オゴデイ・ウルス

オゴデイ・ハン国とは、中央アジアエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に13世紀前半から1306年まで一貫して存続していたとかつて想定されていたモンゴル帝国の分枝政権。国名はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国の第2代ハーンとなったオゴデイ(オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。

オゴデイは、1206年にチンギス・ハーンがモンゴル高原を統一してハーンに即位したとき4個千人隊(4千戸)の遊牧民ウルス(所領)として与えられ、モンゴル帝国が西方に拡大するにつれてアルタイ山脈の西麓、イルティシュ川の上流を遊牧した長兄ジョチと、天山山脈イリ川渓谷に遊牧した次兄チャガタイの両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯の牧地に遊牧した。

1229年、オゴデイが大ハーンとなると、オゴデイはモンゴル高原の中央であるハンガイ山脈山麓のカラコルム地方に移り、エミルの牧地とウルスはオゴデイの長男グユクに譲られた。グユクは1246年に父を継いでハーンに即位するが、エミルのウルスは自身で所有したままカラコルムに移った。こうしてオゴデイ・ウルスは大ハーンの直轄領として帝国中央から自立した政権とはますます言い難い状況になるが、2年後の1248年、グユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死した。

グユクの死後、実力で第4代ハーンの座を奪取したオゴデイの弟トルイの子モンケは、権力の座を追われたオゴデイの遺児たちがチャガタイ家と結んでモンケ暗殺をはかった事件をきっかけにオゴデイ家の大粛清を行った。これによりグユクの寡婦オグルガイミシュを含むオゴデイ家の有力者が追放・処刑され、グユクが持っていたオゴデイ家の所領も生き残りの王族の間に細分して与えられ、オゴデイ・ウルスは事実上解体した。

モンケの死後、その弟フビライアリクブケがハーン位をめぐって争い、オゴデイ家へかかる圧力が軽減されると、オゴデイ家の諸王子の中からオゴデイの孫ハイドゥが台頭した。ハイドゥはやがてチャガタイ・ウルスやアリクブケの諸子のウルスをまとめる盟主へと成長し、定住民の居住するトランスオクシアナの旧大ハーン直轄領を支配下に収めた。しかし、オゴデイ一門の中でもオゴデイの子コデンに属するウルスなど、河西甘粛省)にいた諸王族はフビライの大元に従って、ハイドゥらと対立しており、かつてのオゴデイ・ウルスが全ウルスをあげてハイドゥに従ったわけではない。

以上で述べられたように、オゴデイ家のウルスは一体として存続していたチンギス、オゴデイ、グユク、モンケの治世には独立した国家(ハン国)として機能していたか疑わしい。また、ハイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたもので、史料上でも「ハイドゥの国」などの名で呼ばれており、当時の人々にハイドゥがオゴデイ家のハンであると見られていたわけではなかったとみなされ、彼自身の君主としての称号もハンではなく、「兄」を意味する「アカ」と呼ばれていたらしい事実が注目されている。したがって、近年の研究では「オゴデイ・ハン国」という呼び方はあまりなされなくなっている。

ハイドゥの死から5年後の1306年、ハイドゥに従っていたチャガタイ家のドゥアはハイドゥの遺児を追ってオゴデイ家の支配を覆すことに成功した。こうしてチャガタイ家に乗っ取られた後の「ハイドゥの国」を歴史家はチャガタイ・ハン国と呼んでいる。