり、独立戦争を通じて第2カナダ人連隊を率いることになる者であり、モントゴメリーの軍隊に加わった[34]

モントゴメリーはモントリオールからケベック市に向かうに前に市民にメッセージを発し、大陸会議はケベックが仲間に入り、大陸会議に送る代表を選出するために植民地会議を開く目的でアメリカへの同調者との討議に入ることを望んでいることを伝えた。またスカイラー将軍には、外交目的で大陸会議の代表団を派遣してくれるよう要請する手紙を送った[35]

大陸軍のケベック遠征。この図はモントゴメリーとアーノルドの遠征路を示す

モントゴメリー軍の大半はモントリオール占領後に徴兵期間が切れて隊を離れた。11月28日に捕獲した船に約300名の兵士を乗せてケベック市に向けて出発した。モントリオール市にはデイビッド・ウースター将軍の指揮で約200名を残した[36]。モントゴメリーは途中で、ジェイムズ・リビングストンが新たに徴募した第1カナダ人連隊約200名を拾った。

アーノルド遠征隊

2番目の遠征隊はベネディクト・アーノルドに率いられた。大陸会議はアーノルドが立てたカナダ侵攻計画を大筋で認めたが、アーノルド自身はその実行部隊に組み入れられなかった。すげなくされたと感じたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジに戻り、ジョージ・ワシントンに接近して、ケベックシティを標的とした東からの支援部隊を送る案を提案した[37]。6月のバンカーヒルの戦い以後、ボストンではほとんど戦闘が無い状態だったので、多くの部隊が駐屯任務に飽きてきており、戦闘することを望んでいた事もあって、ワシントンはアーノルドの提案に同意した。ワシントンはアーノルドを大陸軍の大佐に任命し、二人で守備隊を見て回り遠征隊の志願兵を募った。アーノルドは最終的に750名の者を選出し、ワシントンはそこにダニエル・モーガンの部隊と他に何人かの狙撃兵を加えた[38]バージニア植民地ペンシルベニア植民地の荒れ地から来た開拓者達は、包囲戦よりも荒れ地での戦闘に向いているとの考えからだった。

ケベックに向けてケネベック川を遡る行程は20日の間に180マイル(290 km) 進む必要があった。アーノルドの遠征隊は、イギリス軍の指揮官カールトンがモントリオールでスカイラー軍に対抗するのに忙しいため、比較的抵抗もなく進めるものと予測していた。アーノルドはウェスターン砦に先乗り部隊を送り、物資とバトー(平底船)を用意させた。遠征隊は海を渡ってウェスターン砦まで5日で到着し、物資をまとめ船を準備した。

ガーディナーストンのコルバーン造船所で3日間滞在した。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請に応えて15日間でバトーを造り上げていたが、このバトーは乾燥した材木が得られないために、切り出したばかりの松材で造られていた。部隊は9月25日にウェスターン砦を発した。その先は、ケネベック川を遡り、またショーディエール川を下ってケベックに至ることが予定されていた。しかし用意されたバトーはオールで漕ぐことができず、竿をさして進むやり方だったため予定に狂いが生じることとなった。コルバーンは軍隊に同行し、バトーの修繕を繰り返したが、川を遡りまた流れの速いショーディエール川を下る過程で火薬など多くの物資と数人の人命が失われた上、分水界付近は湿地の多い湖沼と水路の集まりであり、雨や嵐が追い打ちを掛けた[39]。この結果ロジャー・イーノス中佐の部隊300名が、その物資と共に退却した。遠征隊が持って行った地図はイギリス軍が将来の敵を欺くために出版した不正確なものだった。実際に予定された旅程は180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果、物資が枯渇してしまい隊員達は、連れて行った犬・靴・弾薬箱・皮・苔・樹皮などを食べざるをえなかった。

遠征隊は11月6日セントローレンス川の南岸に到着したが、その時点で1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。彼らは400マイル (640 km) 近い道なき道を踏破してきていた。しかし、この時点においてもアーノルドは町を奪取できると考えた。イギリス軍守備兵は、アレン・マクリーン中佐以下の正規軍約100名と、数百の装備が貧弱な民兵であり、大陸軍が正確な射撃で民兵を蹴散らしてしまえば、正規軍の数で大陸軍が優位に立てるからだった。11月14日エイブラハム平原に着いた時に、アーノルドは白旗を掲げた交渉役を送ってイギリス軍の降伏を要求したが受け入れられなかった。大陸軍は大砲も無く、ほとんど戦闘には適していないまま、防御を固めた町に向かい合った。アーノルドは市内からの出撃が計画されていることを耳にし、最近モントリオール市を占領したばかりのモントゴメリー軍を待つ為に、11月19日にポイント・オ・トランブルまで後退した[40]。アーノルドが上流に向かう間に、カールトンが川伝いにケベック市に戻った[41]

12月2日、モントゴメリーがモントリオールから川を下り、500名の部隊とイギリス軍から捕獲した物資と冬の衣類を持ってきた。この2つの部隊は合流し、改めて町を攻撃する作戦が練られた[42]。3日後、大陸軍は再びエイブラハム平原に立ち、ケベック市包囲を始めた[43]

ケベックの戦いと包囲

ベネディクト・アーノルド、ケベックの戦いで負傷した

ケベック市攻撃の作戦を立てているときにトロワリビエール近くに住んでいるフランス人クリストフ・ペリシエがモントゴメリーに会うために尋ねてきた。ペリシエはアメリカ側を政治的に支援しており、セントモーリスで鉄工所を経営していた。モントゴメリーは彼と植民地会議を開催する考えについて議論した。ペリシエはケベック市を占領するまでは、市民達がその安全が保障され自由に行動できるようになるまでは、会議を開かないほうが良いと言った[44]。2人の間ではペリシエの鉄工所が包囲戦に必要な銃弾を提供することで合意し、それは1776年5月に大陸軍が撤退するまで続いた。ペリシエはその時に逃亡し、最後はフランスに戻った[45]

12月31日の午前4時に戦闘が開始された。アーノルドは自分の部隊を2手に分けた。アーノルドが総勢600名を率き連れて町の北側を攻撃し、モントゴメリーは300名の部隊で南側を攻撃した。2つの攻撃部隊はセントローレンス川に接する1点で落ち合い、そこから防壁の中へ突入する手筈だった。しかし、防御は非常に堅く力押しでは落ちなかった上、夜明け前に吹雪がはじまっていた。モントゴメリーの部隊は川沿いにケープダイアモンド稜堡の下を進んでいたが、30名のカナダ人民兵が籠もるバリケードに出くわした。戦端が開かれ、最初の一斉射撃でモントゴメリーが殺され、他にも多くが死傷した。大陸軍は吹雪の中では使えないマスケット銃しか持っていなかったので、反撃もうまくいかないまま川岸を退却した。

一方、アーノルドはモントゴメリーの戦死と攻撃失敗を知らないまま、北側のバリケードに向かったが、町の防壁を守るイギリス軍と民兵の反撃を受けた。ソルト・オ・マテローという名の通りにある道路バリケードで、アーノルドはマスケット銃の弾を左くるぶしに被弾し後方に搬送された。アーノルドに代わり副官のダニエル・モーガンが指揮を執ってこの道路バリケードを突破した。しかし次の命令を待つ間に、大陸軍は通りや近くの家の中の民兵の攻撃にさらされ、イギリス軍の反撃でバリケードが再度奪取された事で、モーガンと彼の部下が狭い通りに孤立してしまい、モーガン部隊は降伏した[46]。10時までにモーガン以外にも町に取り残されていた部隊が降伏し、戦闘が終わった。

この戦闘でアーノルドの部隊は30名以上が死亡し(他にも春の雪解け後に20名以上が発見され、凍結した川を越えて逃げる間に数名が溺れた)、モーガン以下426名が捕虜となった。モントゴメリーの部隊では少なくとも12名が南の川岸で死傷した。一方、イギリス軍の被害は、指揮官ガイ・カールトンによると、海軍士官1名とフランス系カナダ人民兵5名の死亡、正規軍兵士4名と民兵15名の負傷だった。

アーノルドは戦闘後にモーゼス・ヘイズンともう一人の国外居住者であるエドワード・アンティルを、モントリオールにいるデイビッド・ウースターとフィラデルフィアの大陸会議に敗北を報告し援軍を要請するために派遣した[47]。 カールトンは大陸軍を追撃しないことに決め、市の防御工作物の中に留まる道を選び、春になって川の氷が溶ければ期待できる援軍を待つことにした。アーノルドは兵力比が3対1になっても効力の無いケベック包囲を続けたが、1776年3月にモントリオールに戻り、ウースター将軍と交代するよう命じられた。この期間包囲軍は厳しい冬季の気象条件に苦しみ、天然痘が宿営所に蔓延し始めた。これらによる損失で毎月到着する小さな中隊単位の援軍があっても勢力は相殺された[48]。3月14日、市の下流に住む製材業者のジャン=バティスト・シャシュールがケベック市に入って、カールトンに川の南岸にいる200名が大陸軍に対抗する用意があることを伝えた[49]。これらに加えてさらに多くが動員されたが、前衛部隊がセント・ピエールの戦いで、川の南岸に駐屯していたアメリカ寄り地元民兵隊の派遣部隊によって敗北した[50]

3月にジョン・トーマス将軍に率いられた大陸軍の援軍が到着し、総勢は3,000名まで回復したが、主に天然痘のためにその4分の1は戦えなかった。さらには、ロイヤリストの執拗な情報宣伝のために、500名のカナダ人を指揮していたリビングストンとヘイズンがその兵士や協力市民の忠誠心について悲観的になった[51]

モントリオールでの不満

モントリオールの地図、1744年

モントゴメリー将軍がモントリオールを発ってケベック市に向かう時、市の管理をコネチカット出身のデイビッド・ウースター准将の手に預けていた。ウースターは当初そこの地域社会とまともな関係を築いていたが、地元の大衆がアメリカの軍隊が駐屯していることを嫌い始めるような多くの失政を行った。アメリカ人の抱く理想を大衆に約束した後でロイヤリストを逮捕し、アメリカ側に楯突く者は誰でも逮捕と刑罰で脅すようになった[52]。また幾つかの地域社会は武装解除し、地元の民兵隊員にはイギリスからの任命を放棄するよう強いた。それを拒んだ者は逮捕され、シャンブリー砦に拘禁された[53]。このような行動は、アメリカ側が物資や労働に対して硬貨ではなく紙幣で払っていたという事実と組み合わされ、アメリカ側がやろうとしていること全体に対する地元住民の幻滅を生むことになった。1776年3月20日、ウースターはケベック市包囲中の部隊の指揮を執るためにモントリオールを離れ、アーノルドが到着する(4月19日)までの間、モントリオールの管理は第2カナダ人連隊を立ち上げたモーゼス・ヘイズンに委ねた[54]

4月29日に大陸会議からの代表団3人が、フィラデルフィアからのカトリック教の聖職者1人やフランス人出版者1人と共にモントリオールに到着した。大陸会議はこの代表団に、ケベックの状況を評価し、そこでの世論をアメリカ側に誘導するような任務を宛てていた。ベンジャミン・フランクリンを含むこの代表団は、既に住民との関係がひどく悪化していたので、ほとんど何もできなかった。代表団は累積されていた住民への負債を解決するために硬貨を持ってきたわけではなかった。カトリック教の聖職者がアメリカ側の大義につかせようとした動きも失敗した。地元の聖職者はイギリスの議会によって成立していたケベック法で彼らの望むことは与えられていると指摘した。出版者のフルーリー・メスプレは新聞発行の準備をする一方で、代表団にとって事態が空回りし始める前に何かをする時間が無かった[55]。ケベック市の大陸軍が恐慌に陥った退却をしているという報せに続いて[56]、フランクリンと聖職者が5月11日にモントリオールを離れ、フィラデルフィアに戻った。代表団の他の2人、サミュエル・チェイスとチャールズ・キャロルはモントリオールの南部と東部の軍事的状況を分析し、そこが防御線を布く好位置だと分かった。5月27日、彼らは大陸会議に対するこの事態の報告書を書き、南に向けて出発した[57]

セネカ族の酋長コーンプランター、イギリス側を指示し、この作戦で戦った可能性がある

シーダーズ

モントリオールの上流には、大陸軍が占領中に意に介さなかったイギリス軍の小さな駐屯地が並んでいた。春が近付くと、カユガ族、セネカ族およびミシソーガ族の戦士達が駐屯地の一つであるオスウェガッチーに集まり始め、そこの指揮官であるジョージ・フォスター大尉にアメリカに対抗できるだけの力を与えた[58]。フォスターはモントリオールから逃げてきた1人のロイヤリストの勧めで彼らを戦力に含めた[56]。さらに愛国者もロイヤリストにとっても悩みの種だったウースターが上流側に物資を送ればそこのイギリス側に使われることを恐れて、上流のインディアンとの交易を許可しなかったが、大陸会議の代表団がこの決定を覆したので、物資が上流側に流れ始めた[59]

モーゼス・ヘイズンは上流のイギリス側へ物資が流れることを阻止するため、またインディアンが集まっているという噂に反応し、ティモシー・ベデル大佐と390名の部隊を40マイル (64 km) 上流のレ・セドル(英語でザ・シーダーズ)という地点に派遣し、そこで柵で囲んだ防御工作物を造らせた[59]。フォスターはこの動きをインディアンのスパイやロイヤリストから知らされ、6月15日にインディアン、民兵および正規兵の混成部隊約250名で下流への行軍を始めた。複数回の戦闘(シーダーズの戦い)の中で、ベデルの副官アイザック・バターフィールドが18日に戦わずして全軍降伏し、他に援軍として送られた100名も19日の短時間の小競り合いの後で降伏した[60]

キンズシェーヌ

アーノルドはバターフィールドが捕まったという報せを受け取ると、即座に彼らを取り返すための部隊を集め始め、モントリオールから直ぐ上流のラシーンで塹壕を掘らせた。レ・セドルの防御柵内に捕虜を留め置いたフォスターはこの時500名ほどになった部隊でモントリオールに接近し、5月24日までにアーノルド部隊の位置情報を掴み、またアーノルドが自隊を凌駕するような増援を期待していることも知った。フォスターの部隊は勢力が凋みつつあったので、セントジョンズ砦の包囲戦で捕虜になっていたイギリス兵と今捕まえているアメリカ兵の交換を交渉した。キンズシェーヌで短時間の砲撃が交わされた後、アーノルドも捕虜交換に応じ、5月27日から30日の間で実施された[61]

ケベック市に到着した援軍

ジョン・バーゴイン将軍、イギリス側援軍の指揮官

大陸軍

ウースター将軍は4月初旬に援軍を率いてケベック市郊外の大陸軍宿営地に到着した。さらに南から少数の援軍が到着し続け、4月末にジョン・トーマス将軍が到着して指揮を引き継いだ時、全軍は2,000名以上になったが、実際には天然痘やカナダの冬の厳しさのためにかなり減っていた。5月2日にイギリスの艦船が川を上ってくるという噂が流れた。トーマスは5月5日に病人をトロワリヴィエールまで退かせ、残った部隊も実行できる限り速く撤退することに決めた。その日遅く、15隻の艦船がケベック市の下流40リーグ (190 km) に居り、川を遡るための好条件を待っているという報せが入った。翌日に艦船のマストを視認できたときには、宿営地退去の動きが慌しいものになった。風向きが変わり、艦隊の中の3隻がケベック市まで達した[62]

イギリス軍

レキシントン・コンコードの戦いの報せがロンドンに届いた後、フレデリック・ノースの内閣は反逆者軍と戦う為に外国軍隊の支援が必要になると理解し、北アメリカでヨーロッパ同盟国の部隊を使わせてもらえるよう交渉を始めた。ロシア帝国エカチェリーナ2世からは拒絶されたが、ドイツの諸侯国からは支援の用意があることが伝えられた。1776年にイギリスが立ち上げた5万名の軍隊のうち、3分の1近くはこれら諸侯国からの兵士だった。ヘッセン=カッセル方伯領やヘッセン=ハーナウからの兵士はヘシアンと呼ばれるようになった[63]。5万名のうち、約11,000名はケベックでの従軍に送られた[64]。ヘッセン=ハーナウとブラウンシュヴァイク=リューネブルクからの兵士は1776年2月にアイルランドコークにむけて出帆し、そこでイギリス軍を運ぶ輸送船団に合流し、4月初旬に出港した[65]

カールトンは大陸軍宿営地の行動の速度について知らされ、直ぐに到着した艦船から援軍を降ろし、正午頃には大陸軍に探りを入れるために約900名の部隊で前進した。大陸軍の反応は実質的に恐慌状態だった。カールトン隊が前進を早めると算を乱した撤退はさらに悲惨な状態を呈した。カールトンは寛大なやり方でも反逆者軍に勝てることを期待し[66]、艦船を上流に送って大陸軍に嫌がらせを行わせ、恐らくは行く手を遮ってくれることを期待して満足していた。カールトンは大半が病人か負傷者の大陸軍兵士を多く捕まえたが、セントローレンス川南岸で遺棄されていた分遣隊も捕まえた。大陸軍は逃げるのに忙しく、大砲や火薬など貴重な軍需物資の多くも残していった[66]。大陸軍は5月7日に、ケベック市から約40マイル (64 km) 上流のデシャンボーで再結集した。トーマスはそこで作戦会議を開いたが、指揮官たちの大半が退却に賛成した。トーマスはデシャンボーに500名を残し、残り部隊はソレルに行くことを決め、兵士の多くがその背嚢に着るものもほとんど無く、食糧も数日分しか無かったのでモントリオールに援助を仰ぐ伝令も送った[67]

モントリオールにいた大陸会議代表団はこの報せに接して、セントローレンス川を守ることは不可能と判断し、デシャンボーには極少数の部隊を派遣しただけだった。トーマスはモントリオールからの報せを6日間待ち、何も得られなかったので、トロワリビエールに向けての退却を始めたが、その後間もなく川のイギリス艦から降りた部隊との小競り合いが始まった。大陸軍は5月15日にトロワリヴィエールに到着し、そこでは病人を残し、また彼らを守るためのニュージャージ出身の分遣隊も残した。18日までに残りの部隊はソレルでウィリアム・トンプソン指揮下の援軍と合流し、21日には大陸会議代表団との作戦会議が持たれた。トーマスはその日に天然痘を発病し、6月2日に死んだ。後継はトンプソンになった[68]

カールトンの反撃

ガイ・カールトン

1776年5月6日、イギリス海軍のチャールズ・ダグラス海尉が指揮する小戦隊が物資と3,000名の兵士を積んでケベック開放のために到着し、艦船がケベックシティに到着し、大陸軍のソレルまでの撤退に繋がった[62]。しかしカールトン将軍は積極的な攻勢を採らず、5月22日になって第47および第29連隊と共にトロワリヴィエールに向かった。レ・セドルでフォスター隊がうまく成果を収めた報に接すると、攻勢を掛ける代わりにケベック市に戻り、トロワリヴィエールの部隊指揮はアレン・マクリーンに任せた。ケベックでは6月1日に到着したジョン・バーゴイン将軍と出合った。バーゴインは大半がアイルランドからの募兵とヘシアンからなる大部隊と豊富な資金を運んできていた[69]

トロワリヴィエール

ソレルに居た大陸軍は、トロワリヴィエールに「わずか300名」がいるだけとの情報を受け取り、ソレルからトロワリヴィエールに部隊を派遣して占領し、戻って来れると判断した。トンプソン将軍はイギリス軍援軍の主力が到着したことを知らず、またその町の地形も無視したままに2,000名の部隊を率いてその湿地に進み、そこで援軍を受け塹壕に入って待ち受けたイギリス軍の歯牙に掛かった(トロワリヴィエールの戦い)。このときの惨事には、トンプソンとその上級士官の多く、兵士200名と遠征に使ってきた船舶が捕獲されることが含まれ、大陸軍によるケベック地方の占領の終わりを告げるものになった。このときジョン・サリバンが指揮していたソレルの大陸軍は退却した[70]。カールトンはこのときもその利点に付けこもうとはせず、8月には寛大にも捕虜をニューヨークに戻すことまでやった[71]

クラウンポイントへの退却

6月14日の早朝、カールトンはやっとその軍隊を船で遡らせてソレルに送った。その日遅く到着した時には、大陸軍がその朝にソレルを放棄しており、シャンブリーとセントジョンズに向けてリシュリュー川を上りつつあることが分かった。ケベックからの後退の時とは異なり、大陸軍はいくらか秩序だった後退を行っていたが、幾らかの部隊はカールトン艦隊の到着によって本隊を離れ、アーノルドの部隊と合流するためにモントリオールに向かった[72]。カールトンはバーゴインに4,000名の部隊を率いてリシュリュー川を上らせ大陸軍の後を追わせる一方、自分はモントリオールに向かって帆走を続けた[73]

モントリオールではアーノルドが下流で起こっている事態を知らず、フォスターとの交渉を終えたばかりだった。5月15日にサリバン将軍からの報せを受けるために下流のソレルに送った伝令がカールトンの艦隊を目撃し、岸に逃れて盗んだ馬でモントリオールまで戻ってその報せを伝えた[73]。アーノルドとモントリオール周辺にいた守備隊は4時間の内に市を放棄し(モントリオール市を焼き落とそうとは務めた)、そこは地元の民兵隊の手に残した。カールトンの艦隊は6月17日にモントリオール市に到着した[74]

USS フィラデルフィアバルカー島の戦いに参戦した

アーノルドの部隊は17日にセントジョンズ近くで本隊に追いついた[74]。サリバンの軍隊は戦える状態ではなく、簡単な作戦会議によってクラウンポイントまで退却することが決まった。この軍隊はバーゴインの前衛部隊が到着する文字通りまさにその瞬間にセントジョンズを離れた[75]

大陸軍の残党は7月初旬にクラウンポイントに到着した。この作戦の大半を経験した医者であるアイザック・センターが「おそらくはどこの国の年譜にも見出させないような特異で比べようも無い挫折と苦しみの不均一な連鎖」と表現した作戦の終わりだった[76]。イギリス軍はまだ動いていたので、作戦は完全には終わっていなかった。

造船と政治

大陸軍がリシュリュー川とシャンプレーン湖を撤退するとき、イギリス軍が船舶を使えないようにするために、それらを焼きあるいは沈めるということにはあらゆる時点で注意を払った。このことでイギリス軍は船舶を建造する為に数ヶ月を要することになった。カールトンは9月28日にロンドンに宛てて報告書を送り、「私はこの艦隊が間もなく出帆でき、戦闘で得られる成功を期待している。」と伝えた[77]。アーノルドはイーサン・アレンと共に1775年5月にタイコンデロガ砦を占領した時、小さな海軍を作っており、それがこの時もシャンプレーン湖を偵察していた。

イギリス軍がアーノルドの戦隊に対抗するために海軍を作っている間に、カールトンはモントリオールの事後処理を行った。大陸軍がケベック市から撤退する前であっても、地元の愛国者側同調者が演じた役割を調査する委員会を形成しており、委員を田園部に派遣してアメリカ側の活動に積極的に参加した者を逮捕した。その中にはロイヤリストを拘束した者も含まれた[78]。カールトンがモントリオールに到着した時にも同様な委員会が設定された[77]

バルカー島の戦いでの隊形を示す地図

バルカー島

7月初旬にホレイショ・ゲイツ将軍が大陸軍北部方面軍の指揮を任された。ゲイツは直ぐに軍の主力をタイコンデロガに写し、クラウンポイントには約300名の部隊を残した。この軍隊はタイコンデロガの防御を厚くすることに忙しく、アーノルドはクラウンポイントでアメリカ艦隊を造る任務を与えられた。夏の間、援軍がタイコンデロガ砦に集まり、総勢は推計1万名にもなった[79]

カールトンは10月7日に行軍を始めた。9日にはイギリス艦隊がシャンプレーン湖上に浮かんだ。10日から11日の夜に始まったバルカー島と湖の西海岸付近での戦いでは、イギリス軍がアーノルドの艦隊に大きな損傷を出させ、クラウンポイントまで撤退させた。アーノルドはクラウンポイントではイギリス軍の攻撃に対して耐えられないと考え、さらにタイコンデロガまで後退した。イギリス軍は10月17日にクラウンポイントを占領した[80]

カールトンの軍隊はクラウンポイントに2週間留まり、幾らかの部隊はタイコンデロガ砦から3マイル (5 km) の所まで進出し、ゲイツの軍隊を誘い出そうとした。11月2日、イギリス軍はクラウンポイントを離れ、ケベックで冬季宿営を行うために撤退した[81]

戦いの後

ケベック侵攻はアメリカにとって悲惨な結果に終わったが、ケベックからの撤退時におけるアーノルドの行動とシャンプレーン湖での即席の海軍はイギリス軍の全面的な反撃を1777年まで遅らせることに功があったとされてきた[82]。カールトンは大陸軍のカナダからの撤退を徹底して追撃しなかったために、バーゴインから厳しく批判された[83]。この批判とカールトンが本国の植民地問題担当大臣で国王ジョージ3世の政府で戦争遂行の担当者だったジョージ・ジャーメイン卿に嫌われていたという事実のために、サラトガ方面作戦の指揮はジョン・バーゴインに任されることになった。このことでカールトンはケベック総督を辞することに繋がった[84]

ケベックやその他のイギリス領植民地を征服する事は独立戦争の間の大陸会議の目標として続いた。しかしこの遠征を支持していたジョージ・ワシントンは、それ以上の遠征は13植民地での主戦線から兵力や資源をあまりに多く分散させるものとして優先順位を低くし、その後はケベックに向けての遠征はほとんど実現しなかった[85]

1783年パリ条約交渉のとき、アメリカの代表団は戦利品の一部としてケベック全てを要求したが失敗した。ベンジャミン・フランクリンは1774年のケベック法によってケベックの一部とされていたオハイオ領土に主要な興味を抱いていた。この和平会談ではケベックの明け渡しを提案し、オハイオのみが割譲された[86]

1812年米英戦争で、アメリカは再度イギリス領北アメリカへの侵攻を開始した。このときも地元の民衆がアメリカを支持するものと期待していた。その侵略が失敗したことはカナダの歴史でも重要なことと見なされており、現代のカナダのアイデンティティが生まれたと言われている[87]

脚注

  1. ^ 大陸軍の戦力は、何度も援軍が送られ、また多くの者が病気になって送り返されたり死んだりしたために集計が難しい。1776年5月時点での軍隊は5,000名と推計されたが、かなりの比率で軍務には不適な者が含まれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気や徴兵期間の終了のために故郷に戻った者や、以前の戦闘で戦死または捕虜になった者、あるいはアーノルド遠征で引き返した者も含んでいない。1776年6月、ジョン・サリバンが3,000名以上を率いてソレルに到着した (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征隊が500名を失い (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックの戦いで400名以上が捕虜になり、少なくとも900名はセントジョンズ砦包囲中に病気で送還されたとすれば、10,000名という推計はケベックに送られた勢力として合理的なものになる。ただし1つの時点で有効だった勢力はもっと小さなものと考えられる。
  2. ^ Simeon, p. viiに拠れば、大陸軍侵略開始時点でのイギリス軍は正規兵700名だった。セントジョンズ砦とケベックでは民兵の支援があったとされ、主要な戦いでは総勢が1,800名になっていた(Smith (1907), vol 1, pp. 342-3 and Alden, p. 209)。1776年6月にチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインの率いる援軍が到着し、総勢は10,000名と民兵さらにインディアントなった(Smith (1907), vol 2, p. 430)。
  3. ^ Smith (1907), vol 1, p. 242
  4. ^ Kingsford (vol 5), pp. 1-10
  5. ^ Kingsford (vol 5), p. 391
  6. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 182-183
  7. ^ Alden, pp. 195-198
  8. ^ Smith (1907), vol 1, p. 178
  9. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 179-242
  10. ^ a b Alden, p. 202
  11. ^ Coffin, pp. 496-497
  12. ^ Alden, p. 199
  13. ^ Lanctot, p. 53
  14. ^ Smith (1907), vol 1, p. 293
  15. ^ a b c Glatthaar (2006), p. 91
  16. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 295-296
  17. ^ Glatthaar (2006), pp. 91-93
  18. ^ Glatthaar (2006), p. 93
  19. ^ Glatthaar (2006), p. 94
  20. ^ Lossing, pp. 227-228
  21. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 309-310
  22. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 291-292
  23. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 317-324.
  24. ^ Smith (1907), vol 1, p. 357
  25. ^ Glatthaar (2006), p. 97
  26. ^ Glatthaar (2006), p. 98
  27. ^ Smith (1907), vol 1, p. 335
  28. ^ Smith (1907), vol 1, p. 384
  29. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 388, 410
  30. ^ Lossing, p. 229
  31. ^ Smith (1907), vol 1, p. 474
  32. ^ Stanley, pp. 67-70
  33. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 487-490
  34. ^ Everest, pp. 31-33
  35. ^ Gabriel, p. 141
  36. ^ Shelton, pp. 122-127
  37. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 398-399
  38. ^ Smith (1907), vol 1, p. 515
  39. ^ Arnold's expedition is described in detail in e.g. Smith (1903) and Desjardins (2006).
  40. ^ Simeon, p. xiv
  41. ^ Kingsford (vol 5), p. 463
  42. ^ Alden, p. 206
  43. ^ Smith (1907), vol 2, p. 98
  44. ^ Gabriel, pp. 185-186
  45. ^ Proc. RSC 1886, pp. 85-86
  46. ^ Smith (1907), vol 2, pp. 111-147
  47. ^ Everest, p. 35
  48. ^ Lanctot, p. 126
  49. ^ Lanctot, p. 130
  50. ^ Lanctot, pp. 131-132
  51. ^ Lanctot, p. 133
  52. ^ Stanley, p. 110
  53. ^ Stanley, p. 111
  54. ^ Stanley, pp. 112-113
  55. ^ Stanley, p. 115
  56. ^ a b Lanctot, p. 141
  57. ^ Stanley, p. 116
  58. ^ Stanley, p. 117
  59. ^ a b Stanley, p. 118
  60. ^ Stanley, pp. 119-121
  61. ^ Stanley, pp. 121-123
  62. ^ a b Smith (1907), vol 2, pp. 294-295
  63. ^ Nickerson, p. 46
  64. ^ Nickerson, p. 92
  65. ^ Ketchum, pp. 89-96
  66. ^ a b Lanctot, p. 139
  67. ^ Smith (1907), volume 2, pp. 345-346
  68. ^ Stanley, pp. 126-127
  69. ^ Stanley, pp. 126-127
  70. ^ Stanley, pp. 127-128
  71. ^ Stanley, p. 128
  72. ^ Stanley, p. 129
  73. ^ a b Stanley, p. 130
  74. ^ a b Stanley, p. 131
  75. ^ Stanley, p. 132
  76. ^ Stanley, pp. 132-133
  77. ^ a b Stanley, p. 134
  78. ^ Stanley, p. 124
  79. ^ Stanley, p. 136
  80. ^ Stanley, pp. 137-143
  81. ^ Stanley, p. 144
  82. ^ Morrissey, p. 87
  83. ^ Nickerson, p. 71
  84. ^ Nickerson, p. 102
  85. ^ Smith (1907), volume 2, pp. 459-552
  86. ^ Rideau, Roger. A Brief History of Canada. Facts on File. pp. 79. 
  87. ^ Dale, p. 8

関連項目

参考文献

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