アレクサンドル・ゴルチャコフ

アレクサンドル・ゴルチャコフ

アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ公爵Александр Михайлович ГорчаковAlexandr Mikhailovich Gorchakov1798年7月4日グレゴリオ暦7月15日) - 1883年2月27日(グレゴリオ暦3月11日))は、帝政ロシア政治家外交官19世紀ロシアにおける最も傑出した外交家として評価される。その一方で露土戦争の後、生じた東方問題では、ベルリン会議にロシア全権代表として出席するが、会議の結果、サン・ステファノ条約で獲得したロシアの権益を覆され、引退に追い込まれている。

生い立ち

1798年ロシア帝国領であったエストニアに生まれる。ツァールスコエ・セローのリツェイ(貴族高等中学校。学習院、近侍学校などとも訳される)に学び、同級生にプーシキンがいる。ツァールスコエ・セロー・リツェイでは、優秀な学生であり、語学特にフランス語に才能を示した。プーシキンは、この同級生の未来における成功を予言する詩を物している。

外交官時代

1824年ロシア外務省に入省し、外交官生活入りする。ゴルチャコフの外交官としての最初の仕事は、オリガ大公女とヴュルテンベルク公子カルルの結婚の交渉であった。婚儀成立後もゴルチャコフは、公使としてシュトゥットガルトに残り、本国に対してドイツ情勢を伝えた。ゴルチャコフの慧眼は、1848年フランス二月革命(1848年革命)がドイツオーストリアに伝播することを見抜き、オーストリア皇帝フェルディナンド1世の退位と新帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位を支持した。フランクフルト国民議会は頓挫し、ドイツ連邦(ドイツ同盟)が復活する。ゴルチャコフはドイツ連邦会議ロシア全権代表として赴任し、ドイツの情勢を分析・報告した。ゴルチャコフがビスマルクと最初に出会ったのがこのときである。以後、ゴルチャコフとビスマルクは親交を結ぶに至った。

皇帝ニコライ1世は、オーストリア大使メイエンドルフ男爵を解任し、後任のオーストリア大使にゴルチャコフを任命した。クリミア戦争でロシアが敗北するとゴルチャコフは戦後処理に奔走する。1856年パリ講和条約では、ロシア全権大使であったアレクセイ・フョードロヴィッチ・オルロフ公爵を補佐するが、パリ条約署名に当たっては、故意に署名をしなかった。こうした紆余曲折はあったが、皇帝アレクサンドル2世はゴルチャコフの外交手腕を高く評価し、ネッセルローデ伯の引退後、後任の外務大臣にゴルチャコフを任命することとなる。

ベルリン会議(アントン・フォン・ヴェルナー画) 左側に腰掛けているのがゴルチャコフ。ゴルチャコフは、ディズレーリの手を取っている。

外相時代

ビスマルクとの対決

日露関係では、千島樺太交換条約締結の際、ロシア側代表として榎本武揚との間で交渉を担当した。


先代:
ネッセルローデ
ロシア帝国外務大臣
1856年1882年
次代:
ニコライ・ギールス